2022年6月5日 ペンテコステ礼拝メッセージ全文
使徒言行録28章17節~31節
今日、ペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝をささげられますことを主に感謝いたします。教会は、イエス様が昇天された後50日目に集まって祈っていた弟子たちのもとに聖霊が注がれたことによって誕生しました。使徒言行録は、そのような聖霊の働きについて記している書です。聖霊とは何であるかと言えば、聖書はそれを「助け主」と呼んでいます。私たちはだれも、聖霊の助け無しには、イエス・キリストを主であると信じることはできません。同様に、聖霊は、私たちがこのイエス様を伝えることを助ける存在でもあります。初代教会の使徒たちは、そのような聖霊の助けを受けて、福音を伝えてゆきました。
1.証しをするために
今日の箇所、使徒言行録の最後の場面は、使徒パウロがローマで宣教をしていた時のことを伝えています。パウロはなぜ、ローマに来ることになったのでしょうか。これまでの箇所で見てきたように、パウロは、ローマの皇帝のもとで裁判を受けるためにローマにやって来たのでした。しかし、それはあくまで表面的な理由であり、パウロがローマに来た本当の理由は別にありました。
使徒言行録23章11節「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない』」
パウロがローマに来た本当の目的、それはイエス様についての証しをするためでした。そのことをパウロは、神様からの語りかけを受けて信じる者となりました。ところで、「証し」をする、とはどういうことでしょうか。この言葉は、使徒言行録の初めから繰り返されている言葉です。
1章8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」
これは、ペンテコステの出来事をイエス様が預言された言葉です。ペンテコステによって聖霊が注がれたのは、弟子たちが、そして私たちがイエス様のことを「証し」するためであったということです。「証し」という言葉は、現在の教会の中でもよく使われる言葉です。何か素晴らしい経験をした人のことを「素晴らしい証しだ」という風に言ったり、また逆に自分が色々な失敗等を繰り返すとき「全然証しになっていない」という風に言ったりすることがあるかもしれません。しかし、そういう風に言うとき、私たちは、「証し」というものを、「自分の立派な生き方を示すもの」という風に理解しているような気がします。それは、聖書の伝える証しとは必ずしも同じではありません。パウロや使徒たちが「証し」と言った時、それはあくまでも「イエス・キリストがわたしを救ってくださった」ということを証言することを指していました。そしてそれは、多くの場合、人々からの評価よりもむしろ、反発や迫害を生むことになりました。
28章23~24節「パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった」
このローマでもパウロはまず、ユダヤ人たちにイエス様の証しをしましたが、信じない人々が多かったことがわかります。それはこの時だけでなく、パウロが巡った町のほとんどで同じでした。このように使徒たちの証しは、多くの人々の反対に遭いました。「証し」という言葉は元々、原文のギリシャ語では「殉教」と同じ言葉です。それはつまり、証しとは「キリストに忠実に生きる」ということを表しているということです。今を生きる私たちもそれぞれ、様々な状況の中に置かれています。私たちはそのどこにあっても、家族の中であっても、職場の中であっても、その置かれた状況の中で、キリストに従って忠実に生きるということ、それこそが証しとなってゆきます。聖霊は、そのような証しをする力を私たちの一人一人に今も与えてくださいます。
2.自由な者として
しかし、パウロの証しを聞いても、人々の多くは信じることなく、意見が一致しないまま帰って行ったと今日の箇所にあります。そのような人々に対して、パウロは旧約聖書のイザヤの言葉を引用して語りました。
26~27節「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない」
これは、イザヤ書6章からの引用です。パウロは、この御言葉を通して、証しを聞いて信じないユダヤ人たちは、目が閉じられ、耳も閉じられ、心も閉じられていると言った訳です。私たちが証しをする時、それを相手が受け入れなかったとしても、このようにその相手に言うことは中々できないと思います。ではこの言葉を通して、神様は何を語っておられるのでしょうか。それは、誰であっても、その目が開かれるのも、耳が開かれるのも、心が開かれるのも、それは神様の業であるということ、すなわち聖霊の働きであるということです。今はイエス様を信じているわたしも、かつては、目が閉じられ、耳が閉じられ、心も閉じられていた、しかし、そんなわたしのもとに神様は聖霊を注いでくださり、イエス様を信じることができるようにしてくださったという恵みを伝えています。
