愛されている子ども

2022年7月31日 礼拝メッセージ全文

エフェソの信徒への手紙5章1節~20節

神様は、私たちの一人一人を愛しておられます。その中でも、イエス様が子どもたちを特別に祝福されたように、子どもたちは主の愛と祝福を特別に注がれている存在であると信じます。私たちの教会でも、既に与えられている子どもたちとご家族のために、引き続きお祈りをしてゆきたいと願います。

1節「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」。

「あなたがたは神に愛されている子供です」。すべて私たちは、神様の目に愛されている子どもなのだということです。このことは、聖書の伝える最も大切なメッセージであると私は思っています。しかし、最も大切でありながら実は、最も見落とされやすいメッセージでもあると思います。それはなぜかといえば、聖書の中に出てくる律法学者たちがそうであったように、私たちは聖書の教えを、守らなければならない義務のように考えてしまうことがあるからではないかと思います。

でも神様は、私たちが教えを守るから、愛してくださるのではありません。私たちが教えを守ることができなくても、いや、何もできなくても、神様は私たちを愛していてくださいます。それは、私たちが神の子どもであるからです。神様は私たちを愛して、御子であるイエス様を、私たちの罪を贖うためのいけにえとしてささげてくださった、そのことを通して、私たちは神に愛されている子どもであると信じることができるのです。

 

1.神に倣う者となる

では私たちは、愛されている子どもであれば、何をしてもどんな風に生きてもいいのでしょうか?もちろんそんなことはありません。神様は私たちを子どもとして愛しておられるからこそ、私たちの一人一人が神の子どもとして健全に、神の祝福を豊かに受ける人生を送って欲しいと願っておられます。

そのことをまず、今日の箇所の1節「神に倣う者となりなさい」という言葉から教えられます。「倣う者」とは、原文では「真似をする者」という意味の言葉です。父なる神様は、愛する子どもである私たちに、御自分の真似をして生きる者になることを願っておられるということです。これは、よく考えると本当にスゴイことであると思います。私たち人間に神様の真似ができるでしょうか?それは到底私たちの力ではできないことです。しかし、それでもそのような私たちに、神様はご自分の真似をして生きることを願っておられます。それは、それだけ私たちが神様に愛されているということの証拠です。小さな子どもが、親のすることを何でも真似をして成長してゆくように、神様は私たちが父なる神様の真似をして生きてゆくことで、成長してゆくことを願っておられます。それは具体的にはどのように生きてゆくことでしょうか。

2節「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」

私たち人間は基本的に自己中心的な存在です。そんな私たちのために命を捨ててくださったイエス様という方がおられます。このお方を信じる時に、私たちの人生は変えられます。もちろん、私たちはイエス様がされたことをそのままできるかと言えば、そんなことはありません。しかしイエス様は、命をかけて私たちを愛してくださったその愛によって、私たちを変え続けてくださいます。そして私たちは、様々な状況の中で、「イエス様だったらどうされるだろうか」と問いかけながら、生きてゆくことができます。そのようにして、私たちは神様に倣って生きてゆく者です。

そして、このような生き方は、逆に「イエス様ならこのようなことはなさらないだろう」ということに背を向けて生きてゆくことでもあります。3~5節を読むと、そのような生き方が具体的に書かれています。ここでは様々な悪い生き方、真似をするべきではない行いが書いてあるわけですが、しかし、これらのことはこの世の中に溢れているものです。私自身のことを振り返ってみると、特に、中学・高校の頃のことを思い出しました。私が通っていたのは男子校でした。今から20年以上前の話ですが、当時ですら、これらのものは学校の中に溢れていました。インターネットの普及した現代では、環境はさらに悪化しているのではないかと思います。私たちはスマホのボタン一つで、何でも読むことができる、何でも見ることができる、そういう時代に生きているのです。それはもちろん子どもに限ったことではありません。このような時代だからこそ、私たちが誰の真似をして生きているのかが問われていると思います。

だからこそ、今日の箇所は、私たちが本当に真似をするべき方はどなたなのか、そして、この方はどのように生きられたのかということを、もう一度思い起こすようにと私たちを招いています。この箇所には「~してはなりません」という禁止の言葉が繰り返されています。それは、私たちを縛るためではなく、私たちが本当はどのような生き方をしてゆくべきであるかを教え、それによって私たちが滅びから守られるために与えられています。神様は私たちを子どもとして愛されているがゆえに、これらの言葉を語られています。

