知恵を与える神の言葉

2021年7月18日 礼拝メッセージ全文

ヤコブの手紙 3章13~18節

今週もヤコブの手紙から御言葉を聞いていきたいと思います。

これまでヤコブの手紙を「神の言葉」という目線から読んできました。今日の箇所でも、神様の言葉、それも、私たちに知恵を与える御言葉について、伝えています。「知恵」という言葉は、何を指しているのでしょうか。「知恵」と良く似た言葉に「知識」があります。「知識」とは、頭の中にある情報、ということを表しています。それに対して「知恵」とは、「今、わたしが、具体的に、どう生きるか」ということを教えるものです。

ですから、どんなにたくさんの知識があっても、知恵があるとは限りません。情報がいくらあっても、今何をするべきかということが分からなければ、知恵のある生き方はできないということです。しかし、聖書を通して私たちに与えられている神様の言葉は、知恵を与えることができます。

神様は、「今わたしがどのように生きるべきか」という知恵を与えて下さるということです。そして、この知恵が、何のために与えられているのかと言えば、それは、私たちがその知恵によって実を結ぶためです。

18節「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」

この「実」という言葉に表されているように、私たちは、神様の言葉によって、知恵をいただいて、実を結ぶ者となることができるというのが、聖書の約束です。聖書は、旧約聖書の初めから新約聖書の終わりまで、そのような知恵に満ち溢れています。今日の箇所は、そのような神の知恵を「上からの知恵」と呼んでいます。なぜ、そのように言われているのかというと、私たちは、神様からの知恵と人間の知恵を見誤ってしまうことがあるからであると思います。人間の知恵に過ぎないものを神からの知恵であるかのように思ったり、神の知恵を、人間の知恵と同等に見なしたりしてしまうことがあるということです。しかし今日の箇所は、神様から与えられる上からの知恵と人間の知恵を明確に区別する必要があると伝えています。そして、その違いがどこにあるのかについて教えています。

 

1 知恵の定義

初めに13節は、知恵が本来はどのようなものであるかを教えています。

13節「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい」

知恵とは、頭や心の中にだけあるものではなく、その人の行いや生き方に現わされていくものであるということです。

それがどのように現わされるか、まず、ここには「柔和な行い」と記されています。「柔和」とは、その字が示すように、柔軟であるという意味を含んでいます。それは、何ものにもこだわらない姿勢を示しています。本当に知恵のある人は、自分自身を知恵ある者とは見ずに、むしろ柔軟に人に合わせたり、他の人を尊重したりすることができるということです。

この柔和さを最も現わした存在は、やはりイエス様ご自身です。

フィリピ2:6-7「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」

イエス様は全知全能の神であるお方です。しかし、イエス様はその知恵や力をひけらかすようなことはされませんでした。むしろイエス様は、その知恵を私たちに与えるために、神と等しい者であることに固執せずに、十字架で命を捨てて下さいました。

そして、知恵の現わされ方として、今日の箇所は「立派な生き方」とも記しています。ここで「立派」と訳されていますが、原文ではただ「良い」という言葉が使われています。そして、少し後の17節の後半をみるとここにも「良い実」という言葉があるのに気づきます。つまり知恵は、人の内側だけでとどまる自己完結的なものではなく、周囲に良い影響を与えるものであるということです。しかしこれはもちろん、私たち自身の力で「良い人間」になろうとしたり、外見を取り繕ったりすることでは全くありません。神様から知恵をいただいて生きる人は、その内面から豊かにされ、良い実を結ぶことができるようになるということです。

 

2.人間の知恵

このように知恵とは本来、その人の内側を柔和なものに作り変え、良い実を結んでいくためのものです。しかし、私たちの現実はどうでしょうか?むしろ、14~15節にあるように、ねたみや自己中心の思いから知恵を求めてしまうものではないでしょうか。

14~15節「しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです」

ここで、「あなたがたは」と言われています。これは前の13節も同じです。これらの言葉は、「あなたがた」、すなわち私たちすべてに語りかけられた言葉であるということです。神様はすべての人に語りかけておられます。今、私たちは世界中で、各国の言葉に翻訳された聖書の言葉を聞くことができます。そのように同じく神の言葉を聞いても、それを「上からの知恵」として聞くか、それとも人間の知恵と同じように聞くかによって、大きな違いが生じてくるということです。これは、「あなたがた」、私たち全てに向けられた神様からの警告であると言えます。

