最も小さい者の一人に

2021年3月14日 礼拝メッセージ全文

マタイによる福音書25章31~46節

 

マタイによる福音書25章は、世の終わりにイエス様が再び来られる時に、どのような方として来られるのかを伝えています。その中で、今日の箇所は、イエス様が王として来られるということを伝えています。

40節「そこで、王は答える『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』」

イエス様は、すべての人を裁かれる王としてやって来られます。その時に、王は、わたしたちが「最も小さい者の一人」に対してどう振る舞ったかによって、裁きをなさるということです。

 

この「最も小さい者の一人」というのは誰のことなのか、そして私たちは、その「最も小さい者の一人」に何をしたらよいのか、今週はそのことについて思い巡らし続けていました。

そのような中、先日、突然、教会員の方が天に召されたという連絡を受けました。先週まで一緒に礼拝をささげていた方が突然天に召されたという連絡に、私は大きなショックを受けました。

急いで支度をし、ご自宅へ向かう途中の車の中で、自分にはいったい何ができるのか、考え続けていました。ご自宅に着くと、親戚の方が既に到着されており、一緒に監察医の診断を待ちました。息を引き取られてから半日以上経ったご遺体を前に、私はただ立ち尽くす他はありませんでした。

翌日、ご遺体を教会へ搬送することになりました。その際、葬儀社の準備した棺が、ご自宅の入り口から入りませんでした。それでやむなく、ご遺体をシーツでくるんだ状態のまま運び、2階分の階段を降り、広場に置かれた棺の中に納めました。そのような状態を見て、皆、大変に心を痛めました。

しかし私は同時に、あることを思いました。それは、イエス様が十字架にかかられ、死なれたことは、正にこの時のように、痛ましく、孤独な出来事であったということです。

イエス様は、何の罪も犯していないのに、犯罪人の一人として、十字架にかけられました。十字架刑とは、最も残酷な死刑の方法です。十字架にかけられた者は、真っ裸で、人々のさらしものにされながら、激しい痛みと渇きに耐えながら、ゆっくりと死んでゆかなければなりません。イエス様はそのような恥と痛みと苦しみを受けて死んでゆかれました。それは、主であるイエス様が、正しく「最も小さい者」になられたということでした。この世で人間が経験し得るあらゆる苦しみの全てを、イエス様は私たちのために十字架で背負ってくださいました。それは私たちが、この方にあって命を得るためでした。

しかしイエス様は、最も小さい者であるのと同時に、王でもあります。それは、イエス様が十字架で死なれただけでなく、三日目に復活されたからです。人間の経験し得るすべての痛み、苦しみ、恥、そして死、それらすべてをイエス様は十字架に釘付けにされ、ご自身は復活され、神の御座の右に着かれました。今日の箇所は、イエス様がそのような王として来られる方であるということを私たちに伝えています。

この王から、イエス様を信じる私たちに向けて、次のような言葉が語られています。

34~36節「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」

イエス様は、わたしたちがこれらのことを自分にしたのだと言っておられます。しかし実際には、イエス様はこの地上では、まったく報いを受けられませんでした。イエス様は、十字架の上で、食べ物に飢え、水に渇き、独りぼっちで、真っ裸で、全身に痛みを抱え、犯罪者とみなされて、死んでいかれた。そのお方が、私たちに対して、イエス様を信じて従うなら、「あなたは、わたしに食べ物を与え、飲み物を与え、一緒にいてくれて、服を着せ、牢にいる時に見舞ってくれたのです」と言われているのです。これは本当に驚くべき恵みです。

すべての人から見捨てられ、十字架の上で死なれたイエス様がこのように言っておられるのは、イエス様がこれらの苦しみからすべて解放され、すでに勝利されているからです。イエス様は再び戻って来られる時に、私たちに「なぜわたしを見捨てたのか」とは言われません。むしろ、「あなたはわたしに仕えてくれた。よくやった、わたしの僕よ」と言って下さるのです。

これは到底、私たちが自分の力でできることではありません。今日の箇所は、私たちが何か良いことをすれば神様の救いを受け、そうしなければ永遠の罰を受ける、ということを言っている訳では決してありません。私たちは元々、自分の力では何か善いことができる者ではありません。最も小さい者を目の前にしても、その人に自分の力で仕えることなどできる者ではありません。

 

人はだれでも、誰かのために何かをしたいと願って生きるものです。クリスチャンでなくても、人のために善いことをしている人はたくさんいます。しかし聖書は、人の力によっては、誰かを助けることはできないということを伝えています。そしてむしろ、すべての人は、最も小さい者となられたイエス様を見殺しにし十字架につけてしまったという、人間の罪を伝えています。しかし、このイエス様というお方は、私たちの罪を赦してくださいます。私たちが何もできなくても、神様に背くことがあっても、イエス様は、自分の下に来るすべての人の罪を赦してくださいます。そして、その罪の力を遥かに超える大きな愛を私たちに注いでいて下さいます。その愛は、私たちがお互いに愛し合うように、仕え合うように招く愛です。今日の箇所が伝えているように、私たちが本当の意味で仕え合い、愛し合うためには、この神様の愛を必要としています。この愛を受けて、私たちが互いに愛し合うとき、そこにイエス様が共にいてくださいます。そしてその愛の行為を通して、イエス様は「それはわたしにしてくれたことなのである」と私たちにおっしゃっています。それこそが、イエス様が私たちがこの地上で生きてゆくときに、願っておられることです。私たちは自分の力や愛では、互いに仕え合うことも愛し合うことができない、最も小さい者の一人です。しかしイエス様の愛は、私たちに力も愛もなくても、お互いに仕え合い、愛し合う者に、私たちを変えてくださいます。

 

イエス様は、世の終わりに、再び戻って来られます。その時に何を望んでおられるかというと、一人でも多くの人が、このイエス様の愛によって変えられて、そしてこの愛に生きる者となっていることです。そして一人一人をご自分の右に置かれて、「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と伝えてくださいます。