2020年7月5日 礼拝メッセージ全文
テサロニケの信徒への手紙一 5章12~28節
わたしたちは、いつ何を経験するか分かりません。現在経験しています、このコロナウイルスの流行も、昨年はまさかこのような事態になるとはだれも想像していなかったと思います。また、先日は九州で豪雨があり、多くの被害が出ています。このところ、このような災害や色々な事件が頻発していますが、そのようなニュースを聞くと、当事者はもちろん、それを聞くだけでも不安や悲しい気持ちに襲われます。そのような苦しみの最中にあって、私たちは聖書から変わることのない希望をいただきたいと願います。聖書から、生きる力と喜びをいただきたいと願います。
今日の聖書箇所は、テサロニケの信徒への手紙一の最後の部分です。それはまさに、苦しみの中にあったテサロニケの人々に向けてパウロが送った、神様からの励ましの言葉です。その中で、最も良く知られている聖書箇所は、16~18節の中のこの御言葉であると思います。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」
1.いつも、絶えず、どんなことにも
喜び、祈り、感謝が大切であるということは、恐らく多くの人が抵抗なく理解できることであると思います。もしかすると、クリスチャンでなくても、それらが大切であることに賛成する方がおられるかもしれません。しかし、そこにこの御言葉のように、「いつも、絶えず、どんなことにも」という言葉が付くとどうでしょうか。これは途端に難しくなります。なぜなら、私たちは、冒頭でお話ししたように、苦しみを経験するからです。そのような中で、私たちは、悲しみます。疲れてしまい祈れなくなってしまいます。また、予想外の事態に、感謝よりも不平不満が湧いてきます。「いつも、絶えず、どんなことにも」喜び、祈り、感謝することなど、到底不可能に感じられます。しかし、だからこそ、私たちはこの箇所に続く言葉に目を留めたいと思います。
「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
喜び、祈り、感謝するのは、私たちがそうしたいからそうするのではなく、神様がわたしたちに望んでおられるからであると言われています。そして、「キリスト・イエスにおいて」と言われているのは、神様がそのためにイエス様を私たちのもとへ遣わして下さったということです。イエス様は、すべての人間の悩み苦しみ痛みを負うために、十字架にかかられました。そして復活されて、聖霊を送られ、イエス様の名を信じる全ての人の心の内に住んでおられます。だから、私たちは、イエス様を信じるなら、いつも、このお方が共にいて下さるということを知ります。また、絶えず、このお方が私たちを助けて下さるということを知ります。そして、どんなことの中にも、このお方が働いておられるということを知ります。目に見える状況や環境がどんなに悪かったとしても、そこにおられるイエス様を認める時、私たちの心の内から、イエス様のゆえに、いつも、絶えず、どんなことにも、喜び、祈り、感謝が沸き上がってきます。これこそが、クリスチャンの信仰の根幹であり、力の源です。
2.すべての人に対していつも善を行う
さて、パウロは、この16~18節の聖句の直前の15節で、次のように語っています。
「お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。」
12節から始まる今日の聖書箇所の最初の段落は、すべての人に対して、いつも善を行うように、という勧めの言葉になっています。しかしそのようなことは、私たちが自分の力で行えることではありません。それは、イエス様にあって、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝するという、クリスチャンの信仰が基本にあってはじめて行えることです。
私たちは色々な人に出会います。その中で、感謝できないことや、怒りを覚えることもあると思います。しかし、そのような時にも、イエス様が共におられるということを信じて、喜び祈り感謝しつつ、善を行うことを主は望んでおられます。
12~13節では、パウロは特に指導的な立場にある人々を尊敬するように命じています。この当時は、牧師や宣教師のように、公に認められた身分があった訳ではありませんが、御言葉に基づいてそれぞれのクリスチャンの群れを治めるリーダーがいました。そのような人々を、「主に結ばれた者」として、「愛をもって心から尊敬しなさい」と言われています。
ここでこのようなことがはじめに言われているということは、指導的立場にある人々がないがしろにされていたという現状があったのかもしれません。いずれにしても、そのような人々を敬うことは、昔も今も、簡単ではないということを示していると思います。例えば旧約聖書では、モーセが預言者としてイスラエルの民を導きましたが、彼に反抗する人々が大勢立ち上がり、モーセは大変苦労しました。指導者は、神の言葉を取り次ぎますが、語るその人自身は、一人の人間であり、完全な存在ではありません。それがゆえに、その人につまずいてしまう、ということも起きてきます。そのようなことは、現代の教会でも起こり得ることです。しかし、それがどのような人であったとしても、その人自身ではなく、その人を用いて下さる主に目を向けるなら、神様への感謝をもって、その人に接することができるということを、この箇所は教えています。
