油を断やさずに待つ

2021年3月7日 礼拝メッセージ全文

マタイによる福音書25章1~13節

 

私たちのそれぞれは、人生のある時、イエス様を出会い、イエス様を信じて、今、この場に集って礼拝をしています。私たちが信仰生活を送っている目的とは何でしょうか?今日の箇所は、私たちがイエス様を信じて生きてゆくこの人生の先に、神様と共に生きる永遠の命、そして神様と共に祝う祝福の宴があるということを伝えています。

マタイによる福音書を続けて読んでいますが、先週の箇所から、イエス様がエルサレムに入られ、十字架に向かって進まれる場面になりました。その中で、イエス様の人々に向けたメッセージは、天の国についてのことが中心でした。イエス様がエルサレムに入られて最初に行われたことは、神殿の宮清めです。イエス様がこのことをされたのは、神様を祈り求めるべき場所で、この世と同じような商売が行われていたからです。その箇所以降も、イエス様は、マタイの福音書22章、23章、24章と、この世のことではなく、天の国のことについて語られました。イエス様を信じることによって、すべての人に与えられる天の国にある、本当の喜び、平安、祝福についてです。

24章以降は、そのような天の国がやって来る、終わりの時について語っています。

「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」マタイ24:3

これに対してイエス様が返事をされましたが、とても長い返事となっています。実は、今日の箇所もその一部です。ですから、イエス様が再び来られるとき、どのようなことが起こるのか、そしてどのように備えたら良いのかということについて、今日の箇所は伝えています。

 

さて、今日の箇所では、十人のおとめと言う話が出てきます。十人のおとめは、教会を表しています。イエス様を信じている私たち一人一人の集まりを表しています。この十人のおとめ、すなわち教会は、イエス様が花婿として来られるのを待ち望んでいると伝えています。

イエス様は十字架にかかられ、復活されましたが、世の終わりにもう一度来られて、この天と地を完成して下さるということを聖書は伝えています。そして、私たちはその天の国において、神様と共に永遠に生きることができる、そして、祝福の宴に参加する者とされます。今日の箇所は、そのように、花婿を待ち望むために、必要なものが何であるのかということを伝えています。

まず一つは、この1節にあるように、灯です。当時は、電気もなく、夜は真っ暗でありました。しかし灯とは、ただ暗い夜を照らすためのものという意味ではありません。この世の暗闇を照らす灯であるということです。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」詩編119:105

聖書を通して伝えられているイエス様の福音は、この世の暗闇を照らす光であると聖書は伝えています。

この言葉を聞いた弟子たちや群衆たちも、イエス様の福音に希望の光を見いだして生きていました。そういう意味で、私たちと同じであると言えると思います。

しかし、花婿が来るのが遅れた、と書かれています。だんだんと夜は更け、闇が深まる真夜中がやって来ました。当時のユダヤ人の結婚の宴は夜に行われることが多いものでした。しかし、待ち続けているうちに、段々と疲れてしまい、その内に眠りについてしましました。しかも、十人のすべてが眠りについてしまったと言われています。これは、この世にあって、疲れや失望を覚える私たちの姿と重なるものであると言えます。多くの人は、人生の疲れや失望の中で、やがて来る天の国よりも、いま目の前にあるこの世の方に目が行ってしまいます。そして、本当に夜が明ける日が来るのだろうか、と不安に感じてしまうこともあると思います。

今日の箇所で、「真夜中」と言われているのは、正にそのように、疲れ切り、希望を失ってしまうような時のことを表しています。どんなに希望を持ち続けようと思っても、私たちは様々な問題に直面します。また、色々なことで疲れてしまいます。

「心は燃えても、肉体は弱い(マタイ26:41)」この言葉に表されているように、弟子たちですら、イエス様を待ち続けて祈ることができませんでした。私たちは、自分の力では、希望を保ち続けることはできないものです。そのような真夜中を私たちは経験します。

しかし、今日の箇所は、そのような真夜中にこそ、花婿である主が来られるということを伝えています。明るくて、私たちが力と希望にみなぎっている時であれば、簡単に神様を待ち望むことができるかもしれません。しかし真夜中には、私たちには何の力も残っていません。その時には、神様の力に頼るより他ありません。そのような時にこそ、主が私たちのもとに来て下さいます。それはつまり、私たちの予想もしない時に、主が来られるということです。それは、私たちが自分の力ではなく、主の力に頼るためでした。

 

