2020年5月17日 礼拝メッセージ全文
使徒言行録 3章1~10節
今週も、先週に引き続き、使徒言行録を読んでゆきます。5月はこれまで、使徒言行録を続けて読んできました。最初に1章を読んだ時にお話ししたことですが、この使徒言行録は、使徒の働きとも言われ、初代教会の使徒たちの働きについて記しています。しかし、使徒の内に働いていたのは聖霊であり、聖霊がどのように働かれたのか、ということが、この文書のテーマであると言えます。先週読んだ2章では、聖霊が降ることによって、人々に力が注がれ、そして教会が生まれました。そして、2章43~47節には、その最初の教会で、救われた人々がどのようなことを経験したのかが書かれています。
43節にはこうあります。
「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである」
聖霊を受けた使徒たちには、多くの不思議な業としるしを行う力が与えられました。
しかしそれは、使徒たち自身に力が与えられた訳ではありませんでした。
それは、イエス・キリストの力が、使徒たちを通して、証されたということでした。
それは、どのように起こったのかと言うと、今日の箇所にあるように、イエス・キリストの御名によって祈るとき、イエス様がなされたのと同じような驚くべき出来事が起きました。それは、使徒たち自身に力があったのではなくて、イエス・キリストという御名前に力があったということです。そのように、聖霊の力は、イエス・キリストの御名を通して具体的に現わされてゆきました。今朝は、そのイエス様の御名の力が、今日の箇所でどのように現わされたのかを見ていきたいと思います。
1.病を癒す力
今日の箇所には、生まれながら足の不自由な男が出てきます。生まれながらということで、何らかの先天性の病気があったことと思われます。後の箇所を読むと、彼は40歳を過ぎていたと言われています。人々は彼が良くなるとは思っていませんでしたし、彼自身も、そのようなことはあり得ないと思っていたでしょう。ですから彼が毎日、神殿の「美しい門」のところに置いてもらっていたのは、癒してもらうためではなく、金銭を恵んでもらうためでした。考えてみると、それはとても残念なことです。全知全能の神様を礼拝する神殿に来ていながら、お金を恵んでもらうためだけにその門のところで座りこんでいたのですから。しかし今日の箇所は、ペトロがイエス・キリストの御名によって祈った時に、彼が歩けるようになったということを記しています。そして、それを見た人々は、我を忘れるほど驚いた、と記されています。
使徒たちの伝道の第一歩は、このような足の不自由な人を癒すという奇跡的な業によって始められました。これは、イエス様ご自身の伝道の御業を見ても、同じことが言えます。イエス様は、この世に来られて、まずはじめに病人のもとに行かれて、癒しの業をなさいました。イエス様は、すべての人を救うためにこの世に来られましたが、病の人々に特別な計画を持っておられることもまた、真実です。イエス様は、生まれつきの盲人を癒された時、その人が盲人であったのは「神の業がこの人に現れるためである(ヨハネ9:3)」と言われました。そして、その癒しの出来事をきっかけに、福音は大きく広がってゆきました。今日の箇所でも、同じことが起きています。この男の人が歩けるようになったことは人々に衝撃を与え、3章から4章にかけて、ユダヤ人の間で議論が生じると共に、イエス様の証が人々に伝えられていきました。そのように、主は病を癒されることを通して、死を滅ぼしたイエス・キリストの御名の権威がどれほど大きなものかを、人々に示して下さいました。このことは、今に至るまで、変わることはありません。神様にしか癒すことができないと言われる病気が癒されるということを、私たちはしばし経験します。私たちは、身体を持っている限り病や死から完全に自由にされることはできませんが、それを越えて死から復活されたイエス・キリストの御名によって、病が癒されるという御業を地上の人生の中で経験してゆきます。
2.新たに生まれさせる力
しかし、病を癒すことが、宣教の目的であった訳ではありません。イエス・キリストの名による救いを人々に告げ知らせることが、イエス様の、使徒たちの、また私たちの宣教の目的です。救いとは、死から命へと移されることであり、全く新たに生まれ変わるということです。今日の箇所でも、足の不自由だった男は、イエス様の御名によって全く新しく変えられていることが分かります。彼ははじめ、自分では歩けなかったので、人に運んでもらって神殿の門のところに来ました。自分の意思でそこに来たのか、誰かの勧めでそこに来たのか、それは分かりません。しかしいずれにしても、特に神殿に行きたいという思いがあった訳ではなさそうです。彼はただ、そこを通る人々に金銭を恵んでもらおうとしていたのでした。ペトロとヨハネに声をかけられた時も、彼はただ、何かもらえるのではないかと思って、二人を見つめていました。彼の頭の中は、お金のこと、そして自分のことで一杯であったでしょう。そのような彼でしたが、足を癒された後はどうでしょうか。彼は「躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った(8節)」。全く歩けなかった者が、躍って歩き回るようになりました。ただそれだけでなく、神を賛美する者に変えられました。そして、それまでは入ろうとしなかった神殿の中へ、喜んで入っていくようになりました。この驚くべき変化は、イエス・キリストの御名によって、彼の体だけでなく、彼の内面が全く新しくされたことを現わしています。
私たちも、初めて教会に来た時は、この男のようであったかもしれません。神様を求める思いよりも、自分の問題や疑問を解決して欲しいという思いが先行していたかもしれません。自分自身を振り返るとそのように思います。内面の変化は、外面にも現れます。皆さんは、自分の昔の写真を見て、自分はこんな顔をしてたのか、と思うことはありませんか?私もたまに自分の昔の写真を見ると、ひどい顔をしているなと思うことがあります。また、内面の変化は、私たちの行動にも変化をもたらします。自分の利益や、自分の喜びを求める生活から、神様の御心や、兄弟姉妹の必要のために、生きるようになっていきます。これは、この世の価値観とは全く逆の価値観です。ですから、今日の箇所でペトロも言っています。「わたしには金や銀はない」と。自分たちは金や銀を求める生き方をしているのではない、とペトロは宣言しています。それよりもはるかに素晴らしい、イエス・キリストの恵みの中を生きているということです。生まれつき足の不自由だった男も、またここにいる私たちも、その同じ恵みの中を生きる者とされました。それは、ナザレの人イエス・キリストの御名には、そのように人を変える力があるからです。
3.再び立ち上がらせて下さる力
イエス・キリストの御名は、そのように、私たちを全く新しい命に生かし、立ち上がらせることができます。これは、一度きりのことではありません。イエス・キリストを信じ、救いをいただいた後も、私たちは何度もつまずきを経験します。身体が弱ることもあれば、信仰の挫折を経験することもあります。生まれつき足の不自由だった男に「立ち上がり、歩きなさい」と言ったペトロ自身、何度もつまずいた人間です。イエス様が捕らえられた時、ペトロはイエス様のことを知らないと三度も言いました。しかし、そのようなペトロを、主は再び立ち上がらせて下さいました。そして、イエス様の憐れみによって再び立ち上がったペトロは、そのイエス様の御名によって、こんどは他の人々を立ち上がらせるために、手を差し伸べる存在になりました。それは、彼自身に力があったのではなく、彼を立ち上がらせたイエス・キリストの御名に力があったということです。私たちもまた、このイエス・キリストの御名によって、日々、立ち上がらせていただいている者です。イエス・キリストの御名は、病の人を立たせ、新しい命を与え、そしてつまずく私たちを何度でも立ち上がらせることのできる力です。
「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」
聖霊は、そのように、今日も、私たちに呼びかけておられます。