このように言われているのは何よりも、パウロ自身が、この恵みを経験したからです。使徒言行録9章を読むと、パウロがどのようにしてイエス様を信じるようになったかが伝えられています。パウロは、クリスチャンを迫害するためにダマスコという町に向かっている時に、天から輝く神の栄光の中から、イエス様の声を聞いたのです。その声は、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」という声でした。この時パウロは、イエス様によって自分のすべてが知られているということを知りました。イエス様を信じず、クリスチャンを迫害する自分、そんな自分をイエス様は裁くことなく、受け入れ、赦してくださる方であると知りました。それだけでなく、そのような自分を、イエス様は福音のために用いてくださるということに感謝しました。この時から、パウロは全く変えられました。彼にとっては、キリストがすべてとなり、キリストを伝えることが人生の目的となりました。そして、そのような彼にとり、他の人々からどう思われるかということは、もはや大切ではなくなりました。今日の箇所でもパウロは、いわば軟禁状態に置かれ、そしてユダヤ人たちからの反対も受け続けていた訳ですが、そのような状況の中にあっても彼は、キリストにあって自由でした。
3.わたしを遣わしてください
このようなパウロの姿は、パウロが引用している預言者イザヤの姿に重なります。この引用箇所の直前には次のように書かれています。
イザヤ書6章5~8節「わたしは言った。『災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。』するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。』そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください』」
この最後の部分でイザヤは「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」という言葉をもって、神様に応答しています。しかしこれはイザヤが自分に自信があった、将来に不安がなかったということを示しているのではありません。彼は、この前の箇所が示しているように、自分は「汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」であるということを良く知っていました。自分は、到底神様の前に清い存在とは言えないということを思い、彼は主の臨在に触れたとき、「災いだ。わたしは滅ぼされる」と言いました。しかし、そのような彼のもとに「あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」という主の言葉がありました。イザヤはこのような主の贖いを信じる者となりました。これは、イザヤに聖霊を通してイエス・キリストの十字架の恵みが示されたということです。この経験を経たからこそ、イザヤは「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と宣言することができたのです。
同じようにパウロも、イエス様の贖いによる神の一方的な恵みに触れたことにより、宣教者として遣わされてゆくことになりました。パウロは続く28節でユダヤ人たちに対して次のように言いました。「だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです」。この言葉は、ユダヤ人にはもはや救いの道が残されていないということを言っているのではないと思います。実際、ローマの信徒への手紙等を読むと、パウロがいかに同胞であるユダヤ人の救いのために熱心に祈り、語り続けたかが分かります。そのようなパウロが「この神の救いは異邦人に向けられました」と言ったのは、イエス・キリストの恵みによるならば、ユダヤ人であっても、異邦人であっても、またどんな人であっても、救われることができるということを示すためでした。誰よりパウロ自身、ユダヤ人、それも厳格なファリサイ派の中にありながら、イエス様の恵みを信じ、救われる者となりました。聖霊が注がれる時、誰でも、イエス様を信じる恵みにあずかることができるのです。ですから、私たちもこの御言葉を聞く時、「この神の救いは『わたし』に向けられました」と信じ、告白することができます。わたしのために、イエス・キリストが十字架にかかり死なれ、三日目に復活してくださった、そう信じるだけで救われることができます。そしてこのように信じる時に、私たちは聖霊の助けをいただいて、神様に「遣わされる者」ともされてゆきます。わたしがどんなに無力で、どんなに罪深い者であっても、むしろそれゆえにこそ、神様はイエス様を証しするために遣わし、用いてくださいます。イザヤが神様の招きに応えて「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と言ったように、私たちもまた、聖霊の力を受けて、主に用いられる者となっています。