わたしの子たちよ

2021年6月13日 礼拝メッセージ全文

ヨハネの手紙一 2章1~17節

今日の箇所は「わたしの子たちよ」という呼びかけで始められています。日本語では「わたしの子たち」となっていますが、原文のギリシャ語では、「子ども」という単語に、「小さい」「少し」という意味を付け加える語尾がくっついています。これは、日本語にはない表現ですが、小さいものや少ないものを、愛着を込めて呼ぶ時に使う表現です。ヨハネは手紙の中で繰り返しこの言葉を使い、呼びかけています。それは、この手紙の宛てられた一人一人が、主なる神様の前に「小さな子ども」であるということを示していました。そしてこれは、神様から私たちに向けられた言葉でもあります。神様の御前に、私たちは本当に小さな子どものような存在である、ということを表しています。

1.罪が赦される

私たちが神様の子どもであるということ、そのことは何を意味しているでしょうか。

それはまず、神様が私たちの罪を赦して下さるということを表しています。父親が、罪を犯した子どもを赦し受け入れるように、神様は、私たち一人一人の罪を赦し、神の子どもとして受け入れて下さいます。

12節「子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されているからである」

父なる神様は、私たちの罪を赦すために、御子イエス様を与えて下さいました。このイエス様のことが、今日の箇所の前半では「弁護者」と表現されています。

1節後半~2節「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」

どんな犯罪者にも、弁護士がつきます。しかし、それは職業としてつくのであって、その人の人生の全てにわたって弁護を行うのではありません。ところが、弁護者として来られたイエス様は、私たちの生涯にわたって、弁護をしてくださいます。それも、自らをいけにえとしてささげてくださいます。被告の罪を背負って、代わりに刑を受けた弁護士がいたなどということは、聞いたことがありません。しかしイエス様は、私たちの罪の身代わりとなって、十字架で神の裁きを受けてくださいました。それによって私たちが赦されるためでした。

神様がそうまでして、私たちの罪を背負って下さるのは、私たちを子として受け入れておられるからです。神様は、私たちがどんな罪を犯しても決して見捨てられることなく、私たちの一人一人に向けて今も「わたしの子よ」と呼びかけておられます。

 

2.掟が与えられる

しかし、神様が私たちを子として下さることには、別の意味もあります。神様は、私たちを子として扱われるからこそ、「掟」を与えられるということです。

1節前半「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです」

神様は、イエス様の恵みによって、すべての罪を赦して下さいます。しかしそれは、私たちが罪を犯さないようになるためであるとこの箇所は伝えています。それは例えば、弁護士がついているからといって、罪を犯したままでよいということにはならないことに似ています。そもそも、罪を犯したままで良いのなら、裁判を開く必要すらないはずです。しかし、神様は、私たちに弁護者、正しい方であるイエス様を与えて下さり、私たちがこの方から何が正しいことなのかを学ぶようにして下さいました。今日の箇所はそれを「掟」と伝えています。

3節「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります」

神の掟とは、私たちを罪に定めるためではなく、私たちがより深く神を知るためのものであるということです。神様は、私たちを子として受け入れておられるからこそ、掟を通して、自身の御心が何であるかを教えて下さいます。旧約聖書の歴史を見ても、それは、イスラエルの民に神の掟が与えられ、それを守れない民の罪が赦される、ということの繰り返しであると言えます。出エジプトの出来事では、エジプトの国で奴隷状態であったイスラエルの民が救い出され、その時に神は彼らに十戒をはじめとする律法を与えられました。それは、エジプトから救い出された彼らに、神の子どもとしてどのように生きればよいかを示すためでした。

神様は、聖書の御言葉を通して、今を生きる私たちにも、何が神の喜ばれることであり、どのように生きるべきかを教えておられます。しかし、イスラエルの民が律法を自分の力で守ることができなかったように、私たちも神の掟を自分では守ることのできない者です。掟や律法を通して、私たちは、神の恵みなくしては何もできない自分の姿を知ります。それは、神が子である私たちに与えられた「鍛錬」であるとも言えます。

ヘブライ12:5-7「『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。』あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか」

神の掟が与えられることにより、私たちは子どもとして必要な鍛錬を経験しているということです。私たちはその過程の中で、自分の力ではなくただ神に依り頼むように、練り清められてゆきます。

 

3.互いに愛し合う

ではその掟の具体的な内容とは何でしょうか。今日の箇所では、神から与えられる掟の中で最も重要なものが伝えられています。それは、「互いに愛し合いなさい」という掟です。この掟は、イエス様を通して与えられました。