今日の箇所は、そのように神様を待ち望むのに必要なものが、灯と、もう一つは、油であると伝えています。灯は、油を燃料として燃えます。しかし、油が無くなれば、火は消えてしまいます。これは、考えてみれば、当たり前のことです。それでもなぜ、愚かなおとめたちは、油を準備していなかったのでしょうか。

それは、一つには、灯を照らすということを、本当に自分のこととして受け取っていなかったからであると言えます。少し考えれば、油が必要であるということは、誰でも分かることです。しかし、そこまで真剣に考えることをしなかったのが、この愚かなおとめたちの姿であるということです。

それは、イエス様の福音を聞いていた当時の弟子たちや群衆に向けられた言葉であり、また、私たちに向けられた言葉でもあります。私たちは、イエス様が、十字架にかかられて、復活されて、そして、わたしのために、また再び戻って来られるということを、どこまで自分のこととして受け取っているでしょうか。このことをどのように受け取るかによって、とる行動が変わってきます。

賢いおとめたちは、このことを、自分のこととして受け取りました。だからこそ、油を用意して待っていることができたのです。たとえどんなに遅くなっても、花婿が帰って来られるときに灯をともしていることができるように、油を準備していた、それが、この賢いおとめたちの姿です。それに対して、愚かなおとめたちは、油が足りなくなってしまいました。そしてその時には、既に花婿が目の前に来ていました。彼女たちは賢いおとめたちに「油を分けてください。わたしたちの灯は消えそうです」と言いました。この言葉をみると、何か最初から他の人たちをあてにしていたような部分があるように思います。もしかしたら、足りなくなってもだれかがわけてくれるだろうと思っていたのかもしれません。

それに対して、賢いおとめたちの返答は厳しいものでした。

9節「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」

油を持っているなら、分けてあげればいいじゃないかと私たちは思うかもしれません。しかし、「分けてあげるほどはありません」と賢いおとめたちは答えました。これが真実です。神様を待ち望む思い、心というのは、それぞれの人が持つものであるということを示しています。私たちは助け合い、励まし合いながら、神様を見上げてゆきます。しかし最後には、私たちはそれぞれが一人で神様の御前に立つことになります。その時に必要な油は、私たちそれぞれに与えられるもので、他の人から貰えるものではないということです。

 

ここまで書かれてきた油とは何を表しているのでしょうか。聖書では、油は、神様の霊である聖霊を指し示す言葉として使われています。この聖霊によって、私たちは初めて神様を信じることができます。聖霊によって、私たちの信仰生活は日々支えられており、信じることのできない時に信じる力を与えて下さるのが聖霊です。また、教会を形作り、成長を与えるのも、聖霊のなさる業です。私たちは、闇が最も深まる真夜中の時にこそ、この聖霊の力を必要としています。なぜならその時にこそ、主が戻って来られるからです。

この聖霊というものは、だれでも、イエス様を信じる者が求めれば受けることのできるものです。この箇所では、油をお店で買って来なさいと言われていますが、もちろん、聖霊とはお金や努力によって得られるものではありません。それはただ、主に求めることによって、与えられるものです。神様は、求める者すべてに聖霊を注いでくださいます。

聖霊は知恵を与えます。日々の生活の中で、何を必要としているのか、何を用意したらよいのか、神様が教えて下さるということです。この賢いおとめたちのように、足りなくなったときに必要となる油を用意しておこうと、そのようなアイデアが私たちに自然に与えられてゆきます。

また聖霊は希望を与えます。どんなにこの世の中が悪くなっていっても、自分の置かれている状況が悪くなっていっても、むしろそのような時こそ、イエス様が戻ってこられることに希望を見いだすようになります。これは、聖霊なくしてはあり得ないことです。

最後に聖霊は、愛を与えます。私たちは聖霊によって初めて、イエス様が十字架にかかられるほどに私たちを愛してくださったということの愛の深さが分かります。聖霊は私たちをそのような愛で満たして下さり、その愛は私たちから他の人々へも流れ出てゆきます。

 

「求めなさい、そうすれば与えられる」とイエス様は私たちにおっしゃっています。そのように求めるならば、私たちはだれでも、いつでも、聖霊の油を受けることができます。私たちは、この聖霊の油を断やすことなく、福音の灯を照らし続けるなら、真夜中の暗闇の中を来られる主を、無事にお迎えすることができます。そのように、私たちは、神様によって招かれている御国での永遠の命と祝宴を待ち望みながら、この地上で与えられた人生の日々を過ごすことができます。