不可能を可能にする聖霊の力

2020年5月3日 礼拝メッセージ全文

使徒言行録 1章3節-11節

今週から、聖書は使徒言行録に入ります。今月はペンテコステ、日本語で聖霊降臨日を迎えます。使徒たちの上に聖霊が降ったことにより、教会が誕生しました。使徒言行録は、その初代教会の使徒たちの働きについて記録したものですが、それはただ彼らの人間的な活動報告のようなものではありません。それは、彼らの内に働いていた聖霊の働きを記録したものであり、聖霊こそ本当の主人公であると言えるでしょう。

その聖霊について、今日の箇所の1章8節が、具体的に説明をしています。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」
聖霊は、それを受ける者に力を与えるものであるということが語られています。
力とは、原文のギリシャ語では、ドゥナミスという単語で、これは「可能性、能力」という意味が語源になっており、そこから「力」という意味が生まれました。
すなわち聖霊とは、可能性を与える力であるということ、不可能を可能にする力であるということです。人間にとって到底不可能に思われることも、神様にとっては不可能ではありません。そのことを、聖霊の働きを通して、私たちは経験することができます。
私たちが今日、生かされているということ、そして主を礼拝しているということ。離れていても、心を一つにしてこのように礼拝ができるということ、それこそが、当たり前のことではなく、生ける神様の霊である聖霊の力のゆえであると言えます。
私自身の個人的な体験としては、去年の息子の出産の出来事がありました。一つの命が生まれるという不思議と驚きを、夫婦で体験させていただきました。特に、前に妻も証をさせていただきましたが、その前に私たちは三回の流産の経験をしていました。ですから四度目に命を授かった時、まただめなのではないか、という不安がありました。しかし、神様は息子を守って下さり、とても元気な子が生まれてきました。そのことは、不可能を可能にして下さる神様がおられるという思いを私たちに新たにさせて下さいました。
一人の人が産まれることは、そのように奇跡的な出来事です。しかし聖書は、もっと大きな奇跡を記しています。それは、神の御子であるイエス様が生まれたということです。聖書は、マリアが聖霊によって、イエス様を身ごもったと記しています。男女の関係によらず、聖霊によって子どもが宿るということは、人間的に考えると全く不可能なことです。しかし、それを可能にされたのが聖霊です。聖霊の力とは、正にそのような不可能を可能にする力です。その聖霊の力によって、私たちは神様の御業を体験してゆきます。

1.聖霊の力は、イエス様を証する
聖霊の力によって、私たちはイエス様を証するようになっていきます。
私たちが世の中で「力」を用いるとき、それは自分の目的のためです。私たちは仕事や生活のために、自分の力を使います。また、社会からの地位や評価を得るために、自分の能力を用います。しかし、聖霊の与える力は、そのような世の中での力や能力とは全く異なります。それは、自分自身のことではなく、イエス様のことを証するものです。
6節で、使徒たちはイエス様に、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねました。この質問の背景には、彼らがイエス様を、イスラエルを再建するこの世のリーダーの様な存在にしたて上げようとする思いがありました。実はこのような思いは、イエス様が十字架にかかられる前から、弟子たちの中にあったものでした。しかし、イエス様は、ご自分が来られたのは、この世的な目的のためではないと繰り返し言われました。今日の箇所でも、イエス様は彼らに、四十日にわたって、神の国について話された、と書いてあります。それにも関わらず、弟子たちはイエス様に、地上の王になって欲しいと願い続けたのでした。
私たちも、時として、イエス様にそのような存在になって欲しいと願うことがあるかもしれません。戦争のない世の中にして欲しい。疫病のない世の中にして欲しい。たとえばそのような願いは、多くの人が持つ自然な願いです。イエス様は、ご自分に寄り頼んで願う私たちの祈りを、聞いて下さいます。しかし、私たちの願いをこの地上で実現させることが、イエス様が地上に来られた理由でしょうか?そうではありません。イエス様が来られたのは、罪の支配するこの世から私たちを贖い出し、御国での永遠の命を与えるためでした。
聖霊の力とは、イエス様の福音の真理を私たちに悟らせて下さる力であり、また、それを私たちに宣べ伝えさせて下さる力です。ですから、たとえどんなに力強い人であっても、どんなに魅力的な人であっても、イエス様について証をしないなら、その人の働きは聖霊の力によっていません。これは、とても注意が必要です。イエス様の復活を実際に見た使徒たちですら、この世の王国を求めてしまいました。私たちも、自らの行いの動機が、自分を高めることや、人の評価を得ることになっていないか、点検をする必要があります。しかし、私たちは、聖霊の力を受けているなら、自分自身には何の力もなくとも、イエス様を証する者とされてゆきます。使徒たちも、そのような聖霊の力によって、大胆にイエス様を証していく者とされました。

