2021年6月20日礼拝メッセージ全文
ヨハネの手紙一 4章7~21節
今日は父の日です。父の日というと、小さな子どもが父に感謝する日のように捉えがちですが、むしろ私たち大人が自分の父を思い起こす機会として与えられているのではないかと思わされています。
父親という存在が、子供の人生に及ぼす影響は計り知れません。父親との関係で傷を受けた人は、一生その傷と向き合ってゆくことになります。また、父親から認められた経験、愛された経験は、大人になってもその人を励まし続けます。私たちは、父親との関係を通して、良い意味でも悪い意味でも、どのように生きるかを学んでいくのだと言えると思います。
しかし、どんな父親も母親も、完全な親ではありません。人間である以上、そこには自己中心性が入ってきます。そうして、親との関係で傷ついた人は、結局他の人を愛することもできなくなってしまいます。
そのような私たちに、聖書は、「父なる神様」を伝えています。親との関係、この世の中でどんなに傷ついた人であっても、私たちを受け入れ、愛してくださる「父なる神様」がおられるということです。私たちはこの方からの愛を受けて初めて、他の人を愛することができるようになってゆきます。今日の箇所は、そのように、父なる神様から私たちに示された愛について教えています。
1.イエス様の贖いの事実
10節「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」
この節の原文では、「ここに愛があります」と、文の最初で宣言しています。「ここに愛がある」。神の御子であるイエス様が、私たちの罪のために十字架にかかられたという事実、ここに神様の愛が完全に示されているということです。
愛とは何でしょうか。この世の中では、愛とは、自分の力で獲得しなければならないもの、と考えられています。「愛されるためには、立派な人でなければならない」「愛されるためには、美しくならなければならない」「愛されるためには、愛を一杯注がなければならない」ということは、言葉では言わなくても、人々の心の中にある考えであると思います。
しかし神様の愛とは、それとは真逆のものであるということです。私たちがどのような人であるか、神を愛しているか、いないか、に関わらず、一方的な恵みとして、すべての人に注がれているもの、それが神の愛です。
神様は、この無条件の愛を、イエス様を十字架につけるという出来事を通して示されました。
神様は、全く罪の無い御自分の独り子を、罪にまみれた私たち人間のために、十字架につけ、いけにえとしてささげてくださったのです。
従って、私たちは、神の愛を「獲得」する必要はありません。イエス様の十字架を通して与えられた神の愛を受けるために、私たちの愛も行いも必要ありません。それはすでに「ここにある」ものであり、この愛を受け取るために必要なことは、ただその愛を信じるということだけです。
神様は「ここに愛がある」という言葉を通して、私たちがイエス様を通して既に示された愛に目を向けるように招いておられます。
2.今、私たちが愛し合う現実
しかし、今日の箇所が伝えている愛とは、既に与えられた十字架の出来事のことだけを指しているのではありません。それは、イエス様の愛を受けた私たちがお互いに愛し合うことを通して実現されてゆく愛のことでもあります。
11節「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」
この言葉が示しているように、神様の愛とは、私たちがただ受ける一方的なものではありません。それは、今、私たちの生活の只中で、お互いに愛し合う関係の中で分かち合ってゆくものです。
ヨハネは、この「互いに愛し合いなさい」という言葉を、この手紙の中で何度も繰り返しています。それは、お互いに愛し合うということが、難しいという私たちの現実を示しています。
ヨハネがこの手紙を送った教会に、具体的にどのような問題があったのかは分かりません。しかし、そこで繰り返し言われていることは、次のような問題があったということです。自分と神様との縦の関係と、自分と他の人々との横の関係とを、切り離して考えてしまうという問題です。
20節「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」
ここでは、神との関係と他者との関係が分離している人は、偽り者である、とすら言われています。大変に厳しい言葉です。しかしこれは、もし私たちが本当の意味で神様の愛を受け取るなら、そのようなことにはならないはずである、ということです。
もう一度、10節を読んでみましょう。
