この町には、わたしの民が大勢いる

2022年5月1日 礼拝メッセージ全文

使徒言行録18章1節~11節

 

1.弱さや罪の中に働く聖霊

今週の聖書箇所では、パウロがアテネでの宣教を経て、コリントに来たということが伝えられています。先週ご一緒に見たように、パウロがアテネに行った時の初めの反応というのは、偶像に満ちた町の様子に憤慨したということでした。素晴らしい芸術と文化の町、哲学の盛んな町であるアテネにおいて、パウロは、真の神ではない偽物の神々が拝まれていることに深い心の憤りを覚えました。この町でパウロは、色々な場所で伝道を行いましたが、結果的に救われた人は少なかった、と書かれています。それすらも、主の導きであった訳ですが、そのようなアテネでの経験を経て、やはりパウロの内心には疲れと落胆があったのではないかと思います。そんな彼が次に導かれたのは、コリントという町で、この町は、貿易の要衝として栄えた豊かな場所でした。しかし、これは現在でも同じことですが、富が集まるところには、罪もはびこり易いものです。コリントにおいては、当時、人々が様々な放蕩にふけり、特に売春行為が広く行われていたということです。そして、この町にも様々な偶像があり、異教の神々への礼拝が行われていたと言われています。パウロは、そのような町の状況を見て、アテネの時と同じように、もしくはそれ以上に、心に憤りを覚えたことと思います。パウロは、実際にコリントの人々に宛てた手紙の中でこう記しています。

「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、霊と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした(Ⅰコリント2:3)」

パウロは、アテネやコリントの堕落した様子や、自分に及び続けるユダヤ人からの迫害、そして宣教の収穫を中々見ることができないという状況の中で、恐れ、不安を感じていたということが分かります。けれども神様は、このように堕落した町で、そしてこのように落ち込んだ心の状態のパウロを用いて、素晴らしい神の御業をなしてくださいました。それは、このパウロの言葉の通り、人の力や知恵によるものではなく、神の力、聖霊の力によって、御言葉が宣べ伝えられてゆくためでした。

ペンテコステの日に、教会に注がれた聖霊は、今も私たちの心に注がれています。この聖霊の力を受ける時に、私たちは、自分の力によるのではなく、神の力によってイエス様を信じる者となり、そしてそのことを人々に伝えてゆく者とされてゆきます。自分自身の無力さを経験する時こそ、この力を実感することができます。だから、この聖霊とは、人間の弱さ、貧しさ、そして罪のはびこるところにこそ、注がれてゆきます。預言者イザヤは、かつてこう語りました。

「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために(イザヤ書61章1節)」

ここで言われている「貧しい人」「打ち砕かれた心」「捕らわれ人」とはまず、私たち自身であり、私たち自身の心です。神の霊は、そのように無力で貧しい存在である私たちに油を注ぎ、神の力を与えて下さいます。そして今度は、その聖霊の力を受けた私たちが、救いを求める貧しい、打ち砕かれた人々に良い知らせを伝える存在となるのです。だからこそパウロは、コリントというこの堕落した町において、救いを求める多くの人々に対して、イエス・キリストの福音を証することができたのです。

 

2.助け手を与える聖霊

聖霊は、私たちが一人で働くのではなく、主のために協力して働くようにしてくださいます。特に、このコリントで、パウロは、アキラとプリスキラという夫婦と出会いました。彼らはパウロと同じユダヤ人でしたが、他の多くのユダヤ人たちのように、パウロを迫害するのではなく、パウロの生涯にわたって、有力な助け手となりました。

彼らはパウロと出会った時、既にイエス様を信じていたのかもしれません。しかしいずれにしても、彼らがパウロと出会い、共に時間を過ごす中で、彼らに霊的な成長が与えられたということは確かです。そしてそれは、彼らが一緒に仕事をするということを通してでした。彼らの職業はパウロと同じ、テント造りでした。パウロは、福音を伝えるという彼の最も大切な働きと共に、テント造りという職業を持っていました。彼は、このコリントにおいてだけでなく、その行く様々な宣教地で、この仕事をしながら、同時に福音を宣べ伝えました。

パウロにとって、テント造りという職業は、まずは自分の生活費を稼ぐという目的のためでしたが、そこで与えられた出会いが、福音宣教の前進のために大いに活かされたということが分かります。アキラとプリスキラにとっても、このコリントという町は、自ら選んでやって来た町ではありませんでした。彼らは、ローマに住んでおられなくなり、この町に最近やって来たのでした。しかし彼らがこの町で、生活のためにテント造りの仕事をしていると、同じ仕事をしていたパウロと出会い、彼らは一緒に住むようになった訳です。ここにも大きな神様の導きがありました。彼らは、パウロを通して信仰の成長を与えられ、多くの人々を信仰に導く夫婦となりました。彼らの名前はパウロの手紙によく出てきますが、そこを読むと、彼らは自分の家を開放して教会としていったということが書かれています。

聖霊はこのように、初代教会の人々を導かれ、共に助け合って福音を語るようにされました。そしてそのことは、私たちにとっても同じであると言えます。今も生きて働いておられる神様の霊である聖霊は、私たちに必要な出会いと助け手を与えてくださいます。それはある時は仕事を通してであるかもしれませんし、ある時はそれ以外の関係を通してであるかもしれません。いずれにしても、自分の置かれた場所に神様の導きがあると信じる時に、聖霊は私たちに必要な出会いや助け手を与えて下さいます。そしてそこに何一つ偶然はないということを、私たちは信じることができます。

今日の箇所の5節から先を読むと、パウロのもとに、さらにシラスとテモテがやって来たとあります。この二人は、以前からパウロの働きを支えてきた心強い存在でした。でも、彼らがやって来て、パウロが満を持して福音宣教の働きに専念するようになった時、何が起こったでしょうか?

