2020年12月6日 礼拝メッセージ全文
マタイによる福音書1章1~17節
今日は、新約聖書の一番初めの箇所、イエス様の系図の箇所です。私が初めてこの箇所を読んだのは、中学1年の時であったと思います。当時、聖書の初めにこのようなカタカナの名前の羅列があり、さっぱり意味が分からなかったのを覚えています。しかし、大人になって、イエス様を信じるようになり、聖書を改めて読むようになった時、この系図には大切な意味がこめられているということが少しずつ分かるようになりました。この系図は、イエス・キリストという方がどのような方であるのかを私たちに伝えています。そして、この系図を通して、私たちはそのことを具体的に知ることができます。
1.一人の人間としてお生まれになった
まず、この系図が一つ目に示していることは、イエス様が、歴史上に実在する一人の人間としてお生まれになったということです。
そのことは、イエス様が、普通の人々の中から、そして罪深い人間の系図の中からお生まれになったということから分かります。ここに出てくる人々の名前の中には、良く知られている名前もあります。しかし、聖書の他の箇所には全く出てこない名前もたくさんあります。そのすべてがどのような人であったのかは、私たちには分かりません。しかし、共通していることは、その一人一人は、私たちと同じような普通の人間であり、私たちと同じように罪を犯す罪人であったということです。
それは特に、ここに出てくる四人の女性の名前が指し示していることです。タマル(3節)、ラハブ(5節)、ルツ(5節)、ウリヤの妻、すなわちバト・シェバです(6節)。男性中心の社会にあって、女性の名前が系図の中に出てくるというのは異例のことでした。しかも特にこの女性たちは、ユダヤ人の間で、罪を思い起こさせる存在でした。タマルは、娼婦のふりをして、亡くなった夫の父親であるユダと関係を持ち、子どもを残しました。もちろんそれは、ユダヤ人の律法で禁じられていることでした。ラハブとルツは、ユダヤ人ではない異邦人であり、本来ユダヤ人が結婚するべき相手ではありませんでした。そしてバト・シェバはダビデの部下、ウリヤの妻でしたが、ダビデはウリヤが戦場に行っている間に妻と関係しました。そしてダビデはウリヤをあえて危険な前線に立たせて死なせ、バト・シェバを自分の妻としました。こうして生まれたのが、ソロモンでした。これらの出来事は、神様のいとわれる罪でした。しかしイエス様は、そのような罪を犯す人々の系図の中からお生まれになりました。立派で非の打ち所がない人々からではなく、私たちと同じように罪や失敗を繰り返す人々の系図の中からイエス様は生まれました。それはイエス様が、私たちのすべての罪を背負うために、実際に一人の人として来られたということを意味しています。
2.神の御子としてお生まれになった(メシア)
しかしイエス様は、ただの人として生まれた訳ではありません。イエス様は、神の御子として、お生まれになりました。それが、この系図が二つ目に示していることです。
この系図を見ると、最初のアブラハムから最後のヨセフに至るまで、父が子を「もうけた」という言い方がされています。しかし、イエス様に関しては、「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった(16節)」と言われています。それはつまり、父親を介さずに、直接にマリアから生まれたということです。このことは、今日の箇所の後の18節で「聖霊によって身ごもった」と言われています。イエス様は、神様が超自然的な方法で与えられた子であったということです。それは、イエス様は一人の人として生まれましたが、同時に神としてお生まれになったということを示しています。
旧約聖書は、このような神の子が来られるということを、イエス様の誕生のはるか以前から預言していました。そしてこの系図自体が、そのことの証となっています。まず、系図の最初に出てくるアブラハムですが、彼には次のような言葉が主から与えられていました。
「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る(創世記22:18)」
アブラハムの子孫から、全ての人間に祝福を与える者が生まれる、ということが預言されています。神様は、この預言を成就させるため、アブラハムの子孫を守り続けて下さいました。彼らは、エジプトに渡り、様々な苦難を経験しましたが、それでも、主はいつも彼らと共にいて下さいました。イスラエルの民は、モーセに導かれてエジプトを出て、イスラエルの地に戻り、その土地を得ることができました。そして、イスラエル全土を治める王となったのがダビデでした。これが、2節から6節までの流れです。
