真実な交わり

2021年6月6日 礼拝メッセージ全文

ヨハネの手紙一 1章1~10節

今月は、ヨハネの手紙一を読んでゆきます。ヨハネの手紙は、「神は愛です(4章16節)」の言葉に集約されるように、「愛」を一つのテーマとして語っています。

その中で、今日の箇所の1章は、クリスチャンがどのように神の愛を知ることができるのか、ということについて伝えています。それは、「交わり」ということを通して与えられるものであることが分かります。

初めに1節~4節では、ヨハネがどのような交わりの中で神の愛に触れたのかが伝えられています。

1節「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について」

ヨハネは、「命の言」すなわちイエス・キリストについて、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」と書いています。つまり、イエス様は、言い伝えや空想上の人物ではなく、彼が実際にその姿を見て、実際にその声を聞いて、実際にその体に触った人であったということ、確かにこの地上に生きた方であったということです。

新約聖書の中の四つの福音書には、そのようなイエス様が、実際にどのように生きられたのかが書かれています。中でもヨハネによる福音書の中で、ヨハネは自分のことを「イエスの愛しておられた弟子」と書いているほど、イエス様の愛をその肌で感じた人であったことが分かります。ヨハネは、最後の晩餐の食事のとき、イエス様の胸元によりかかって話しかけていた、とも書かれています。彼はそれだけ間近で、イエス様の息遣いを感じた人だったということが分かります。

そのように、イエス様の福音、すなわち救いの知らせとは、イエス様と直接に交わりを持った人々から伝えられました。私たちはそのような証しの言葉を今、聞いています。しかし、イエス様の十字架と復活から約2千年後に生きる私たちは、彼らと同じようには、イエス様と直接接することはできません。それでも、そのような私たちが神様と交わりを持つことができる方法があります。それは、イエス・キリストを自分の救い主であると信じることです。

3節「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」

ヨハネは、自分が福音を伝えるのは、「あなたがたもわたしたちと交わりを持つようになるためです」と語っています。それはつまり、私たちが福音を信じるということは、それによって、同じ一つのキリストの体につながるものとなるということを示しています。そして、それは、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」つまり、私たちが神様自身とつながるということでもあるということです。神様との交わりと、イエス様を信じる者同士の交わりは、同じ一つのことを指しています。

どうしてそのようなことが可能なのでしょうか?ここまで、「交わり」という言葉がたくさん出て来ましたが、「交わり」という言葉自体は、教会の外ではほとんど使うことのない言葉であると思います。「交わり」とは、新約聖書原文のギリシャ語では、コイノニア、という言葉です。これは、同じものに参加するとか、同じものを受け取るという意味の言葉です。今風の言葉で言えば「シェアする」ということになるでしょうか。それでは、私たちは交わりの中で何をシェアしているのでしょうか。それは、1節にあるように「命の言」、すなわちイエス様というお方自身です。イエス様という存在そのものを分かち合うこと、これこそが交わりの本質であると言えます。私たちは、神様との個人的な交わりの中で、イエス様という方の自分に対する恵みや語りかけを受け取ります。また、人々との色々な形での交わりの中で、私たちはイエス様という方をより深く知ってゆくことができます。

この交わりがどのようなものかについて、今日の箇所の5節~10節は教えています。それは、この世の他の仕方では決して得ることのできない、真実な交わりです。

5節「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです」

聖書は、神様が光であるということを繰り返し伝えています。この世にも、色々な光があります。様々な輝かしい、魅力的な人や物事が存在します。しかし、この地上に存在する光は、完全な光ではありません。その光には限りがあり、どんなに素晴らしい人や物の中にも、闇が存在しています。しかし、神の光は完全な光であって、その中には闇が全くないと、この箇所で言われています。私たちが神様との交わりに入っていくということは、そのような完全な光の中に入っていくということです。

それは、私たち人間にとって、決して心地よい経験ではありません。それはちょうど、朝の光のようなものです。朝、もう少し寝ていたいという人にとっては、その光は眩しすぎます。それで、一度は起きても、もう一度布団の中にもぐっていってしまうかもしれません。そのように神様の光は、夜のように暗い私たちの暗闇を照らし出します。これが人間の罪です。その罪の性質は、人間を闇の中にとどまろうとさせます。