そして続く14節では、今度は色々な意味で助けの必要な人々に、愛を示すようにという勧めがなされています。ここでは、「怠けている者たち」「気落ちしている者たち」「弱い者たち」に対して、忍耐強く接することが勧められています。その中で、特に、「怠けている者」と訳されている言葉の元々の意味は、「規則に従わない者」「好き勝手にする者」ということです。つまり、パウロを含めた指導者たちによって教えられた御言葉の教えを無視し、自分勝手な解釈を行っている人々のことを指しています。パウロは、そのような人々を含めて、すべての人に対して、忍耐強く接することを勧めています。それは、ただ、自分勝手な教えの解釈をしている人々の間違いを指摘するのではなく、子どもに教えるように、愛をもって何が正しいのかを忍耐をもって教え諭すということです。実際パウロはそのように、父親が子どもに対するように、テサロニケの一人一人を教え諭したと、この手紙の2章に書かれています。パウロはその一人一人のために、忍耐しつつ、どれだけの祈りを積んだことでしょうか。私たちも、同じように忍耐をもって祈りつづけることを、パウロのテサロニケの人々に対する言葉と姿勢から教えられます。事実に反することをふれ回ったり、自分について間違った情報を流したりするような人は、現代にもいます。しかし、その時に、すぐにその人の間違いを正そうとするのではなく、むしろ忍耐をもって祈り続けることを、主は望まれます。主にあって、喜び、祈り、感謝し続けることによって、私たちはそのような人々にも愛をもって接することができますし、そのような中で、正しいことを伝える機会も備えられてゆきます。
さらに、15節では、「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気を付けなさい」と言われています。テサロニケの教会は、厳しい迫害を受けた教会でしたから、色々な人々からの悪だくみや攻撃があったと思います。しかしパウロは、どのような悪に対しても、仕返しをするのではなく、かえって善を行うように勧めています。私たちは、迫害のような大きなことでなくても、人から何か嫌なことを言われたり、傷つけられたりするとき、何とかしてその人に仕返しをしようとしてしまうことがあります。実際に行動に移すようなことがなくても、心の内には、そのような苦い思いが生まれてしまいます。しかし、そのような時こそ、その人を含めたすべての人の罪をあがなって下さったイエス様を見上げ、喜び、祈り、感謝することを主は望まれています。悪に対する仕返しをしようとするとき、人は自分が正義を行っていると思うものです。しかし、ここで「悪をもって悪に報いることのないように」と言われているように、仕返しをする時点でそれは正義ではなく、悪になってしまっているということです。パウロはローマの信徒への手紙12章21節で「善をもって悪に勝ちなさい」と教えたように、この箇所でも、悪に対して善を行うことを勧めています。それは、私たち自身の中に、喜び、祈り、感謝があってはじめて可能なことです。たとえ感情的にはその人のことを赦せなくても、その感情は主におゆだねし、その出来事の中にもおられる主を見上げ、喜び、祈り、感謝してゆくということです。
私たちは、そのような、喜び、祈り、感謝する信仰生活を送ってゆきます。これは信仰の戦いです。常に自分の内にある自我と戦いながら、喜び、祈り、感謝することを選び取ってゆくことです。私たちは到底自分にはできない、と自分の弱さを知りつつも、心の内には19節にあるように「霊の火」が燃えています。これは、イエス様を信じることによって与えられる聖霊を示していますが、この聖霊の火が、私たちに力を与えます。その微かな火を消さずに、喜び、祈り、感謝しつづける時、この火は燃え広がる愛の炎となって、周りの人々に伝わってゆきます。「お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行う」者へと、私たちが変えられてゆきます。
3.再臨の日に完成される
私たちはそのように、苦しみの中にあっても、主にあって喜び、祈り、感謝して、人生の日々を生きています。しかし、それが最終的な完成を遂げるのは、イエス様が再臨された時であるということが示されています。
23~24節「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」
イエス様が再び来られるその日には、私たちは復活の命を与えられ、霊も魂も体も何一つ欠けたところのない存在として、非のうちどころのないものとして、神様の御前に立つ者とされます。主と共に永遠に生きるその御国の生涯にあっては、すべての苦しみは取り去られ、もはや嘆きも悲しみも全くありません。私たちは神様と顔と顔を合わせて礼拝し、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することができます。私たちはそのような天の御国での完成された人生を待ち望みつつ、今、この地上での人生を生かされている者です。そこには色々な苦しみがありますが、その中にあっても、私たちは今、共におられ、そしてやがて再び来られて全てを完成して下さるイエス様を見上げ、喜び、祈り、感謝をすることができます。そのように、いつも、絶えず、どんなことの中にあっても、イエス様と共に歩むこと、これこそ、神様が私たちに望んでおられることです。