2020年8月2日 礼拝メッセージ全文
出エジプト記 1章1~14節
人間は忘れてしまう者です。それが良いことであっても、悪いことであっても、人は一定の期間を経ると、ほとんどの物事を忘れてしまいます。忘れるということは、人が自分の心を守るための防衛本能だそうです。すべてのことを覚えていたら、私たちはとても疲れるし、気がおかしくなってしまうでしょう。しかし同時に、忘れてはならないことがあるのも事実です。忘れてはならないことを覚えているために、人は書物を書き、またそれを読みます。
聖書とは、神様が人を通して書かれた書物です。そこには、人間が忘れてはならない神様の救いの働きが記されています。特に今日の箇所である出エジプト記は、神の民イスラエルの経験した神様の御業が記されており、イスラエルの人々は、これを繰り返し繰り返し読み伝えることにより、自分達の祖先の経験した救いの御業を思い起こし、主を賛美してきました。出エジプト記という題は、英語版聖書では、“Exodus”(エクソドス)と表され、これは、「脱出の道」という意味の言葉です。出エジプト記は、イスラエルの民がどのようにしてエジプトから脱出することができたのかについて記しています。そしてそれは、彼らがただエジプトの国から脱出することができたということにとどまらず、主が人間を罪の支配から脱出させて下さるということを表す出来事でした。今日は、この出エジプト記を通して、神様がどのように私たち人間を、罪の支配から脱出させて下さったのか、ということを見てみたいと思います。
1.エジプトへの移住の意味
イスラエルの人々がエジプトに来たのは、そもそも何のためだったのでしょうか?
イスラエルの民とは、イスラエルと呼ばれたヤコブの子孫のことでした。1節に挙げられている十二人が、ヤコブの息子です。その彼らが、エジプトに来ることになった直接の原因は、十一番目の息子のヨセフでした。しかし彼は、自分の意思でエジプトに来たのではありませんでした。彼は兄たちから嫉妬され、エジプトに奴隷として売られてしまったのでした。しかしヨセフは、主なる神様と共に歩み、エジプトでの全ての苦難から救われました。その結果彼は、エジプト中を治めるリーダーにまでなることができました。このヨセフは、自分がエジプトに来たのは兄たちのせいではなく、神によってエジプトに遣わされたのだと信じました。
創世記45:7-8「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」
ここでヨセフは、自分がエジプトに来たのは、イスラエルの民を「大いなる救い」に至らせるためだったと、断言しています。その証拠に、ヨセフの兄たち、そして父ヤコブもエジプトに来ることになりました。初め、ヨセフの兄たちがエジプトに来たのは、その当時世界中で大飢饉が起こっていて、ただ食糧を分けてもらうために来たのでした。しかし、そのことすらも神様は用いて下さり、結果、ヨセフを通して、ヤコブの家族全員がエジプトに導かれることになりました。
このように、イスラエルの民のエジプトへの移住は、神様のご計画によるものでした。その一つの表れとして、彼らはエジプトの地で子を産んで増え、豊かに繁栄しました。
「ヨセフもその兄弟たちも、その世代の人々も皆、死んだが、イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた(6~7節)。」
創世記1章で神様が、人間を創造された時、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と祝福して言われたましたが、そのような祝福を思い起こさせる表現です。このように、エジプトの地に移り住んだイスラエルの民は、神様の祝福の内に、豊かに繁栄してゆきました。
2.エジプトでの苦難の意味
では次に、そのように神様によってエジプトの地に導かれたイスラエルの民は、エジプトでどのような生活を送ったでしょうか。
初めのころ、ヨセフはエジプトを治める者として、自分の家族であるイスラエル人を守ることができました。彼らをエジプトで最も良い土地に住まわせ、十分な食糧を与え、羊飼いとしての仕事を与えました。しかし、そのヨセフも死に、ヨセフのことを知っている人々も死んでいきました。すると、新しく王となったエジプト王は、イスラエルの民に敵対的な処置をとりました。
「そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。『イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない(8~10節)。』」
ここで言われていることは、イスラエルの民にとっては、完全な言いがかりでした。彼らは、エジプトに反逆したこともなければ、何も悪いこともしていなかったのに、一方的に苦しめられることになりました。そして彼らは、11節にあるように、強制労働を課され、虐待を受けるようになりました。このように、特定の人種に対して、不当な扱いをするということは、世界の歴史の中で繰り返されてきたことです。日本でも、外国人が不当に差別されたり、厳しい労働環境に置かれたりすることが起こってきましたし、残念なことに、その状況は未だに続いています。そのことが示すように、労働によって誰かが苦しめられるという現実は、全ての人間の上に置かれた罪の支配の結果と言うことができます。このことも、創世記に遡ることができます。
「神はアダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ(創世記1章17節)。』」
人間は、神様の祝福の内に創造されましたが、初めの人アダムが罪を犯した結果、全ての人が罪の支配の下に置かれることになりました。そして、「食べ物を得ようと苦しむ」ようになる、と言われました。これは、働きに苦しみが伴うものとなるということです。イスラエルの民は、エジプトの地で、そのことを特に顕著に経験することになりました。彼らがエジプトで課された労働の種類を見てみると、「粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業(14節)」と、いずれも土に関わることです。神様が、「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」と言われたことが、ここに現わされています。労働は、罪を犯したゆえの呪いとして、人に与えられるようになりました。