 

2.「光の子」として歩む

しかし、神様が私たちに願っておられるのは、私たちがこの世の現実から目を背けて生きることではありません。今日の箇所を通して、神様が私たち愛する子どもたちに願っておられる二番目のことは、私たちが「光の子」として歩むということです。

8節「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」

イエス様は私たちを、この世を支配する暗闇の力、すなわちサタンの支配から救い出してくださいました。それは私たちが主に結ばれて、光の子として歩むためでありました。それはつまり、この世の暗闇の只中に、私たちがイエス様と共に、イエス様の光を輝かせてゆく存在になるということです。

神様は、私たち愛する子どもが、罪と汚れに満ちたこの世の中から離れて、何の汚れもない、無菌状態のような世界の中に生きることを願っておられる訳ではないということです。実際に私たちが生きるこの世界は、罪と汚れとに満ちています。教会は、そのような世界からの一時的な逃れ場ではありません。むしろ、主が私たちに願われるのは、救われた私たちクリスチャンが、罪と汚れに満ちたこの世の暗闇の中で、イエス様の光を放ってゆくことです。

それはイエス様ご自身が、そのように生きられたからです。イエス様は、罪の暗闇の中にいる人間を、遠くから照らすのではなく、むしろ暗闇の只中に来てくださいました。そして、人々と共に生き、共に苦しまれ、最後には十字架で死んでくださいました。だから、私たちは今どのような暗闇の中にあっても、光であるイエス様と共に、光の子として生きてゆくことができるという希望があります。それは具体的にはどのように生きてゆくことでしょうか。

10~11節「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい」

この世の暗闇の中で、私たちは様々な声を聞きます。私たちが日々出会う様々な人の声、テレビ報道の声、そして最近では、インターネット上で影響力を持つ、インフルエンサーと呼ばれる人々の声。そういった様々な声を私たちは日々聞いている訳ですが、そのような中にあって、「何が主に喜ばれるかを吟味」して生きるということ。これをこの箇所は命じています。この世に溢れる様々なむなしい言葉や人々からの誘惑を受けても、「それは本当に主に喜ばれることだろうか」と立ち止まって考え、そして神様に祈るということです。そしてその時に私たちが、「実を結ばない暗闇の業に加わらない」という決断をしてゆくということです。

暗闇の力であるサタンの特徴とは、自分だけでなく他の人を罪に巻き込もうとすることです。創世記の初めで、サタンがアダムとエバに罪を犯させ、それによって人間を滅びに陥れたように、今でもサタンは私たちを罪に巻き込もうと誘惑をしてきます。例としては、一昔前に「赤信号みんなで渡れば怖くない」という言葉が流行しました。何か悪いことをしていても、他の人と一緒だったら大丈夫という集団心理を表したものですが、サタンは同じように私たちの心に働き、罪を犯しても大丈夫という風に思わせる訳です。また、最近ではインターネット上で特定の人に対して誹謗中傷の書き込みが殺到するという、いわゆる「炎上」が起こることが多くなりました。自分一人ではできなくても、みんなが書いてるからという理由で、本当にひどい言葉を書いてしまう人が大勢います。そのように、サタンは暗闇の中で働くとき、私たちを罪に巻き込もうとしてきます。これはなぜかといえば、サタンは一人では、神様に立ち向かうことができないからです。サタンはすでにイエス様の十字架の贖いによって敗北しています。しかしサタンは、私たちを罪に巻き込むことで、完全に滅ぼされるまでの時間稼ぎのようなことをしているのです。

だからこそ、私たちは、サタンの誘惑を受けたとき、一緒に「暗闇の業に加わらない」ということを決断していくということが大切です。そして「むしろそれを明るみに出す」ということです。暗闇に働くサタンは、罪を隠そう隠そうとします。それに対してイエス様は、御自身の光によって、罪を明らかにされます。13~14節で「しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです」と言われています。私たちが光の子として、イエス様の光を輝かせて生きるなら、罪は明らかにされ、光へと変えられてゆきます。これは、私たちが、人々に対して、この世の悪事を明らかにするというようなことではありません。これは、神様に対する告白であり、自分の内に、又この世に存在する罪の問題を、神様に委ねてゆくということです。「自分の周りにはこんなにひどいことがあるのです、助けてください」と神様に祈ることです。また、「自分という人間は、こんなにひどい人間なのです、お赦しください」、そのように祈ってゆくということです。そうしてゆくときに、神様は暗闇を照らして光へと変えて下さいます。