10節「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」
先に見ましたように、これは、完全に無条件の愛です。「わたし」という人間には何の権利も資格もないのに、イエス様によって一方的に赦されているという事実を示しています。しかし、これは「わたし」についてだけの事実ではありません。「わたしたち」、つまりすべての人に、同じ神様の愛が注がれているという事実を表しています。
例えば、自分には到底赦すことのできない人がいたとします。しかしその彼についても、この言葉は真実です。「神が彼を愛して、彼の罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。目の前のその人も、自分と全く同じように、イエス様の十字架によって罪赦された人間であるということです。
ですから、私たちが他者を愛する愛とは、私たちの内側から湧いてくるものではありません。今日の箇所の最初の7節に「愛は神から出るもの」と言われているとおりです。私たちは、自分の内側には他者を愛する愛がなくても、イエス様の十字架の愛が注がれて、愛する者へと変えられています。愛するとは、その現実を受け取り、「ここに愛がある」と宣言し、兄弟を愛する決断をし続けていくということです。
では、その愛は具体的には、どのような愛のことを言っているのでしょうか。
18~19節「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」
ここで、「恐れは罰を伴う」と言われています。恐れる人にとって、愛することはリスクでしかありません。愛しても、受け取ってもらえなかったらどうしよう、何か悪い結果になったらどうしよう。そのように、罰を受けることやリスクを考えてしまう恐れが人間の内にはあります。
しかし、イエス様を通して示された愛はどうでしょうか。イエス様は、自らの命を捨てるという、最も大きなリスクを冒して下さいました。私たちすべてを救うためです。人から賞賛を受けるためでもなく、かえって人々から蔑まれ、そして、私たちの罪の代わりに神様からの裁きを引き受け、イエス様は十字架で死なれました。ここに、恐れの無い完全な神の愛が示されました。
私たちが愛するのは、神がまずこのように、恐れの無い完全な愛を私たちに注いでくださったからです。そしてこの愛は、私たちの内から、恐れを締め出します。なぜ、恐れないでいられるのでしょうか。それは、「神がまず、わたしを愛してくださった」ということを信じているからです。そのように、私たちは、恐れのない神様の愛によって、お互いに愛し合うことができる者とされています。
3.ここに神がおられる
そして最後に、「ここに愛がある」ということは、「ここに神様がおられる」ということを経験するということでもあります。
12節「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」
神様は、私たちの目には見えませんでしたが、イエス・キリストという目に見える存在としてこの世に来られ、十字架の死と復活をもって、ご自分が神であるということをお示しになりました。このお方を信じる私たちにとって、神様はもはや目に見えない遠い存在ではなく、私たちといつも共にいて愛を注いで下さるお方となりました。
そして私たちがこのお方の愛を受けて互いに愛し合うとき、それは共におられる神様を経験しているということです。私たちは神様の存在を、愛することを通して、より深く知る者となってゆきます。クリスチャンとして私たちがこの地上で生かされていることの目的、それは、神様との愛の関係、そしてお互いに愛し合う愛の関係を通して、神様を知り、神様との交わりの中で生きてゆくということです。
私たちの日々の生活の中では、愛することの難しい現実と直面することが多いと思います。私たちは皆、家族や大切な存在から愛されなかったという傷を、多かれ少なかれ負っています。そのような私たちの間では、愛し合うことよりも、争い合ったり傷つけ合ったりすることの方が多くなってしまいます。そうした現実に直面したときこそ、思い起こしましょう。そのように愛のない自分のために、イエス様が十字架にかかってくださり、神の愛が注がれたということを。そして、自分の目の前の兄弟のためにも、全く同じようにイエス様が十字架にかかり、神の愛が注がれているということを。そしてこの愛によってお互いに愛し合うときに、私たちは神様を経験しているのだということを。
「ここに愛がある」と、神様は今日も私たちに語っておられます。