ヨハネ13:34「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」

今日の箇所の7節では、ヨハネはこのイエス様の言葉を指して、これは「あなたがたが初めから受けていた古い掟です」と書いています。「互いに愛し合いなさい」という掟は、イエス様を通して与えられたものであり、さらには、聖書全体を通して語られている神の掟です。レビ記19章18節には「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とあります。そのように、「愛しなさい」という掟は、人々に良く知られていたものでした。

ところがこれは、私たちが自分の力では守ることのできない掟です。愛したいと願っても、赦せない思い、憎しみがあり、自分自身を愛することも、隣人を愛することも、私たちが自分の力でできることではありません。聖書を通して語られる神の愛の前に、私たちは自分の愛がいかに小さいものであるかを知ります。私たちは神様の「愛しなさい」という掟を通して、自らが神の御前には未熟な小さな子どもであるということを改めて知る者となります。

10節「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません」

「兄弟」とは、血のつながった兄弟だけでなく、天の神様という同じ父を持つ、すべての人のことを指しています。私たちはそれぞれ、神の前には小さな子どもであり、お互いは兄弟であるということです。これは、「隣人」という言葉にも表されています。それがだれであるかが大切なのではなく、共に人生を分かち合う存在をだれでも兄弟、隣人として愛することを神様が求めておられるということです。

この掟を、神様は私たち自身のために与えられました。私たちが光の中を歩み、つまずくことがないようになるためです。人を赦せない思い、怒り、憎しみの力というのは恐ろしいほど強いものです。誰かを赦せない思いは、私たちの心に深い根を張って、全然関係の無い人を傷つけてしまうこともあります。またそれは、神様との関係にも影響をもたらします。人を赦せないことで、神様の自分に対する愛にも疑いが生じてきます。

しかし、イエス様によって、神様から赦され、愛された者の一人として、自分と同じように神様から赦され、愛されている兄弟を受け入れ、赦し、愛するなら、私たちは、このような人に対するつまずき、神に対するつまずきから守られてゆきます。これは、神の愛を受け取って、兄弟を愛するという信仰の決断をしてゆくということです。

12節~14節では、「子たちよ」「父たちよ」「若者たちよ」という三つのグループに分けて、呼びかけがされています。これらの言葉も、互いに愛し合いなさい、という神様の掟の中で、聞くことができます。ここで呼びかけられている人々が、それぞれどのような人々であったのかははっきり分かりません。しかし、それだけ色々な人々が、ヨハネが手紙を送った教会にはいたのだろうと想像できます。一般的に見ても、子ども・父・若者、これらの人々はそれぞれ違ったものの見方をするものです。そして、中々お互いに分かり合うことができません。私も父親として、子どもの目線に立つことは本当に難しいなと実感させられています。親からすると「どうでもいい」ということが、子どもにはとても大切だったりするということがあります。そのようなすれ違いは、親と子の間だけでなく、すべての人と人との間に存在するものであると思います。その違いを乗り越えて互いに愛し合うためには、神様の愛が必要不可欠です。イエス様は、私たち罪を犯すすべての人間のために、十字架にかかられました。神様から見たら、本当にどうしようもないちっぽけな存在である私たちのために、天のお父様は、愛する御子をいけにえとして献げてくださいました。その愛によって、互いに愛し合うように、ヨハネの手紙は繰り返し私たちに語っています。

「子ども・父・若者」は、私たちの信仰生活の段階を指し示す言葉であるとも理解できます。私たちはイエス様を救い主として信じ、神の子どもとされます。その初めの内は、霊的な赤ちゃんと言うことができるかもしれません。しかし私たちは、クリスチャンとして生きてゆく中で、この世で様々な霊的な戦いを経験し、「若者」へと成長してゆきます。そしてさらに、霊的な成熟を経て、新たなクリスチャンを生み出したり、教え諭したりする「父」となることもできます。もちろん、これらの段階は、信仰の年数によって決まるものではありません。また、私たち自身の中には、これらの三つの段階が入り混じって存在しているものであると思います。いずれにしても、神様は、私たちのそれぞれの置かれた霊的な状況をご存じです。そしてそれがどんな状態であれ、神様の命令は、やはり「互いに愛し合いなさい」ということです。イエス様は、すべての人を愛されました。従順な人も、傲慢な人も、自由な人も、律法主義者も、イエス様は愛されて、すべての人のために十字架にかかられ、命を捨てて下さいました。この愛を受けて、私たちが互いに愛し合うようにと、今も招いておられます。

神様は今日の箇所を通して、「わたしの子たちよ」と私たちに呼びかけておられます。それは、父なる神様が、私たち一人一人の罪を赦しておられるということ、私たちが罪から離れて、神様をより深く知って欲しいと願っておられるということ、そして、主の十字架の愛によって、私たちが違いを乗り越えて互いに愛し合うように招いておられるということでした。

私たちはこのような神様からの呼びかけに、どのように応えたらよいでしょうか?