神の国の到来

2021年11月28日 礼拝メッセージ全文

イザヤ11章1~10節

今日から教会ではアドベントを迎えています。アドベントは、クリスマスを待ち望む時期として、日本語では待降節と訳されていますが、そのラテン語の元々の意味は、「到来」「やって来る」です。

私たちはこのアドベントの時期、救い主であるイエス・キリストというお方が、私たちのために既にやって来られたということ、そしてやがて再び来られるということ、このことを感謝し、そして待ち望むことができます。

そして、イエス様の到来によって、この地上に神の国がもたらされます。今日のイザヤ書11章は、そのような神の国の到来について伝えています。

1.既に到来した神の国

まず、今日の箇所を通して示されているのは、イエス様がこの地上に来て下さったことによって、既に神の国が到来しているということです。

1~2節前半「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」

ここには、木のイメージが語られています。この直前の箇所でも、国々が「木」にたとえられています。10章34節「主は森の茂みを鉄の斧で断ち、レバノンの大木を切り倒される」。どんなに強大な力を持った国でも、神に背くなら、大木が切り倒されるように、滅ぼされてしまうということです。それに対して、ここで出て来るのは、株という小さな存在です。大木に比べると、株とは本当に小さな存在です。そしてこの箇所では、株は、エッサイという人のことを表しています。エッサイとは、ダビデの父のことですが、彼は、この世的には、大きな力を持った存在ではありませんでした。彼は、ユダのベツレヘムという小さな町の出身でありました。しかしこのエッサイから八人の息子が生まれ、後にイスラエルの王となるダビデは、エッサイの息子の内の末っ子でした。サムエル記上を読むと、このダビデが王として選ばれた時の様子が書かれています。ダビデは、見た目からしても、彼の任されていた羊飼いという職業からしても、決して王にふさわしいと皆から思われるような存在ではなかったということです。それでも神様はこのダビデを選ばれて、イスラエルの王とされました。

神様が選ばれる人は、人間の目から見て、偉大で力強い存在ではないということです。エッサイも、その子どものダビデも、そのような者として神に選ばれました。そして、その根から、一つの「若枝」が育つ、と言われています。これこそ、ダビデの子孫から生まれた、私たちの救い主イエス・キリストです。イエス様は、今から約2千年前に、エッサイとダビデの街、ベツレヘムでお生まれになりました。イエス様は、飼い葉おけの中という本当に貧しいところで生まれ、33年余りという短い地上での生涯を過ごされました。そして、最後には十字架につけられ、死んでゆかれました。イエス様は、神の御子でありながら、最も小さい者、最も貧しい者として生きられました。それは、私たち人間の考えるこの世の方法とは全く異なる、神様の方法によって、救いがもたらされるためでした。

3節「彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない」

イエス様の与えられる裁き、そして弁護、すなわちイエス様の与えられる救いの御業とは、人間の「目に見えるところによって」「耳にするところによって」理解できるところのものではないということです。それは、イエス様が十字架にかかられ、この世の基準からすれば最も弱くなられることを通して与えられました。それは私たちの罪をすべて贖うためでした。誰でも、どんな罪を犯していたとしても、このイエス様を信じることによって救われ、神の子ども、神の国の民とされることができるようになりました。その意味で、私たちのところに、神の国はもう既に来ています。今から約2千年前に、イエス様がこの地上にお生まれになり、十字架で私たちの罪のための贖いを成し遂げられたことによって、神の国が私たちのもとに到来しています。

 

2.やがて到来する神の国

しかし神の国は、まだこの地上に完全には来ていません。それが完全に現れるのは、イエス様が、再びこの地上にやって来られる時です。

10節「その日が来れば、エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く」

終わりの日、その日がいつになるのかは誰にも分かりませんが、イエス様がもう一度この地上にやって来られる日が来ます。その時、今の世は滅ぼされ、エッサイの根として生まれたイエス様が、すべての民、すべての国々の王としてあがめられるようになります。このような完全な神の国が、どれほど栄光に輝き、そして神の平和に満ちているのかを、6~9節は伝えています。