14節の後半には「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる」とあります。神様は私たちの一人一人が、暗闇の中から立ち上がり、キリストの光によって照らされるようになるのを待っておられます。私たちが神様の光によって照らされる時、自分自身も照らされますが、私たちの身の周りも照らされてゆきます。そのように、神様は、私たちを子として愛しておられるがゆえに、私たちが光の子として、自分自身の暗闇を、そしてこの世の暗闇を照らして生きてゆくようになることを願っておられます。

 

3.父の御心を悟る

そして、今日の箇所を通して最後に教えられるのは、父なる神様は、私たち一人一人が、神の子どもとして、父の御心を自分で判断し、生きるようになることを願っておられるということです。

17節「だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」

人は、赤ちゃんのうちは、なんでも親の真似をすることしかできないものです。しかし成長してゆくにつれ、自分で考えて行動することが少しずつできるようになってゆきます。その中で、親の大切な務めと言われているのは、何でも「あれは良い」「これはダメ」と教えることではなく、自分で何が善いことで何が悪いことか判断できるように促してゆくことです。しかし、自分が親になって感じることは、これが非常に難しいということです!どうしても、子どもが自分で考えるより先に、私の方で何かを押し付けたり、やめさせたりしてしまいがちです。それはやはり、私たち人間の愛というものは完全なものでないからであると思います。しかし、神様の愛は完全な愛です。その愛は、愛する子どもである私たちを縛るのではなく、私たちに本当に必要な知恵を与え、その知恵によって私たちが生きるように導いてくださるものです。

私たちは、何が主の御心であるのか、悩むことがあると思います。例えば、何かをするべきか、しないべきか、するとしたら、いつか、どうやってか、ということです。

特に、現在のコロナ禍の中で、神様は私たち一人一人がそのように祈ることを求められているように感じています。神様は、すべてのことを、具体的に細かく示される訳ではありません。聖書は、いわゆる人生のハウツー本のようなものではありません。だからこそ私たちは、祈りつつ、聖書を読みつつも、答えが分からずに悩むという時があります。しかし神様は、無意味に沈黙されているのではありません。私たちのそれぞれが、自分で神の御心を悟るようになるのを、待っておられるのです。それはやはり、神様が私たちを子どもとして愛しておられるからです。

では私たちは、どのようにして神様の御心を悟ってゆくのでしょうか。それは、イエス様を信じる私たちの心に住んでおられる聖霊というお方によってです。私たちは主を礼拝することを通して、この聖霊の導きをいただくことができます。

18~19節「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」

初代教会の礼拝では、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、賛美をしてゆく中で、皆が聖霊に満たしを経験しました。そして、ある者は預言によって神の啓示を語り、ある者は異言によって神の神秘を語りました。当時は、現在のような礼拝プログラムもなければ、新約聖書もまだ編集されていませんでした。神の臨在の中で、語るべきこと、教えるべきことが与えられ、皆がそれによって、主の御心を知ることができたのです。私たちには今、このように秩序立てられた礼拝があり、なにより聖書が一人一人の手に与えられています。しかしそれは、神の霊の働きがなくなったということを意味しません。私たちが今、主を賛美し礼拝するとき、生ける神の霊が働かれています。そして、私たちが聖書を読むとき、今も生きて働かれている主が語っておられます。私たちは、神に愛された子どもとして、主を礼拝するとき、聖霊によって、父なる神様の御心を知る者となるのです。

それはもちろん、この日曜日の礼拝のときだけではありません。

20節「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」

いつも、あらゆることについて、イエス様の御名によって、父なる神様に感謝する。それは、私たちの毎日の生活です。そのようにして、父なる神様との交わりを深めてゆくとき、神様は私たちにますます愛を注いでくださり、聖霊の導きにより、主の御心が何であるかを日々、教えてくださいます。今日の聖書箇所は、私たちの一人一人が、神様に愛されている子どもであると伝えています。私たちはまずこのことを感謝して、祈るものでありたいと思います。そのような私たちを、神様は、この世の暗闇の只中にあって、神に倣う者、光の子、さらには主の御心を悟り行う者へと日々造りかえていってくださいます。