神の安息への道

2020年9月27日 礼拝メッセージ全文

出エジプト記 32章 1~14節

 

今週で、出エジプト記は最終回となりました。今日の箇所は出エジプト記32章1~14節、イスラエルの民が金の子牛の像を作ってしまったという箇所です。しかしその箇所に入る前にこの直前の箇所の、31章12~17節を見てみたいと思います。ここでは、安息日のことが伝えられています。先日、私自身お休みをいただいたからでしょうか、この箇所が目に留まりました。

31章13節「あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである」

 

1週間のうち六日は仕事をしても、七日目は安息日としていかなる仕事もしてはならない、と主なる神様はイスラエルの民に命じられました。このことは、先週の箇所である十戒の中にも出てきますし、またこの31章、さらに35章でも繰り返されています。それだけ、安息日を守るということが大切であると同時に、難しいことでもあったということが言えると思います。

今回、お休みをいただきまして、その内の二日間は、全く何もしない、という日を持つことにしました。息子は夕方まで保育園に預け、食事は調理の必要ないものにし、洗濯も掃除もしないで、極力何もしないで一人で過ごす、という日を、夫婦で交互に一日ずつ、とることにしました。しかし、これがやってみると、思ったほど簡単ではありませんでした。横になっていても、お昼は何を食べようか、と考えてしまったり、眠ろうとしても、色々な心配事が頭に浮かび、気が付くと頭の中で仕事をしています。何もしないで休む、というのは、すべてを神様にゆだねていないとできないことなのだと気づきました。

安息日とは、私たちが何もしなくても、主がすべてを備えてくださり、すべてを治めておられるということのしるしであるということです。天地創造の七日目に、神様がすべてを終えて休まれたというのは、正にそのことを表しています。神様が安息日の戒めを与えられたのは、人々がそのような安息に基づいた生き方を求めるようになるためでした。

 

1.目に見える偶像を求める人間

そのことを踏まえて、今日の箇所の32章で描かれているイスラエルの民を見てみると、彼らの姿は、安息日が指し示す信仰の姿勢とは真逆のものであると言えます。

それはまず、待つことのできないイスラエルの民の姿に表されています。イスラエルの人々は、モーセが山から下りて来るのを待っていました。モーセが山に登っていた期間は、40日間であったと別の箇所に書かれています。荒れ野をさまよった40年間という期間を考えれば、40日という日数は、ほんの少しの時間です。しかし、その少しの時間の間でも、人々は、待ち続けることができませんでした。そして、モーセについては、「エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言っています。目に見えるモーセという存在がいなくなると、自分たちを導いておられる神様の存在を信じられなくなりました。それは人間がいかに、目に見えるものに左右されているかということを示しています。

そのような人々がしたことは、偶像を造ったということです。偶像とは、人間が自分の願望を満たすために、自ら造り出すものです。イスラエルの人々は、アロンに「我々に先立って進む神々を造ってください」と頼みました。そしてアロンが金の子牛の像を造ると、人々は「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言いました。彼らにとって、中身はなんでも良かったのです。ただ、目に見えて心のよりどころとなる存在が必要だったのです。それで、十戒の中で、いかなる像も造ってはならない、と明確に禁じられているのに、偶像を造り、これを拝みました。

偶像とは、このような金の子牛のように、明らかにそれと分かるようなものの場合もありますが、一見偶像には思われないものが偶像になってしまう場合もあります。私たちも気が付かない内に、偶像を拝んでいるという場合があります。例えば、人が偶像になるということは、良く起こることです。イスラエルの人々は、モーセを偶像としていた、つまり自分たちの願いを叶えるための道具として用いようとしていた、ということが今日の箇所から分かります。そしてモーセが自分達の願いを叶えてくれないなら、その兄のアロンに、と今度はアロンを偶像にしようとしています。結局、不完全な存在である人間を偶像としている限り、私たちの願望が満たされ続けることはありません。それがどんなに素晴らしい人であっても、どんなに美しいものであっても、どんなに楽しいことであっても、その存在によって自分の心を満たそうとするなら、それは神ではない偶像を神として拝んでいるということです。

そのように、偶像を拝むということは、人間の欲望と直結した行為です。そのことは、イスラエルの民が、偶像を拝んだ後に行ったことにも表されています。彼らは、「座って飲み食いし、立っては戯れた」と6節に書かれています。これは、彼らの貪欲な振る舞いを指しています。飲んだり食べたりすること自体が悪いことであるということではありません。「戯れる」という原語の意味は、笑ったり遊んだりすることでした。それらのこと自体が問題というよりもむしろ、欲望のままに振る舞うことが問題となっています。イスラエルの民は、欲望の赴くままに飲み食いし、戯れました。それは、偶像を拝む彼らの生き方の現われでした。使徒パウロは、そのことを次のように端的に言い表しています。