ここで、神から出ない人間の知恵は、「ねたみ」や「利己心」によるものだと言われています。これは創世記の初めでアダムが堕落した時から始まりました。人間は、神から食べることを禁じられた善悪の知識の実を食べることによって、人間以上のものになろうとする罪を犯しました。それ以来、人間は、「神のように賢くなりたい」「他の人々よりも賢くなりたい」という願い、すなわち「ねたみ」や「利己心」によって知恵を求める者となってしまいました。

創世記11章には、人間がバベルの塔を建てようとしたという出来事が伝えられています。その時、人々は次のように語ったということです。

創世記11:4「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」

この言葉にあるように、人間は、より高い塔を建てることによって、「有名になること」「神に近づく」ことを目指しました。それは、神様から出たことではなかったので、神様によってストップされました。私たちも、どんなに聖書から知恵を深めるとしても、それが、自分が賢くなることや、人の上に立つことを目的としたものであるなら、それは神様からの知恵ではないと言うことができます。今日の箇所の15節には、そのような知恵は、「地上のもの」「この世のもの」そして「悪魔から出たもの」とさえ言われています。私たちは、神様からの知恵を求めているつもりでも、このような人間の知恵を求めてしまう危険があるということを伝えています。

しかし神様は、そのように罪のゆえに自分勝手に知恵を求める人間を、放って置かれませんでした。神様は、御子であるイエス様を、正にそのように利己心やねたみに従って生きる人間のもとに遣わして下さいました。神様は、創世記の中で、ソドムやゴモラを滅ぼされたように、罪を犯す全ての人間を滅ぼすこともできたと思います。しかし神様は、そうされる代わりに、すべての人間の罪を背負うために、イエス様を十字架につけて下さいました。そして、イエス様を信じる者すべてに、聖霊を注ぎ、バベルの塔の出来事以来、バラバラになっていた私たち人間を、イエス様にあって一つとして下さいました。

 

3 上からの知恵をいただいて生きる

私たちは、イエス様によって赦され、贖われた者として、神の知恵をいただいて生きる者とされています。その知恵の具体的な形が、17~18節に記されています。

17節「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません」

これらの言葉は、イエス様自身の姿を表したものであると言えます。私たち自身は、どんなにがんばっても、このように生きることができる者ではありません。しかしイエス様は、そのような私たちにこそ、このような神の知恵を、御自身が十字架にかかられることを通してお示しになりました。そして、私たちが日々の生活の中で、その神の知恵を生きる者となるように招いておられます。

ここには、たくさんの言葉が書かれていますが、神様の知恵は「何よりもまず」、純真であると言われています。純真、とは、「まじりけのない」「汚れのない」ということを指し示す言葉です。これは、人間的な動機からではなく、純粋に神様を求める心から、知恵を求めるということを表しています。旧約聖書の中で、知恵について多くを記している箴言の初めには、「主を畏れることは知恵の初め(箴言1:7)」という言葉があります。これは私たちが、神様により頼むところから、すべての知恵は始まるということを表しています。

17節の「純真」に続く言葉、「温和」「優しさ」「従順」「憐れみ」「偏見はなく」「偽善的でない」、そして18節の「平和」、これらの言葉は、人との関係性を表した言葉であると言えます。神様からの知恵をいただくなら、このように、周囲の人々との関係も聖められていくということです。それには、やはり、まず神様との純真な関係、純粋に神様により頼んでいく信仰が欠かせないということです。

今日の箇所に続く4章には、あらゆる戦いや争いの原因がどこにあるのかが伝えられています。

4章1~3節「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」

この箇所は、世にある戦いや争いの原因は、私たち自身の中にある欲望や利己心であると伝えています。世界中で起こっている戦争から、私たちの日常にある小さないざこざまで、すべての争いは、私たちの心の中の問題から生まれているということです。そのような戦いや争いを避けるために何よりもまず必要なことは、神様の上からの知恵をいただくということです。世の中には、いかにして争いを避けるか、いかにして良い人間関係を築くか、などということを教える本や情報などが溢れています。それらもある程度は参考になるかもしれませんが、人間の知恵に過ぎないものです。今日の箇所が伝えていることは、戦いや争いを前にした時こそ、私たちは目の前の状況を見るよりもまず、主を見上げて、神様からの知恵をいただくことが必要であるということです。

私たちはそのような上からの知恵を、聖書の御言葉を通していただくことができます。私たち一人一人に、今、必要な御言葉が与えられています。その御言葉は、私たちに、今、ここで何をするべきかという知恵について語っています。神様は、私たちがその知恵を受け取り、そしてただ受け取るだけでなく、それを行い、さらにはそれを語る者となるように私たちを招き、チャレンジを与えておられます。主を信頼しつつ、この招きに応えていく者でありたいと願います。