主の山に登ろう

12月5日礼拝メッセージ全文

ミカ4章1~8節

アドベントの2週目を迎えました。このアドベント、クリスマスの時期を用いて、神様は世界中の人々を、イエス様のもとへと導いておられます。クリスマスの時期に信仰決心をして救いに導かれた人も多いでしょう。私もそのような一人です。クリスマスの時にいつも読まれる聖書箇所で、三人の博士たちが、生まれたばかりのイエス様のもとに遠く東の国からやって来るというところがあります。彼らはユダヤ人ではありませんでしたが、イエス様のことを「ユダヤ人の王」と呼び、礼拝をするためにやって来ました。そのように、イエス・キリストという方は、世界中のすべての人のための「王」としてやって来られました。このことが聖書全体を通して語られており、今日の箇所も、すべての人のための王として来られるイエス様について伝えています。

 

1.「終わりの日」の始まり

1節の初めには、「終わりの日」とあります。これは、遠い将来のことだけを指すのでしょうか?聖書的には、「終わりの日」とは、もうすでに始まっている時です。ちなみにこの箇所の英語訳は”In the last days”となっています。それでは「終わりの日」とはいつ始まったのでしょうか?それはイエス・キリストがこの世に来られた時にです。

ヘブライ人への手紙1章1~2節「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」

ミカを含め、神様によって選ばれた預言者たちは、主の御計画が何であるかを語りました。それは、ヘブライ語でメシア、ギリシャ語ではキリストと呼ばれる救い主がやって来て、罪に支配されたこの世界から、人間を救い出して下さるという計画です。

イエス・キリストの誕生とは、正にこの計画の成就される終わりの時代の始まりでした。そしてこの時代の最後に、イエス様はもう一度戻って来られます。それは、罪に支配された今の世を滅ぼされ、神の完全な平和が支配する新しい世が到来するためです。その意味で、イエス様は終わりであると同時に、始まりです。それで、イエス様はご自身のことを「アルファであり、オメガである」と言われました。私たちは、終わりの日に完成される神の国を目指して、今の時を生きています。

 

2.山頂に向かって

そのような終わりの時代に生きている私たちに対して、今日の聖書はこう語ります。

2節「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」

終わりの時にやって来られるイエス様は、神の国を、最も高い山のようにもたらして下さいます。そしてそれは、遠くかけ離れた存在ではなく、私たちの一人一人が登ってゆくことのできるところです。

皆さんは山登りが好きでしょうか。私は好きです、というか好きでした・・。最近は忙しく全然行きませんが、以前はよく山に登ることがありました。振り返ると、一番うれしい瞬間は、山頂が見えた時であったと思います。どんなに辛い山でも、山頂が見えると、疲れが飛び、頑張ってゆけたように思います。

私たちの信仰生活も、ある意味では山登りのようなものです。私たちは、イエス様を信じて信仰生活を送っていても、様々な問題や失敗を経験します。その時、自分の行く先が見えずに、不安になることがあります。しかし、私たちの信仰生活、私たちが登る主の山には、山頂というものが確かに存在しています。それは、主であるイエス・キリストが再び来られ、神の国が完成される時が来るということです。その時、私たちがそれぞれに歩んだこの地上の生涯は完成され、永遠に神と共に住む者とされるのです。今、私たちの見ている現実がどんなに不完全で、下り坂のようにしか見えないとしても、終わりの日には、神の国においてすべてが完成されます。その時、イエス様に従う私たちは、主の山の山頂に立ち、神の栄光を拝し、みずからも神の栄光に輝く者となることができるのです。

フィリピの信徒への手紙3章12~14節「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」

この手紙をパウロは、牢獄の中にいる時に書いたと言われています。人間の目からすると、最悪の時である獄中で、パウロはなぜこれほどまでに前向きな言葉を書くことができたのか、それは彼がイエス・キリストの再臨によって完成される神の国を、山頂として見据えていたからであると思います。それでもパウロは、「既にそれを得たわけではない」と二度繰り返しています。そして、なすべきことはただ一つ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ること、と語っています。

神様は、私たちの一人一人にご計画を持っておられます。そして、私たちがそのご計画に従って、今いるところから、主の山の山頂を目指して登ってゆくなら、その山頂において神の豊かな報いが用意されています。

 

3.へりくだりに向かって

私たちが主の山を登っていくというのは、この世的な意味で山を登るのとは全く違います。この世において、私たちが人生の山道を登ってゆくときに必要なことは、自分が力を得るということ、そしてその力であらゆる問題に立ち向かっていくということでしょう。

しかし、イエス様を信じて主の山を登っていくのは、むしろその逆です。それは、私たちが力を得る道ではなく、むしろ自分の力を捨ててゆくという道です。それは、イエス様の十字架に向かって歩んでいくということです。

3節「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」

イエス様が再び来られる時、この地上には完全な平和がもたらされます。それは、戦いも争いもない世界であり、もはや武器も不要となります。このような平和は、今の世には来ません。それは、罪に支配された今の世が滅ぼされ、イエス様が王として治める新しい世界がこの地上に実現されるときに与えられます。

