2021年7月11日 礼拝メッセージ全文
先週の御言葉ヤコブの手紙1章21節後半には、次のようにありました。「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」。私たちは、神の御言葉を聞くこと、そして、その御言葉にとどまって生きることによって、魂の救いをいただく者となる、というお話しを先週させていただきました。
今日の箇所の2章は、その続きとして書かれているところです。そこには、具体的に御言葉にとどまって生きるとはどういうことかが表されていると言えます。
1 人を分け隔てる罪
1節「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」
ここで、「人を分け隔てしてはなりません」と言われています。この「分け隔て」という言葉は、新改訳聖書では、「えこひいき」と訳されており、こちらの方がより一般的な言葉かもしれません。いずれにしても「分け隔て」又は「えこひいき」と訳されている原文のギリシャ語は、「顔」という言葉と、「受け入れる」という言葉の二つからできています。「顔」とは、「見た目」や「人の評価」のことも指す言葉です。つまり、人の「見た目」や「評価」のような外面的なことで、人のことを受け入れたり、受け入れなかったりしてはならない、ということです。
このことの具体的な例が、2~4節に書かれています。「金の指輪をはめた立派な身なりの人」と「汚らしい服装の貧しい人」が入って来た時に、「立派な身なりの人」を特別扱いして、「貧しい人」を軽んじるなら、それは差別であり、人を分け隔てする罪である、と言われています。
このことを聞く時に、私たちはどのように感じるでしょうか?ある人は、「自分ならそのようなことはしない」と感じるかもしれません。またある人は、「自分もそのように差別をされた経験がある」と感じるかもしれません。その反応は人によって様々であると思います。いずれにしても、この箇所は、先週の御言葉にあったように、鏡のように、私たち自身の姿を映し出していると言えます。私たちは、程度の差こそあれ、誰もが、人を分け隔てする罪を犯しています。それは多くの場合、最初に私たち自身が、人から受け入れられなかったり、分け隔てをされたりする経験をしたからです。そして、ある人は、この箇所にあるように、裕福な人を重んじ、貧しい人を軽んじるようになるかもしれません。しかし、その逆に、貧しい人を尊重する一方で、裕福な人々を軽蔑するという人もいます。人を分け隔てる基準が「お金」の事もあれば、その他の事である場合もあります。いずれにせよ、私たちは無意識の内にも、人を分け隔ててしまう者です。それは人間の内にある罪の性質によるものです。今日の御言葉は、そのように、私たちすべての人間の抱えている、分け隔ての罪の問題について明らかにしています。
2 ゆるされる神
しかし、そのような人間に対して、神様は、一切分け隔てのない方です。
神様は、罪を犯す私たち人間を分け隔てなく赦し、受け入れて下さるお方です。
5節「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」
ヤコブは、人を分け隔てる罪を犯してしまう私たちに対し、「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい」と呼び掛けています。そして、「まずあなたがた自身が、元々は貧しい者であったのに、信仰によって富む者とされたという恵みを思い出しなさい」と伝えています。この言葉のとおり、イエス様の弟子たちの多くは、社会的に恵まれた者ではなく、むしろ貧しい者たちでした。しかし神様は、一切人を分け隔てることなく、彼らを信仰に富ませ、初代教会のリーダーとまでしてくださいました。
聖書では、力ある者ではなく、むしろ人の目には無力と思われる者が選ばれるというメッセージが繰り返し伝えられています。例えばダビデは、イスラエルの王とされましたが、その初めは、目立たない、末っ子の羊飼いでした。ダビデが、預言者サムエルによって選ばれた時のことが、次のように記されています。
サムエル記上16:7「しかし、主はサムエルに言われた。『容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る』」
神様は、容姿や背の高さなど、目に見えることによってではなく、心によって見ると言われました。その後、サムエルはダビデの七人の兄に自分の前を通らせましたが、誰もふさわしい者がいませんでした。そこで、その場にはおらず外で羊の番をしていた末っ子のダビデを呼んだ時、主はこれが王となるべき者だとサムエルに語られ、サムエルはダビデに油を注いで王として任命しました。
神様は、貧しい者や、無力な者を選ばれます。それは、貧しさや無力さ自体に価値があるのではなく、人によらない、神の豊かさ、神の力が現わされるためでした。その意味では、これは私たちすべてにあてはまることでもあります。
私は先日、大学のお昼のチャペルでメッセージをさせていただきました。その時に集まられた学生の皆さんにお話ししたことですが、私はキリスト教系の大学に行っていながら、お昼のチャペルにほとんど参加したことがありませんでした。当時、クリスチャンではなかったですし、本当に自分の好きなことをして学生時代を気ままに過ごしていたと思います。そのような私が、社会人になってから福音を聞き、救われてクリスチャンとなり、今では牧師として召され、チャペルでお話しをするようになったことは、神様の一方的な恵みであると感じました。
私たちが今このように、主の導きによって、共に礼拝をささげているということ、これは本当に大きな神様の恵みであると思います。私たちのそれぞれが置かれていた環境や、抱えていた問題、それらは一切関係なく、私たちの一人一人は、主によって選ばれて、導かれて、今この場にいます。その意味では、神様の憐れみというものはいかに深いものかと改めて思わされています。
3 憐れみは裁きに打ち勝つ
今日の箇所の後半、8~13節は、私たちがそのように一方的な神様からの憐れみをいただいているからこそ、その憐れみを周りの人々にも分かち合っていくという生き方を示しています。
12~13節「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは、裁きに打ち勝つのです」
ここにあるように、私たちは「いずれは裁かれる者」であることを知る必要があるということです。私たちは、イエス様の十字架によって、すべての罪が赦されている者ですが、それは、私たちが罪のない存在となったということではありません。罪を犯し続ける私たちは本来、神の裁きに遭わなければならない存在です。しかし、神の憐れみによって、私たちは救われ、罪の赦しをいただいています。そのように、憐れみを受けた者として、語り、ふるまいなさい、と言われています。私たちの言葉や行動を通して、神の憐れみを映していくということです。
これは自分の力でできることではありません。私たちの心にある、人を裁く思いとは、本当に根深いものです。今日の箇所の前半に出てきた、人を分け隔てる罪も、ここに由来しています。私たちは、無意識の内にも、人を裁き、分け隔ててしまう者です。ここに私たちは、神の御言葉を必要としています。
「人を分け隔てしてはなりません(1節)」という御言葉のもとにとどまる時、私たちは、自分の力ではそれができないということを知ります。だからこそ、そのようなわたしのために、イエス様が十字架にかかってくださったという、分け隔ての無い神の恵み、憐れみを知ります。そして、主は、そのような自分をも、神の憐れみを伝えるための器として用いて下さっているということを知ります。「憐れみは裁きに打ち勝つのです(13節)」。イエス様を通して私たちに与えられた憐れみは、私たちに対する裁きの言葉に勝利し、また、私たちが人を裁く心、分け隔てる心や言葉に対しても、すでに勝利しています。この勝利を信じて、信仰生活を歩んでいきましょう。