サマリアで福音が告げ知らされる

2020年5月24日 礼拝メッセージ全文

使徒言行録8章1~25節

今日の箇所は、ステファノという人が殺害された時のことから始まっています。
使徒言行録では、先週まで読んできた通り、聖霊が降った後、福音が多くの人々に広がっていったことが伝えられています。先週の箇所にあったように、足の不自由な人が歩けるようになる奇跡や、様々な不思議な業が使徒たちによって行われ、信じる人々はますます増えてゆきました。ステファノは、使徒ではありませんでしたが、使徒たちによって任命された7人の教会奉仕者の内の一人でした。彼は、聖霊に満たされ、多くの不思議な業を行っていましたが、ユダヤ人からねたまれ、石打ちの刑に処されることになってしまいました。そして、このステファノの殺害をきっかけとして、エルサレムの教会は、それまでにない大きな迫害を受けることになりました。イエス様の弟子たちは、使徒たちを除き皆、エルサレムから去り、ユダヤとサマリアの地方に散って行きました。
それは、教会にとっては大きな苦しみの出来事であったと思います。共に礼拝していた人々はバラバラにされ、住み慣れた町を離れなければなりませんでした。しかし、そのことによって、福音がより広い地域に広がり、救われる人々が起こされてゆきました。
それは正に、聖霊がなされた業でした。聖霊の力によって、人間の力では届けることのできないところまで、福音が届けられてゆきました。

1.サマリアという土地について
今日の箇所は、サマリアで、福音が告げ知らされたことを伝えています。サマリアは、ユダヤとガリラヤの間の地方で、地理的にはエルサレムからそれほど遠くない場所でしたが、そこはユダヤ人にとっては、近寄りがたい場所でした。
サマリアは、元々はイスラエルの町の一つで、列王記が語っている時代、イスラエル王国・ユダ王国が共存していた時代には、サマリアはイスラエル王国の首都でした。イスラエルの王様は代々、このサマリアで王に即位しました。ところが、イスラエルの人々が主に背き、偶像を礼拝したことから、サマリアは主によって滅ぼされ、敵であるアッシリア帝国に占領されてしまいました。そして、そこに住んでいたイスラエルの人々はアッシリアの別の町々に連れて行かれ、その代わりにバビロンやその他の色々な地方から連れて来られた人々が、サマリアの住民となりました。この人々は、主を知らず、異なる神々を信じていました。そこで、一人の祭司が連れ戻され、彼らにイスラエルの神、主を畏れ敬わなければならないと教えましたが、彼らは自分達の神々の偶像を作り、それらを拝みました。彼らは、主を礼拝すると共に、自分達の風習に従って偶像の神々をも礼拝しました。それ以来、サマリアの人々は、そのように主を礼拝することと偶像礼拝を混ぜ合わせるようになりました。本来は唯一の神である主を礼拝することと、他の神々を礼拝することは相容れないはずでした。しかし、人々は偶像礼拝と主を礼拝することを混ぜ合わせてしまいました。それによって、ユダヤ人はサマリア人との交わりを絶つようになりました。使徒たちの時代でもそれは同じで、イエス様の弟子たちにとってサマリアは、偶像崇拝と異教のシンボルのような場所であり、避けるべき場所でした。

2.悪霊との戦い
しかし、そのようなサマリアにも、聖霊の力によって、福音が伝えられてゆきました。その時、何が起こったでしょうか。
今日の箇所の6~8節で、フィリポがサマリアに行った時の様子が伝えられています。
「群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。町の人々は大変喜んだ」
ここで、フィリポによって、汚れた霊が追い出されるという出来事が起きています。このように、汚れた霊、もしくは悪霊が、追い出されるという出来事は、新約聖書の中で繰り返し伝えられていることです。特に、先週お話しした病をいやすという奇跡と合わせて、宣教活動の始まりの時によく起こった出来事でした。福音書を読むと、イエス様が地上で生活されていたころ、十二使徒を任命された際、彼らに病をいやし、悪霊を追い出す力をお授けになったと書かれています。それは、悪霊というものが、病気と同じ位、人々の間に強く根付いているということを現わしています。聖霊は神様を証する霊ですが、悪霊とは、人々を真の神様から引き離す働きをする霊です。偶像崇拝、異教が浸透していたサマリアでは、特にそのような霊の働きが強かったと言えます。その場所で、福音を宣べ伝えようとするとき、必然的に偶像崇拝や異教を通して働く悪霊との戦いに入ってゆくことになりました。