しかし、イスラエルの民がエジプトで重労働の苦しみを受けたことには、神様のご計画がありました。それは、彼らが罪のゆえに定められている労働の苦しみに直面し、主に助けを求めるようになることでした。
「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた(2章23節)」
イスラエルの民は、それからずっと労働のために苦しみ続けましたが、その中で主に心から助けを叫び求めた結果、神様からの答えを得る事になりました。エジプトからの脱出の出来事がその答えです。彼らが苦しみを受けたのは、このためでした。
3.エジプトからの脱出の意味
イスラエルの民は、エジプトに滞在した430年の間、ヨセフが死んでからはずっと、奴隷の苦しみを味わい続けました。しかし、主に祈った祈りは聞かれ、彼らはエジプトから解放されることになります。主は、預言者モーセを立たせ、エジプト王の支配からイスラエルの民を解放し、イスラエルの地への帰還を導いて下さいました。それは、ただ物理的な意味で、彼らが労働の苦しみから解放され、祖国に戻ることができたということではありませんでした。これは、霊的な意味では、人間が主の贖いによって、罪の支配から解放されるということを示しています。そしてそれは、主イエス・キリストの十字架によって、成就されました。イエス様は、イスラエルの民がある一定の期間、エジプトの地に滞在したのと同じように、神の御子でありながら、この地上に人間としてある一定の期間、住まわれました。また、イスラエルの民がエジプトの地で苦しんだように、イエス様は地上であらゆる苦しみを受けられ、十字架において人間の受け得るすべての苦しみを引き受けられました。そして、イスラエルの民がエジプトの地から脱出したことは、イエス様が十字架で死なれた後、三日目に死を滅ぼして復活され、信じる全ての者は罪と死の支配から完全に解放されるということを示しています。私たちも、今この地上にあってあらゆる苦しみを受け、そしていずれ死を経験しますが、イエス様は十字架においてその全ての苦しみ、そして死から、脱出するための道を私たちのために開いて下さいました。出エジプトの出来事を通して、私たちはこのようにイエス様によって成し遂げられた救いの御業を思い起こすことができます。
4.具体例と結び
ところで、皆さんにとっての、出エジプトとは何でしょうか?主は、私たち一人一人を、具体的な出来事を通してイエス様のもとへ導いて下さり、罪の支配から脱出させて下さいます。それは、出エジプトのように主にある脱出の道を指し示す、私たち自身の出エジプトであると言えます。イスラエルの民が出エジプトの出来事を毎年の過越しの祭りの度に思い起こすように、私たちが、自分に備えられた脱出の道を忘れずに思い起こすことは、信仰の原点に立つという意味でとても大切なことであると思います。
私自身の信仰生活を振り返ってみても、やはりそこには、たくさんの出エジプトのような出来事がありました。その中から、一つの経験をお話ししたいと思います。私は、会社員の時に信仰に導かれ、イエス様を信じるようになりました。会社に入社2年目の頃、それまで私は自宅から会社まで電車で通勤していたのですが、自分一人の時間がもっと欲しいと思い、会社の近くのアパートに引っ越しすることにしました。色々な物件を見て回りましたが、ある駅のホームに降り立ったとき、なぜか駅の名前にピンとくるものを感じたので、駅近くの不動産屋に駆け込むと、ちょうどいい物件があり、そこに住むことにしました。引っ越しして少しの間は独り暮らしの自由な時間を満喫することができました。しかし、しばらくして、会社から部署の異動を命じられました。そこはとても忙しい部署で、それまでは結構プライベートな時間があったのですが、異動してからは殆どそのような時間はなくなり、毎日深夜まで働き、家には帰って寝るだけの生活になりました。また、職場の人間関係でもトラブルがあり、私は上司から辛く当たられるようになりました。心身ともにストレスが溜まり、私は疲れ果ててしまいました。しかしそのような時、自宅の最寄り駅近くに、教会があることを知りました。それまでも教会に行って見たいという憧れのようなものがあったのですが、礼拝にきちんと出席したことはありませんでした。それで私はその教会に通うようになりました。初めて礼拝に出た時から、聖書の御言葉が、ただの過去の事ではなく、今の自分に対して語られたメッセージであると感じました。私は毎週礼拝に出席するようになり、約1年の後、バプテスマを受ける決心をしました。そしてその年のイースターにバプテスマを受ける恵みに与りました。このことを振り返ってみた時、私が引っ越しをしたのも、また、職場で苦しい思いをしたのも、決して意味のないことではなく、救いに導かれるための神様のご計画であったのだと気づきました。しかもそれだけではなく、神様は、私に物理的な意味でも脱出を与えて下さいました。バプテスマの決心をした直後、私は会社から辞令を受け、南米のチリへ海外転勤をすることになりました。自分で希望した訳でもないのに、あれほど苦しんだ職場から解放されたというのは、そこに神様のご介入があったのだと思います。
これは、私の一つの経験に過ぎませんが、皆さんもきっと、それぞれ違った形で、神様から出エジプトの経験を与えられ、イエス様のもとへと導かれたことと思います。神様は一つ一つの出来事を、御計画のとおりに進められ、私たちに脱出の道を備えてくださいます。その神様の御業を忘れずに生きることを、出エジプト記を通して教えられます。今、どのような苦しみの中にあっても、その中にも神様のご計画があるということを、主は示しておられます。そのことを覚える時、日々を生きる力が与えられます。