再臨の主を見上げて歩む

2020年6月28日 礼拝メッセージ全文

テサロニケ信徒への手紙一 4章13節~5章11節

 

今月は主日礼拝で、テサロニケの信徒への手紙一を取り上げています。この手紙は、迫害という大きな苦難の中に生きたテサロニケのクリスチャンに向けて書かれた手紙であったことを、これまで確認してきました。その意味で、時代も状況も全く違いますが、色々な意味で苦難の中に生きている現在の私たちに向けて、神様から送られた御言葉であるとも言えます。
苦難の中では、人はどうしても、うつむき加減になってしまうものだと思います。悪い方に悪い方に考えてしまい、気が付くとどんどん落ち込んでいってしまいます。しかし聖書は、苦難の中でこそ、上を向いて、神様に期待をするように私たちを導きます。今日の箇所は特に、苦難の中でこそ、再び来られる主イエス・キリストを見上げて歩むことを教えています。

 

1.復活の命が与えられる

イエス様が再びこの地上に来られるという再臨の時、最初に起こることは、イエス様を信じて死んだ人々が復活するということです。
14節「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」

ここで言われているように、イエス様が復活されたことは、私たちが復活するということと切り離すことはできません。イエス様が再び来られるとき、私たちはイエス様のように、栄光に輝く体を持った存在として、復活する者とされます。それこそが、再臨と共に、キリスト者に与えられている希望です。
ところが、テサロニケの人々の中には、兄弟姉妹が召されていくという死の現実を目の前にして、嘆き悲しんでいる人々がいたようです。パウロは彼らに対して、「希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまない」で欲しいと語っています。もちろん彼らも復活を信じていましたが、彼らは特にイエス様の再臨を待ち望む人々でしたから、それを待たずして人々が召されていくのを見て、意気消沈していたのかもしれません。
それだけ、死の力というものは強いということです。死は、希望を持たない人々、つまりイエス様を信じない人々にとっては、全ての終わりであり、空しさだけがそこにあります。それは、当時の人々にとってだけでなく、現代の私たちにとっても同じことであると思います。今日の箇所では、死ぬことが「眠る」という言葉で表されていますが日本人も、死ぬことを「永眠する」という風に言います。ところが、そこには本当の意味の安らかさや希望は全く無く、死の力の前に、人は沈黙する他ありません。
テサロニケの人々も、同じような葛藤の中にいたのかもしれません。しかし、ここでパウロは、イエス様を信じる者は、永遠の命を与えられ、イエス様が再び来られる時には、イエス様と「一緒に導き出される」、つまり、共に生きる者にされるのだということを教えています。イエス様は死の力に勝利されて復活された、それはすなわち私たちも死の力に勝利し、栄光の体を得てイエス様と共に生きる者とされるということです。私たちは、主の再臨の時に与えられるその復活の命の希望を見上げて、今を生きる者です。

 

2.イエス様と共に天に上げられる

次に、キリストにある死者の復活に引き続いて起こることは、その復活した人々と、その時点で生き残っている人々が、空中でイエス様に会うために、一緒に天に向かって引き上げられるということです。
16~17節「すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」

ここで言われていることが、実際どのように起こるのか、私たちの頭では中々イメージできない部分があるかもしれません。しかし、そこにたとえ理解できない部分があっても、主からの約束として受け止めることが大切であると思います。ここでは、合図の号令がかかり、大天使の声があり、神様がラッパを吹かれると言われています。それは、再臨の時には、天に明確な徴があるということです。そして、イエス様が天から降って来られ、イエス様を信じる者は雲に包まれて引き上げられ、イエス様を空中でお会いすると約束されています。これらのことは、イエス様自身も、十字架にかかられる前に語っておられたことです。
マタイ24:30-31「そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

ここでも、主が来られる時、天に徴があると言われています。そして、先の箇所とほぼ同じ内容が約束されています。イエス様が帰って来られる時は天から来られるということ、そして、信仰者は再臨されたイエス様と会うために、天へと引き上げられてゆくということが言われています。その時に生きているか、死んでいるかに関わらず、イエス様は一人一人を引き上げて下さり、天で共に生きる者にして下さいます。私たちは今、この地上に生かされており、いずれは塵に帰って行く者ですが、イエス様の再臨の時、復活の命が与えられ、そしてそれだけでなく、イエス様のおられる天に向かって上げられてゆくということを経験します。全く不思議なことですが、旧約聖書では預言者エリヤが生きたまま天に上げられたように、そして新約聖書では、イエス様が使徒たちの見ている中を天に向かって上げられていったように、主の再臨の時には、その時点で生きている人々は直接天に上げられ、また、イエス様を信じて既に召された人々は復活し、彼らと一緒に天に上げられていきます。私たちは今この地上にあって、そのような天を見上げて生きる者です。