6節「しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。『あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。』」

パウロは、ユダヤ人たちからひどい反発を受けたということが分かります。その中で、パウロはこのように力強く確信に満ちた言葉を語りました。そこには、すべてを主に委ねている姿があります。この時だけでなく、パウロの人生を見てゆくと、主の導きにすべてを委ねている姿勢が貫かれています。それは、進むべき時は大胆に進み、去るべき時は、躊躇せずに去る、という信仰です。この時もパウロは、信仰によってこの場所を立ち去るという決断をしました。しかしそこで、驚くべきことが起こりました。会堂の隣に住んでいたティティオ・ユストという異邦人が、パウロを助ける者となったということです。会堂から去ると宣言をしたそのそばから、その隣に住んでいた異邦人から助けを受けることになったとは、本当に驚くべきスピードで神様がパウロに導きを与えられたということを示しています。そしてさらに続けて読んでいくと、会堂長のクリスポという人、そしてその一家の全員が、主を信じる者となったとあります。パウロは異邦人の方に行くと言った訳ですが、彼が一歩を踏み出した直後に、会堂長、つまりはこの地域のユダヤ人のリーダーとも言える存在が、主を信じる者となったということです。そしてさらに、「コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた(8節)」と続きます。神様は、このコリントの町全体に救いを与えてくださったということが分かります。

私たちも、日々の生活の中で、聖霊の導きに従って生きていく時、色々な苦しみや逆境を経験してゆくことがあると思います。しかし、使徒言行録を通して示されていることは、どんな苦しみや逆境の中においても、聖霊は私たちを導いておられ、そして必ず助け手となる存在を与えられるということです。私たちはその事実に励ましを受けながら、生きてゆくことができます。

 

3.幻を示し、力を与える聖霊

そしてもちろん、誰よりも大きな助け手とは、神様ご自身です。聖書で聖霊のことは、「助け主」とも呼ばれています。神様ご自身である聖霊は、私たちを日々助けて下さり、そのことを私たちに示して下さいます。パウロもそのことを経験しました。

9~10節「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ』」

パウロはこのコリントで、たくさんの助け手を与えられました。また、救われる人々も数多く起こされました。それでも、夜ごとに、彼の心には不安と恐れが浮かんできたかもしれません。そのような夜の暗闇の中で、主が幻を通してパウロに語られました。「幻」という言葉は、英語で「ビジョン」と訳されているように、原文では「見ること」という言葉になっています。それは、神様の示される霊的な現実を見る、という意味があります。この時パウロが主によって見せられた霊的な現実とは何でしょうか。それはまず、主なる神様ご自身が、パウロと共にいて下さるということでした。このコリントという町がどんなに罪によって堕落した場所であっても、またどんなにパウロ自身が恐れと不安の中にあっても、神様は主の御言葉を伝えるパウロと共にいて下さり、すべての危険から守って下さるということです。

そして、主がパウロに示された霊的な現実のもう一つは、「この町にはわたしの民が大勢いる」ということです。つまり、真の神を知らずに異教の神々を拝んでいるコリントの人々、また、それを罪だと知らずに姦淫の罪を犯している人々の中に、神様の救いを待ち望み、実を結ぶばかりになっている人々が大勢いるのだということです。パウロはこの幻に励まされて、コリントの地で、そして他の多くの場所で、福音を伝えてゆくことができました。その働きのすべてにおいて、聖霊の力が注がれていたということを私たちは、今日、覚えることができます。

 

聖霊という方は、パウロや、聖書に登場するすべての人々がそうであったように、私たちが願う場所ばかりでなく、自分が願わなかった場所にも連れてゆかれるお方です。ペトロは、復活されたイエス様に出会った時に、次のように語られました。

「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる(ヨハネ21:18)」

イエス様を知って、イエス様に導かれるようになると、自分の思いによってではなくて、聖霊の導きによって、あらゆる場所に連れて行かれるのだということを、主はペトロに語られました。それはペトロだけでなく、パウロも、また私たちも同じであると思います。聖霊は、私たちが自分では願わなかったところ、自分では想像もしなかったところへ、導いて下さいます。けれどもその場所において、神様は、私たちを通して、ご自身の栄光を現わして下さいます。私たちの遣わされたその場所で、その町で、聖霊の力が私たちに臨む時、私たちは次のようなメッセージを聞きます。「恐れるな。わたしがあなたと共にいる」「この町には、わたしの民が大勢いるからだ」。

私たちは今、どのような場所に、それぞれ置かれているでしょうか。その置かれた場所に、聖霊の導きを信じる時、またそれを願い求める時に、神様はご自身の力を有り余るほどに注いで下さいます。そのことを信じて日々を生きてゆきましょう。