6節「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません」

この節は、闇にとどまろうとしてしまう人間の状態を言い表しています。どんなに神様を信じていると言っても、私たちがただその神の光を遠くから眺めているだけで、闇の中にとどまっているのなら、それはうそをついているのであると言われています。神を信じると言いながら、その神様との交わりの中に生きていないからです。

それでは、神との交わりを生きるとは、どのような生き方のことでしょうか。

7節「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」

ここで、神様との交わりを生きることは、「光の中を歩む」ことだと言われています。しかしこれは、私たち自身が光になろうとするのではありません。すべての人の心の中には、暗闇が存在しています。私たちは神様ではありませんから。完璧な「善い人間」になることなど、誰もできません。

「光の中を歩む」とは、そのように自らの内に暗闇を抱えつつも、神の光の中に飛び込んでいく生き方を表しています。それは、自分のありのままの姿を、神様に委ねるということです。正直に、自分の内側にあるものを神様に委ね祈るとき、神様は私たちのことを受け止めて下さいます。そのような、真実な交わりを持つことを、神様は願っておられます。

それは、「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」ということを経験することです。神様が暗闇を照らされるのは、「粗探し」をするためではなく、私たちを赦し、清めるためです。そのために、イエス様ご自身の血が注がれています。イエス様は、私たちの罪を赦すために十字架にかかられ、血を流して下さいました。この血によって、私たちと神様との交わりは、血の通った生き生きとしたものになります。うわべだけの取り繕った関係ではなく、信頼と感謝をもって、神様と向き合うことができるようになってゆきます。

そのように神様との真実な交わりを持つ時、私たちは、お互いの間でも真実な交わりを持つようになってゆきます。7節には「互いに交わりを持ち」とあります。これは、私たちと神様との交わりであると同時に、私たちお互いの間での交わりでもあるのです。

神様は、「人が独りでいるのは良くない(創世記2章18節)」と言われました。こうして、最初の人アダムに助け手であるエバが与えられました。そのように、神様は私たちに、共に神様の恵みを分かち合う存在を与えて下さいます。それは、家族であるかもしれませんし、友人や、教会の兄弟姉妹であるかもしれません。それが誰であるかが大切なのではなく、神様は「交わり」の中を生きるように、そして、その中で神の愛が表されることを願われました。

私たちの交わりが神の光で照らされるとき、それはやはり、そこにある暗闇を明らかにします。お互いの中にある弱さや罪、傷が明らかになってゆくのを見ることになります。世の中では、それを見ないふりをしていくのが当たり前かもしれません。お互いに妥協したり、あまり思い込まないようにしたりすること、それは世渡りには必要なスキルであるかもしれません。しかし、私たちクリスチャンの交わりは、そのようなものではありません。そこには、イエス・キリストを通して注がれる神の光があり、その光は、私たちが光の中を歩むように呼び掛けています。そしてそこにはまた、御子であるイエス様の尊い血が注がれています。その血によって、それぞれは神に赦された者であるということを信じることができます。私たちは、そのように赦された者として、お互いのことを赦し合うように、招かれています。

9節「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」

ここには、「公に言い表す」という言葉があります。これは、原文では「告白する」という言葉が使われています。私たちが神様にまず、自分のありのままの状態を告白することが大切であるということです。しかしそれは、自分と神様との関係だけでなく、私たちのお互いの間の関係にも影響を及ぼします。それはすべてのありのままを他の人に告白しなければならない、ということではありません。しかし、神様との間に真実な交わりを持つ人は、他の人々との間でも、真実な交わりを持つことができるようになってゆきます。まず自分が神様から赦され、愛されていることを信じて、そのような自分を恐れずに分かち合うことができるようになるからです。

 

今日の箇所を通して、私たちは、イエス様の十字架によって示された神の愛によって、主との交わりを与えられ、そして、お互いの交わりを与えられているということを改めて知ることができます。感謝します。今日はこれから、主の晩餐式を行います。これは正に、交わりというものを体験する時です。十字架で裂かれたイエス様の体と、流された血潮を覚えて、私たちはパンとぶどう液をいただきます。このことを通して、私たちは神様との間に真実な交わりを持つことができます。そして、私たちはこの恵みを、一緒に皆さんでいただきます。それは、私たちの一人一人が、イエス様の十字架によって、同じように罪赦された者であるということを分かち合う、交わりの時です。この交わりの時を、感謝をもって過ごしてゆきましょう。