 

3.主の日の裁きから救われる

そして次に、イエス様を信じる者が主の日の裁きから救われるということが起こります。
5章9節「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです」

私たちが天に引き上げられるということと、神の怒りから救われるということは、同じ一つのことを指しています。主が再臨されるのは、救われる者を引き上げるためであるのと同時に、罪に支配されたこの世界を滅ぼすためであるからです。聖書ではその裁きの日のことを、主の日と呼んでいます。この主の日が来る、ということが旧約聖書で繰り返し預言されていました。ですから、その日がいつ来るのか、イエス様の弟子たちも、イエス様にたずねました。するとその時のイエス様の答えは、「その日、その時は誰も知らない」というものでした。だから、その日のために準備をしていなさいとイエス様は教えられました。今日の箇所でもパウロは、主の日がいつ来るのかについては語っていません。ただ、主の日は盗人のようにやってくる、つまり思いがけない時にやって来ると語っています。人々が「無事だ。安全だ」と言っている最中にその日は来ると言われています。しかし、その日、イエス様を信じて天に上げられる者は、神の怒りから救われるということが約束されています。その日には、かつてない全世界規模の苦しみとそれに続く滅びがもたらされることになりますが、イエス様はそれらから私たちを救い出してくださいます。現在も私たちは様々な苦しみの中にありますが、それでも、世の終わりに臨む最も大きな苦しみである神の怒りから救い出されるという約束に、希望をもって生きることができます。

 

4.目を覚まし、主に向かって向上してゆく

今日の箇所から、これまで三つのことを語りました。それは、イエス様の再臨の時、イエス様を信じる者には復活の命が与えられ、天に引き上げられて主に出会い、そして神の怒りから救い出される、ということでした。それでは、私たちはそのような約束を受けて、今、どう生きるのでしょうか?パウロは次のように勧めています。
5~6節「あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」

私たち自身は罪びとであり、世の暗闇の中に生きている者です。しかし、そのような私たちをイエス様はあがなって下さり、滅びを免れさせ、栄光の体を持って天に引き上げる約束を与えて下さいました。そのような私たちは、この世にあっても、すでに「光の子」とされているということです。だから、「ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」。ここで注意が必要なことは、私たちは、救われるために、目を覚まし、身を慎むのではないということです。私たちは救われて、光の中にいるからこそ、目を覚まし、身を慎んで、主に感謝をささげて生きていくということです。この「身を慎む」という言葉ですが、原文の単語を直訳すると、「酔わないでいる」ということになります。それは、酒に酔わないでいるということだけでなく、あらゆる世の誘惑に注意深くあるということでもあります。しかし、そこには戦いがあります。8節では、「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり」とあります。信仰・愛・希望という、クリスチャンに与えられた最も大きな三つの恵みを、自らの身を守る武具として身に着け、終わりの日まで光の子である私たちを誘惑するサタンとの戦いを、私たちは歩んで行かなければなりません。しかし、そのサタンも、最終的には再臨されたイエス様によって滅ぼされてゆきます。その時、私たちは天の完全な光の中を歩むことになります。
そして最後に、11節には「ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」とあります。励まし合うことの大切さは、先週も確認しました。私たちは、主の再臨の約束に基づいて、お互いに励まし合う者です。そして、それだけでなく、今日の箇所では、「お互いの向上」を心がけるように勧められています。この「向上」という言葉は、原文を直訳すると「建て上げる」となり、お互いに建て上げるということです。キリストのからだの一部である私たち一人一人が、お互いを建て上げ、主が再び来られる日、花婿であるイエス様が教会を花嫁として迎えられるように、備えをしていくということです。主がその時を待ち望んでおられるように、私たちもその時を待ち望みます。
私たちは様々な苦難を経験します。しかし、そのような中にあってこそ、再び来られるイエス様とその約束を心に留め、上からの救いを待ち望みつつ、私たち自身もお互いに建て上げ、上に向かって進んでゆきます。そのように私たちは日々、再臨の希望を与えられるイエス様を見上げて歩んでゆきましょう。