3.権力・お金の縛りからの解消
9節以降では、サマリアの人々がどのような信仰を持っていたのかについて書かれています。そこから私たちは、悪霊というものがどのように人々を支配するのかを知ることができます。
まず、サマリアには、シモンという魔術師がいて、人々はその魔術に心を奪われていたと書かれています。この魔術が具体的にはどのようなものであったのかは分かりませんが、神様抜きで行う不思議な業が魔術です。実際、出エジプト記を読むと、エジプトにはたくさんの魔術師がいたと言われていますし、使徒言行録の中でも今日の箇所以降、使徒たちはたびたび魔術師との対決を迫られています。
魔術の目的は、人々を驚かせ、自分を高めることです。今日の箇所でシモンは、自分のことを偉大な人物だと自称しています。不思議な業を行うことで、自分自身をあがめるように人々を導くのです。これこそが、悪霊の働きであると言えます。悪霊は、力や権力と結びつき、人々を支配しようとします。
それとは逆に、聖霊の働きは、常に、主であるイエス・キリストを証します。聖霊に満たされると、私たちは神様の偉大さを知ると共に、自分たちの貧しさを知ります。貧しく、罪深い自分のために、イエス様が十字架にかかって下さったことに感謝します。聖霊に満たされた弟子たちは、このイエス様をサマリアで証しました。フィリポもたくさんの不思議な業をサマリアで行いましたが、その目的はイエス様を証することであり、自分を高めることではありませんでした。
次に、サマリアの人々が福音を受け入れたことが伝えられています。彼らは、フィリポから福音を聞いて、信じて、バプテスマを受けたと言われています。しかし、ペトロとヨハネがサマリアに来た時、彼らの上にはまだ聖霊が降っていなかった、と言われています。もしかすると、彼らが信じたのは、魔術師シモンが行ったような不思議な業をフィリポが行うのを見たからであったのかもしれません。彼らの中では、イエス様を信じることは、魔術師や他の神々を信じることを同じ、選択肢の一つであったのかもしれません。いずれにしても、悪霊が彼らの信仰を妨げていたことは確かです。特に、魔術師シモンは、ペトロとヨハネが来て、彼らが手を置くと人々が聖霊を受けるのを見て、お金でその力をくださいと願いました。神の力を、お金で買えると彼は思っていたのです。なんと恐ろしいことでしょうか。しかし、このようなことは、私たちも気づかない内に行ってしまう危険があります。多くの日本人は、お金を払ってお守りを買い、お賽銭をし、お布施を払って先祖の供養をしてもらいます。それらの行いもある意味で、神様との間で取引を行おうとするものです。しかし、神様はお金を払わなければ守ってくれないのでしょうか。そのようなことは決してありません。私たちクリスチャンも、神様に献金をしますが、これは、神様への感謝を表すもので、しなければ罰が降るとか、多く献金したから多く祝福があるというようなものではありません。しかし、魔術師シモンは、お金で神様の力を変えると思いました。神様の力とお金を同等のものとみなしていたということです。それだけ彼は、お金の力にしばられていたということが言えます。ここにも、悪霊の力が働いており、それはこのように、お金を通して人々を支配しました。

そのようなシモンに対して、ペトロは言いました。22~23節です。
「この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている」
ペトロやヨハネ、またフィリポたちがサマリアに来たのは、偶像崇拝を行い、悪霊の支配のもとにあった人々を裁くためではありませんでした。彼らがその支配から解放され、イエス・キリストのもとに立ち返るようになるためでした。彼らが聖霊を受けたのは、正にそのような人々に福音を告げ知らせるためでした。エルサレムの次に弟子たちが最初に遣わされた場所がサマリアであったことには、そのような意味があると思います。

4.結び
今日は、聖霊によって、弟子たちがサマリアで福音を告げ知らせたという出来事について聞きました。では、皆さんにとっての、サマリアとはどこでしょうか。異なる神々が拝まれ、権力やお金を通して人々が悪霊の支配のもとに置かれている場所とは、どこのことでしょうか?それは、この日本社会を指しているかもしれません。確かに、日本の置かれている現状は、色々な意味で、当時のサマリアに近いものがあると思います。またはそれは、私たち自身の心の中の状態を指しているかもしれません。わたしは今回この使徒言行録8章を読んで、自分自身の中にも、人から注目されたいという思い、また、お金に支配された価値観があることに気づかされました。悪霊は私たちクリスチャンをも、そのような古い価値観に引き戻そうと、日々惑わしてきます。しかし、そのような私たちのために、また、罪に支配されたこの世界のために、イエス様は来て下さいました。そして、聖霊を受けた使徒たちは、真っ先にそのような場所に福音を告げ知らせて行きました。聖霊は今も、私たちを全ての束縛から自由にし、主にある新しい生き方へと招いて下さいます。