このダビデには、次のような言葉が与えられました。
「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える(サムエル記下7:12-13)」
この言葉の通り、ダビデの実の子であるソロモンは、イスラエルに神殿を建て、国を治めました。しかしこの言葉は、それだけでなく、将来ダビデの子孫から、全ての国を治める王が来られる、ということを預言していました。この預言を成就するために、主はダビデの子孫を守られました。ソロモン以降の時代、イスラエルは国の内部で分裂し、最終的には、イスラエルはアッシリアに、ユダはバビロンに支配されることになってしまいました。しかし、そのような状況の中でも、主はダビデの子孫を守り続けて下さいました。ここまでが11節までの系図の流れです。
そして最後の12節以降には、ダビデの子孫がバビロンに移住させられた以降の系図が記されています。人々は敵国に強制連行され、エルサレムの神殿は破壊され、もはやアブラハムやダビデに語られた神様の預言は、実現しないのではないかと思った人々も多かったと思います。しかし、そのようなどん底の中にあっても、神様は決してイスラエルの民を見捨てられませんでした。預言されたとおりに、ダビデの子孫から、ダビデの町ベツレヘムから、救い主であるイエス様がお生まれになりました。それは、神様の預言がすべて成し遂げられたということです。
今日の箇所の1節で、イエス様が「アブラハムの子ダビデの子」であると言われているのは、そのようにイエス様が神様の約束を成就する方として来られたということを表しています。イエス様は神様の約束の通りに、全ての国民のための救い主、メシアとして、お生まれになったということです。
3.聖霊によって、神の子どもとされた私たち
これらのことは、今を生きる私たちにとって、どのような意味があるのでしょうか。まず、イエス様が、全く一人の人間としてお生まれになったということ、これは、イエス様が私たちと等しい者になって下さったということを意味しています。イエス様と同じく、私たちもそれぞれ、自分の系図を持っています。私は神学校で、家族について学ぶ授業を取ったのですが、その中で、自分の系図を描くという課題がありました。自分の良く知らない親戚のことは両親に聞いたりしながら、分かる範囲で4代前の親戚まで、いつ生まれ、いつ何が原因で亡くなったか、どんな人で、どんな性格だったか、等を調べました。すると不思議なことに、その系図の中には、共通するパターンがあるということが分かりました。例えば、同じような病気で亡くなる人が多いことや、同じような夫婦関係、兄弟関係の問題が、世代を越えて引き継がれていることに気付かされました。そして、他の生徒さんたちの発表からも、それぞれの家系に独特なパターンが存在していることが分かりました。皆さんもご自分の家系を見る時、そのようなことに気付く時があるのではないかと思います。しかし、イエス様が人となって生まれたということは、そのような様々な家系の束縛や問題で苦しむ私たちの只中に、イエス様が来て下さったということです。
そして、もう一つの事実、イエス様が神の御子としてお生まれになったということ、これは、イエス様が私たちのすべての罪を贖い、神の子どもとしてくださったということを意味しています。私たちの一人一人は、イエス様と同じように、長い系図の中に存在している一人です。しかし、イエス様が聖霊によって神の御子としてお生まれになったように、私たちも、イエス様を信じた時、聖霊によって新しく神の子どもとして生まれました。もちろん、私たちが家系や家族の中にある一人でなくなるわけではありません。しかし、私たちは、神の子どもとしての全く新しい人生を歩み始めます。その歩みの中で、たとえ時間はかかっても、主は私たちを様々な家系の束縛や問題から解放してくださいます。
使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙3章26~29節で次のように書いています。
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」
イエス様は、私たちを神の子どもとし、そして神の約束を受け継ぐアブラハムの子孫とするために、私たちのところに来て下さいました。私たちの出身や、地位や、性別には全く関係なく、私たちはイエス様によって、一つとなり、神様に由来する一つの系図の中に生きる者とされています。このような方として、イエス様が生まれて下さったということ、それがクリスマスの出来事です。このような大きな恵みに感謝しつつ、この時を共に過ごしていきましょう。