6~9節「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる」

ここには、神の国における完全な平和が描かれています。このようなことは、今の自然界ではあり得ないことです。最もか弱い存在である子羊や子山羊や乳飲み子が、最も危険な存在である狼や豹や蛇と仲良く共存することなどできません。私たちもまた、この地上の人生において、様々な危険や困難に直面しますし、最終的には死を経験する者です。

しかし、イエス様が再びこの地上にやって来られ、王としてこの世界を治められる時、完全な平和が実現されます。この平和は、人間の力によってではなく、神様の力によってもたらされます。その時、「水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる(9節)」とあります。すべての人々、そしてすべての被造物が、水が海を覆うように、主であるイエス様を知り、畏れるようになるということです。その結果として、もはや何ものも害を加えず、滅ぼすこともなくなる、ということが起こります。私たちは、イエス様が再びやって来られる時、このような完全な神の国の平和が与えられるということを、待ち望んで生きることができます。

 

3.今ここに在る神の国

神の国の到来というのは、ただ将来のことだけを言っているのではありません。そしてもちろん過去の出来事のことだけを言っているのでもありません。それは、今、私たちが生きる現実生活の中に到来するということでもあるからです。

ルカによる福音書17章20~21節「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」」

ここでイエス様は、「いつ来るのか」という問いに対して直接答えることをせず、むしろ神の国と人間の関係性について話されました。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」というイエス様の答えは、神の国とは、時間や空間を超越した存在であるということ、しかし、それでもなお、私たちの間に実際に「ある」ものであるということ、を示しています。

つまり、私たちの日々の生活の中においても、神の国は私たちの只中にあるということです。それは、神の完全な平和が既に実現されたということではなく、罪の支配するこの不完全な世の中にあっても、私たちはイエス様にあって、いつでも神の国の中を生きることができる者であるということです。

6節「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く」

神様は、狼や、豹、若獅子がいなくなるとは言われませんでした。私たちが生きている限り、この地上には様々な苦しみや問題があります。それは、人間が罪を犯したことにより、この世がサタンに支配されるものとなったからです。ペトロは、第一の手紙の中で、「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」と書いています(Ⅰペトロ5:8)。悪魔は、目に見える存在を用いて、ある時は獅子のように、ある時は狼、ある時は蛇のように、私たちを攻撃し、誘惑をしてきます。

すべての罪と苦しみの根源であるサタンは、イエス様の再臨の時に、完全に滅ぼされます。そして、私たちに害を与える存在であった、狼や豹や蛇も、もはや害をもたらす存在ではなくなります。しかし今、私たちがイエス様にあって神の国の中を生きる時にも、このことを日々の生活の中で経験してゆくことができます。例えば、私たちの身の回りにも、獅子や、狼や蛇のように、狂暴で邪悪な存在がいるかもしれません。また、私たち自身の中にも、狼や蛇のように、邪悪な一面があるかもしれません。私たちは、それらのものを、自分の力で抑え込んだり、変えたりすることはできません。しかし、イエス様に祈り求める時、神の国は私たちの生活の只中に、そして私たち自身の中にやって来ます。そして、そこを支配しているサタンの暗闇の力は取り除かれ、神様の力によって、周囲も、またわたし自身も変えられてゆくことができます。

そのようにして私たちは、やがて来られる完全な神の国を待ち望みつつ、そこにある平和の一部を味わいながら生きることができる者です。

 

このアドベントの時、私たちの救い主イエス・キリストが、今から約2千年前に神の国の救いをもたらすために来られたこと、そして後の日に完全な神の国を実現するために再び来られること、さらに今、神の平和を与えるために私たちのもとに来てくださることを感謝し、希望を持って過ごしてゆきましょう。