私たちは、自分の力で平和を実現することはできません。そのことを私たちは日常生活の中で経験します。自分と異なる意見の人、自分に敵対する人との間に、本当の意味での平和を構築することは、人間の力ではできません。そしてそれは、大きなレベルでも同じことであり、異なる価値観や利害関係を持つ人々や国々は、常に衝突の中にあり、世界中で争いや対立が終わることはありません。

イエス様は、終わりの時代にこそ、このような争いが深まってゆくと語られました。しかし、終わりの時代の最後に、イエス様は王として再臨され、完全な平和の支配する、神の国をもたらされます。それは、人の力による平和ではなく、イエス・キリストの十字架の力による平和です。イエス様が再び来られる時、その姿は、ヨハネの黙示録の中で、「屠られた子羊」であると言われています。全世界に完全な平和をもたらすために来られる王が、「屠られた子羊」であるということ、それは、この王様が、すべての人に平和をもたらすために、自らの命を捨てて下さったお方であるということを表しています。そして私たちは、このクリスマスの時に、この世に生まれて下さったイエス様の姿を見ています。それは、「飼い葉桶の中の幼子」という、最も弱く貧しい者の姿です。それはやはり、この方の与えられる平和とは、人間の力によるものではなく、それを捨てきったところ、すなわち十字架にあるということを示しています。

このようなイエス様の姿から、私たちは、この地上の人生において、自らの力を捨てることが必要であると教えられます。私たちが主の山に登ってゆく信仰生活は、私たち自身が力を得て、高みに登ってゆくということではありません。むしろ、私たちが力を捨てて、低いところへとへりくだってゆくということです。そうする時に、イエス様は、私たちの地上の人生においても、人の力によってではなく、神様の力によって、平和を与えて下さいます。剣や槍によって、自らを守り、他の人々を傷つけていた者が、鋤や鎌によって、他の人々のために仕える者へと変えられてゆく、そのような驚くべき恵みを経験してゆきます。

 

4.弱い者が強い者とされる

神様は、そのような私たちの一人一人を、神の平和を宣べ伝える器として、この地上で用いて下さいます。

6~7節「その日が来れば、と主は言われる。わたしは足の萎えた者を集め、追いやられた者を呼び寄せる。わたしは彼らを災いに遭わせた。しかし、わたしは足の萎えた者を残りの民としていたわり、遠く連れ去られた者を強い国とする。シオンの山で、今よりとこしえに主が彼らの上に王となられる」

「その日が来れば」と主は言われています。終わりの日、イエス様が私たちのもとに再び来られる時、主の山の上に集められているのは、どのような存在か、それは「足の萎えた者」「追いやられた者」であると、この箇所は伝えています。

イスラエルの民は、神の国の到来を求めて、この地上で生き続けました。それは、主の山を登っていく経験でありました。しかし、その途上で彼らは何度も失敗、挫折を経験します。そして、幾度となく、偶像を拝む罪を犯し、そしてまた悔い改めるということを繰り返しました。

私たちがイエス様を信じ、イエス様に従い、主の山を登っていく時にも、やはり私たちは数多くの失敗や挫折を経験するでしょう。そして、その度ごとに、「足が萎える」、もう歩けない、という状態に陥ります。しかし、イスラエルの民の罪を赦して下さった神は、そのような私たちの弱さを赦して下さり、そしてむしろそのような弱さを知る者のところへ、イエス様は王として来て下さいます。

イスラエルの民の先祖であるヤコブが神様と格闘したという不思議な出来事について、創世記の32章は伝えています。ヤコブはこの格闘によって、腿の関節がはずれ、足をひきずるようになってしまいました。このことが意味しているのは、人の高慢が打ち砕かれるということです。ヤコブは、人生の中で、自分の力に頼って生きるというところがありました。しかし、そのような彼が自分の力に頼ることをやめ、神の前にへりくだる者となるように、神は彼の足を萎えさせるという経験を与えました。

私たちも、主の山を登っていく途上で、足が萎えるという経験をしてゆきます。しかし、それは決して無駄な経験ではなく、そのような経験を通して、私たちはかえって神により頼む者に変えられてゆくことができます。そして、そのような「足の萎えた者」こそが、神の国において用いられ、「強い国」とされる、と今日の箇所は伝えています。

イエス様は、すべての人のための王となられるために、かつて来られ、そしてやがて来られ、今私たちのところへ来てくださいます。私たちは、このお方を心に受け入れ、信じたその日から、主の山を登り続けている者です。その山の山頂には、神の完全な平和が支配する御国が、栄光に輝いています。その神の国に向かって歩むとき、私たちに必要なことは、イエス様ご自身が十字架で自らの力を捨てられ、命を捨てられたように、自分の力を捨てて、主なる神様にすべてを委ねていくということです。

イエス様の誕生を喜ぶこのアドベントの時、私たちは自らの力を捨てて、やがて再び来られるイエス様によって完成される神の国を見上げながら、力強く主の山を登ってゆきましょう。