2.聖霊の力は教会を通して働く
聖霊の力についての二つ目のポイントは、それが教会を通して働くということです。
8節に「あなたがたの上に聖霊が降ると」とあるように、聖霊降臨の出来事は、信徒の共同体に与えられました。それによって、教会がこの世に生まれました。そして今でも、聖霊の力は、教会を通して働いています。
旧約聖書の時代にも、神の霊の働きはありました。しかし、それは、神様から直接、個人に与えられるものでした。例えばサムソンは、神の霊が彼の上に降った時、素手で獅子を引き裂くことができました。そのような不思議な出来事も、主が生きておられるということを示していました。しかし、イエス様が復活され、天に上られ、聖霊を送って下さってからは、主の霊は、教会を通して働くようになりました。教会を通して、イエス様が宣べ伝えられ、人々が救いにあずかるためです。教会を通して、聖霊の力が発揮され、人の力ではできないことができるようになっていきます。使徒言行録は、聖霊によって教会が誕生した以降の、驚くべき証で満ちています。それを読むたびに、私たちも、教会を通して、同じ聖霊の驚くべき力にあずかることができるということを知ります。教会は、人の集まりではなく、キリストのからだであり、そのキリストを証する聖霊の力が満ち溢れたところです。私たちは、その力を共に経験し、分かち合ってゆく者です。

3.聖霊の力は、地の果てまで広がってゆく
聖霊の力についての三つ目のポイントは、聖霊の力というものは、自分の中だけ、自分の周辺にだけにとどまらず、地の果てにまで、広がってゆくということです。
弟子たちは、先ほどの6節のイエス様への質問に現わされているように、イスラエルのことだけに関心を持っていました。実際、イエス様も、「エルサレムから離れないように」と教えられています。そして弟子たちは、今日の箇所の次に出てくるように、泊まっていた家の上の部屋に集まって、祈っていました。しかし、ペンテコステを経験した弟子たちは、今日の御言葉にあるように、エルサレムからユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てに至るまで、イエス様のことを証するために、遣わされて行きました。それは、聖霊の力が自分のいる場所にだけとどまらず、イエス様の福音が世界中に伝えられてゆくためでした。聖霊は、人間の力では到底越えることのできない壁を壊し、その力が自由に広がるようにして下さいます。私たちにとっても同じで、私たちに降る聖霊の力は、私たち自身から、私たちの家族、また教会へ、そして自分が想像もしなかった人のところまでも広がってゆきます。そのようにして、世界中の人々がイエス様の救いにあずかることが、神様のご計画でした。

4.結び
そのように、聖霊の力とは、私たちの計画をはるかにこえて、私たちが到底不可能だとしていたことをも、可能にしてしまう、神様の御力です。私たち自身は、使徒たちがそうであったように、元々イエス様を証するにふさわしい人間ではありません。しかし、聖霊の力が降る時、私たちは内側から変えられ、主イエスを証する者とされてゆきます。聖霊は、そのような私たちが教会につながり、御言葉を証するようにして下さり、それも世界中にその福音を伝える者として下さいます。そのような驚くべき力を、私たちは受けています。
ですから、祈りましょう。その偉大な聖霊の力が、今なお私たちの上に降るように。弟子たちがある家の上の部屋に集まっていた時と同じように、私たちも今、教会には集まれずに、それぞれの場所で主を礼拝しています。そして、場所は関係なく、その上の部屋の時と同じように、神様は熱心に求める祈りに、応えて下さいます。不可能を可能とされる聖霊の力が、私たちの上に、私たちの教会の上に、私たちの住むこの世界の上に、今注がれるよう、ご一緒にお祈りしてゆきましょう。