「貪欲は偶像礼拝にほかならない(コロサイの信徒への手紙5章3節)」。

 

私たちの欲望を満たすために、貪欲に何かを求めるならば、それは偶像を拝んでいるのと同じであるということを、パウロは警告しています。今日の箇所は、そのように偶像と自らの欲望に支配されたイスラエルの民の姿を映しています。彼らは、出エジプトの出来事によって、奴隷の状態から解放されていました。しかし、彼らはまだ心の中の偶像から解放されていませんでした。荒れ野をさまよった40年の間、彼らは神様を選ぶのか、偶像を選ぶのか、という選択を迫られました。今日の箇所では、彼らが神様ではなく、偶像を選んでしまった、ということが示されています。そのことによって、神様は怒られ、この時生きていたイスラエルの人々は、後に、ヨシュアとカレブという二人を除いては、皆滅びてしまったということが伝えられています。それは、人間が、欲望に従って偶像を拝むなら、滅びに至ってしまうということを警告しています。

 

2.執り成しが必要な人間

しかし、そのような私たち人間のために、神様は執り成す者を与えられました。今日の箇所の後半部分では、モーセが、人々が神の怒りによって滅ぼされてしまわないように、神に執り成し祈ったということが伝えられています。執り成しとは、神と人との間に立つということです。これまでもモーセは、神の御言葉を人々に伝えるという働きをしてきましたが、ここでは、人々に代わって神の怒りをなだめるという執り成し手としての働きをしています。これは、イエス様が、人間の罪のために、執り成しをして下さったということ、そして今も執り成して下さる、ということを指し示しています。モーセは40日間、シナイ山の上で、神様からの御言葉を受けるために過ごしました。その同じ40日間、イエス様は、荒れ野で悪魔の誘惑を受けるために過ごされました。このことが、マタイによる福音書4章1~11節に書かれています。この箇所を読むと、イエス様が悪魔から荒れ野で受けられた誘惑と、今日の箇所でイスラエルの民が荒れ野で直面した誘惑は、似た種類のものであるということが分かります。悪魔はイエス様に対して、パンという食物をもって、人を驚かせる奇跡をもって、そして世界中の国々という権力・財力をもって、誘惑しています。これらは、目に見えるもの、人の目に魅力的なものを指し示しています。イスラエルの民も、モーセが山に登って見えなくなった時、目に見えるもの、形あるものを持ちたいという誘惑にかられました。それで彼らは誘惑に負けて、金の子牛の像を造ってしまいました。ところがイエス様は、悪魔の誘惑に負けることなく、御言葉でもって、これに打ち勝っています。目に見えるものではなく、御言葉に依り頼むことの大切さを、イエス様は示されました。しかし、私たち人間は、イスラエルの民と同じく、誘惑に弱い者です。簡単に目に見えるものに頼む生き方をしてしまいます。イエス様は、そのような目に見えるものに頼ってしまうという私たちの弱さと罪をすべて背負って、十字架にかかって下さいました。モーセが執り成しをした以上に、イエス様は、ご自分の命をささげられるまでに、偶像に頼る人間の罪のために、今も執り成しをしておられます。

 

3.御言葉によって安息を与えられる神様

イスラエルの民は、荒れ野で40年間、このような誘惑と試練の時を過ごしてゆきました。私たちも人生の中で、色々な試練や誘惑に遭うことがあると思います。その時に、イエス様がなさったように、目に見えるものではなく、神様から与えられた御言葉に依り頼んで生きるならば、そのことによってしか得ることのできない、本当の安息をいただく者とされます。

出エジプト記は、神様がイスラエルの民を、エジプトの奴隷から脱出させて下さったという出来事を描いています。その彼らが、最終的に彼らが行き着くべき場所は、約束の地、安息の地であるイスラエルでした。そのように、神様は、私たちをも、奴隷のようなこの世の束縛から解放を与えて下さいます。そして、神様によって用意された、安息へと入るように、導いておられます。その時に私たちがよって立つのは、神様の御言葉、イエス様を通して与えられる御言葉です。目に見えるもの、形ある偶像は、一時的な安心や満足は与えても、本当の意味での安息を与えることができません。しかし神様の御言葉は、変わることなく、朽ちることのない土台として、私たちの人生を導き、支えることができます。この御言葉に信頼して、日々を生きてゆきましょう。