大地の尊い実りを待つ

2021年7月25日 礼拝メッセージ全文

ヤコブの手紙 5章7~20節

今日の聖書箇所の7~8節には、「忍耐」という言葉が繰り返されています。私たちは「忍耐」と聞くと、「忍んで耐える」という字の如く、嫌なことや辛いことを我慢して耐えること、を思うのではないでしょうか。しかし今日の箇所を読むなら、聖書の伝える「忍耐」とは、それとは全く異なることが分かります。7節後半にあるように、忍耐とは、農夫が収穫を待つように、期待して待つということを表しています。

 

私たちは、何の為に信仰生活を送っているのでしょうか?それは、イエス様を信じて神の子とされた私たち一人一人が、実を結ぶ人生を送っていくためだと言えます。

ヨハネによる福音書15章1~2節「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」

ここでイエス様が言われた「実」とは、目に見えるこの世的な成功を意味しているのではありません。それは、神様の御心、栄光、素晴らしさが、私たちを通して現わされるということです。今日の箇所は、そのような「実」を、忍耐をすることによって結んでいく人生とはどのようなものか、を伝えています。

 

1.ヨブの忍耐

11節「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」

ここで、ヨブという人の忍耐について語られています。ヨブがどのような人であったのか、ヨブ記の冒頭には次のように記されています。

ヨブ記1章1節「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」

ヨブ記は、このヨブが、突然十人の子どもと全財産を一挙に失い、さらに、全身に重い皮膚病を患うという壮絶な試練を経験したことを伝えています。

しかしヨブ記は、無垢で正しい人であったヨブが、このような不条理で厳しい試練を忍耐したということをたたえる話ではありません。

そうではなく、ヨブ記は、試練の中で、ヨブが自分を正しいとしていた傲慢に気づかされ、自分自身の暗闇、醜さ、罪と向き合い、悔い改めに至ったという内なる忍耐について伝えています。

ヨブは、突然の試練に、初めの内は、神を呪うことをせず、賛美していました。しかし、彼はしばらくすると、自分自身を嘆き、呪い、そのような人生を与えた神をも呪うようになりました。自分自身は、何一つ悪を行わず、神の前に正しい人生を送って来たのに、なぜこのような目に遭わなければならないのか、と。試練とは、このように、私たちの心の奥底にある本音を浮き彫りにします。ヨブは、神様との対話の中で、自分自身を正しいとしていた罪に気づかされ、悔い改めに導かれました。そして、ヨブが自分の高慢を悔い改め、祈った時に、神様はヨブをいやし、回復を与えられました。

神様が私たちに求めておられる忍耐とは、この世の困難や不条理など、自分の外側の物事に対するものではありません。それはむしろ、まず、私たち自身の内にある罪の現実に対するものです。ヨブのように、自分自身の内にある、不条理や暗闇、そして罪から目を背けずに、それらをすべて赦し清めて下さるイエス様に希望を持ち、忍耐してゆくということです。そうしていくなら、ヨブにされたように、神様は私たちの内側をいやし、回復を与え、実を結ぶ人生を送る者として下さいます。「主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです(11節後半)」。それはつまり、誰よりもまず、主が私たちのことを忍耐し、待っていてくださるということです。

 

2.祈りつつ祈られつつ

今日の箇所の13~16節は、そのように、すべてを赦し、癒し、回復を与えて下さる主に希望を持って、祈り、そして賛美をする信仰生活について伝えています。良い時も、悪い時も、主を見上げて祈り、賛美をするということ。そして私たちが病気になり、自分ではもう祈れないという時にも、神様は、私たちのために執り成し祈ってくれる、神の家族を与えていて下さいます。

16節「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」

このように、いやされるためには、お互いに祈り合うことが大切であるということです。しかし、他人に祈ってもらうということは、自分自身をさらけ出すことでもあり、信仰が試されます。だからこそここでも、「罪を告白し合い」と言われています。もちろん私たちは、神様に自らの罪を告白するのであって、人にすべてを告白しなければならないということではありません。しかし、自らの罪や弱さのゆえに、お互いが主の赦しを必要としている存在であると認め合うことは、大切なことです。

ヨブ記では、大変な試練を経験したヨブを慰めようと、三人の友がやって来ます。しかし、嘆きのゆえに頑なになってしまったヨブと、何とかヨブを説得しようとする三人の友との対話は、それぞれが自分の正しさを主張するすれ違った議論になってしまいました。

しかし、ヨブが自らの罪を悟り、真に悔い改めた時、彼は友を議論で打ち負かすのではなく、むしろ彼らのために祈る者と変えられました。

ヨブ記42章10~11節「ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。兄弟姉妹、かつての知人たちがこぞって彼のもとを訪れ、食事を共にし、主が下されたすべての災いについていたわり慰め、それぞれ銀一ケシタと金の環一つを贈った」

この大きな変化は、彼の内面が変えられたことを示すものでした。彼はもはや自分の正しさを主張するのではなく、主の前にへり下り、友のために祈る者となりました。

今日の箇所の16節後半には「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」とあります。この「正しい人」とは、罪過ちを犯さない人のことではありません。むしろ、「自分の罪深さを知った人」であると言えます。ヨブについて、「無垢な正しい人」と言われていましたが、彼も結局は人間であり、完全に「正しい人」ではあり得ませんでした。しかし、そのようなヨブを、神様は打ち砕かれ、神の前に罪人である自分の姿を示されました。そのようなヨブの祈りは、友人たちを救い、さらには自分自身についても、かつての二倍の財産を得、新しく十人の素晴らしい子どもたちを与えられ、長寿を全うする者となりました。

ヨブのように自分の罪深さを知ると、それを赦して下さる主の恵みに目が開かれてゆきます。それは、イエス様が十字架にかかられ、私たちの罪を赦して下さったということを知る私たちにはなおのことです。私たちは、罪深い者でありながら、主の十字架によって「正しい人」とされ、そして、そのような私たちの祈りは、「大きな力があり、効果をもたらす」と言われています。私たちは、祈りつつ、また祈られつつ、主が私たちを通して結んでくださる実を見てゆくことができます。

 

3.恵みの雨を待つ

作物が実を結ぶために必要なものは、雨です。今日の箇所では、「実」と共に、「雨」という言葉が出てきています(7、17~18節)。特に後半の17~18節では、エリヤという預言者のことが伝えられています。エリヤの生涯について振り返るなら今日は時間が足りませんが、今日の箇所はエリヤの「祈り」について伝えています。

17~18節「エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました」

エリヤの熱心な祈りが、三年半の干ばつをもたらした、とあります。干ばつは人間にとって好ましいものではありません。しかし、渇ききった土地にこそ、雨はよくしみこんでゆきます。エリヤの祈りによってもたらされた三年半にも及ぶ干ばつの期間は、後の雨によって、地が豊かな実を実らせるためであったということです。

7節「農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです」

私たちも、この世で生きる中で、様々な困難や試練を経験します。それはいつ終わるとも知れない干ばつのように思われることもあるかもしれません。しかし、神様はその先にこそ、豊かな実を実らせる恵みの雨を降らせて下さいます。主は私たちを決して見捨てずに、忍耐をもって、待ち続けていて下さいます。私たちも、どのような状況の中にあっても、あきらめず、自らを滅びから救い出して下さる主に希望を持ってゆきましょう。主は私たちの一人一人を通して、「大地の尊い実り」を結ぼうとしておられます。