福音のために生きる

2022年2月13日 礼拝メッセージ全文

マルコによる福音書8章27節~38節

35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」

イエス様は、この箇所とほぼ同じ言葉を、新約聖書の四つの福音書のすべてに残しておられます。それは、これが、イエス様の福音とは何か、という核心部分を示しているからであると思います。特にマルコによる福音書この箇所では、「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」とイエス様は言われました。

これは、どういうことを伝えているのでしょうか。イエス様が福音を語られた当時、特に使徒たちを初めとする初代教会の時代には、たくさんの人々が実際に福音を信じることによって命を失っていきました。このような信仰者の殉教は、教会の歴史の中で繰り返し起こったことであり、この日本においても、戦時中には信仰のために迫害を受け、命を落としていったクリスチャンがいました。私たちは、そのような多くの殉教の証を聞くことができますが、現在の日本では、信仰のために実際に命を失うということはあまりないかもしれません。しかし、今日の箇所を通して、イエス様を信じるということは、やはり「命を失う」ことなのだと、私たちは教えられます。特にそのことは、34節で具体的に書かれています。

34節「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」

この箇所も、先の箇所と同じく、良く知られた聖書の箇所です。しかし同時に、これは難しく、自分には到底できない、と正直に感じられるところでもないでしょうか。私たちは、このイエス様の言葉に応えて、実際の生活の中で、どのように生きてゆけばよいのでしょうか。

 

1.自分を捨てること

まずイエス様は、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨てなさい」と言われました。「自分を捨てる」とはどういう意味でしょうか?私たちはそれぞれ、「こうありたい、こうなりたい」という自分の姿を持って生きていると思います。イエス様が「自分を捨てなさい」と言われたのは、そのような「こうありたい、こうなりたい」という自分を捨てなさいということです。「捨てる」という言葉は、原文では「否定する」という意味の言葉です。つまり、自分が「こうありたい、こうなりたい」と願う時、それを自分で成し遂げようとするのではなく、神様の御手にすべてゆだねるということ、それが、自分を捨てるということであり、自分を否定するということです。イエス様は、私たちが人生に願いや夢を持つこと自体を否定されたのではないと思います。むしろ、それらを主の御手にゆだねることを教えておられます。

このことについては、一つの体験があります。私が結婚式を迎えた時のことですが、その時、出席して下さったある牧師先生が、式の後で私たちのために祈って下さいました。その祈りの中で先生は、「この二人が『何かになろうとする』ことから守られますように」と祈られました。結婚式は、夫婦としての新しい出発の時であり、そこには「こんな家族を築きたい」「こんな夫(妻)になりたい」というような、たくさんの夢があります。そのような時に、「何かになろうとしてはいけない」ということは、正直あまりピンとこなかったように思います。しかしその先生は、私の中に「何かになろうとする」姿があることを見抜かれていたのだと思います。実際、それからの結婚生活や教会生活の中で、私は何度も「何かになろうとしている」自分の姿に気付かされました。自分の力で「良い夫」「良い父」「良い牧師」になろうとする誘惑はとても強く、今なおその戦いの中を私は生きています。そのような私たちにイエス様は、「自分を捨てなさい」、あなたが「こうありたい、こうなりたい」と願う自分を、一旦わたしに委ね、ありのままの自分を受け入れなさいと言われています。

それは、何より私たちがイエス様自身の生涯から学び続けるということです。31節で具体的に書かれているように、イエス様は、神の御子であるのに、多くの苦しみを受け、人々から排斥され、最後には十字架で死なれました。それは、イエス様が、私たちのために、本当の意味で自分を捨て、へりくだってくださったということを表しています。「自分を捨てる」という言葉と同じく、この「へりくだる」という言葉も、間違って捉えられていることがあるように思います。へりくだるとは、「自分には到底できません」「とんでもないです」というように、自分を卑下することのように言われることがあります。しかし、これは、自分を基準にした見方です。本当の意味でへりくだるということは、自分を、自らの基準ではなく神様の御心に従わせるということです。「到底できない」自分、「とんでもない」自分であっても、神様が望まれるなら、その道に従います、ということです。そして、この「へりくだる」ということ自体、私たちが自分の力でできることではありません。自分にはできませんということを認めて、ただ神様の御言葉に従っていくということ、それが、父なる神様の御心に従って十字架にかかられたイエス様のへりくだりに倣った生き方です。

 

2.自分の十字架を背負うこと

従って、「自分を捨てる」ということは、34節の次に書かれた「自分の十字架を背負う」ということと深く関連しています。「自分の十字架」という言葉は、聖書以外でも良く耳にする表現であると思います。自分の過去の失敗や償うべき過ちを指して、「これは自分の十字架です」というような表現を、テレビや小説などで聞くことがあります。しかしイエス様は、そのような意味で「自分の十字架を背負いなさい」と言われたのではありません。十字架は、私たちを過去の罪に縛り付けるためのものではなく、私たちを罪から解放するためのものであるからです。教会に飾ってある十字架には、通常、イエス様の体はついていません。それは、私たちが、イエス・キリストが十字架にかかられて、復活されたということを信じているからです。十字架はイエス様が私たちのために罪の贖いを成し遂げられ、復活されたということの証です。だから、私たちが「自分の十字架を背負う」とは、自分の罪を認めるということであると同時に、その罪がイエス様の十字架によって完全に贖われたということを信じ、告白するということです。

従って、「自分の十字架を背負う」とは、極めて能動的な行いです。人が過去の罪や過ちを「自分の十字架です」と言うとき、それは誰かに「背負わされたもの」という感覚があります。しかし私たちは、この十字架を背負わされるのではなく、自ら背負うことのできるものです。なぜなら、私たちは十字架を背負うことを通して、「私は罪人です」と告白すると同時に、「私の罪は、イエス様の十字架によって贖われた」ということを告白しているからです。

それは私たちが、罪との戦いの中を生きてゆくということです。ルカによる福音書の同じ場面では、「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と語られています。イエス様が十字架にかかり死なれ、全ての人のための贖いとなられたのは、一度限りの出来事です。しかし、私たちは「日々」、イエス様と共に自分の十字架を背負い、罪に対して死んでいます。だからこそ、新しい命に生かされてゆくことができるのです。

3.イエス様に従うこと

つまり、私たちは、自分を捨て、自分の十字架を背負うということ、このように「命を失う」ことを通して初めて、本当の意味で「生きる」ことができるようになるのです。そのことをイエス様は、34節の最後の部分でこう言われています。「わたしに従いなさい」。イエス様が、弟子たちに、そして私たちに対して願っておられることは、私たちがイエス様に従うことを通して、「生きる」ようになることです。

私たちは、イエス様を自分のための救い主であると信じます、という信仰告白をもって、イエス様に従う人生をスタートします。今日の箇所のペトロも同じです。29節でペトロは「あなたは、メシアです」と告白しています。あなたは、メシア、すなわちキリスト、救い主ですと私たちも告白します。しかし、この告白の直後に、ペトロは、イエス様に従うよりも、自分の思いに従いたいと願っているということが明らかになりました。私たちの人生の中でも、イエス様を救い主であると告白した後にも、様々な戦いがあります。イエス様を信じつつも、主のもとから離れ、自分の思いに従ってしまう、それが私たち人間の罪の性質です。そのようなペトロのことを、イエス様はあきらめずに導きつづけてくださいました。それは、どんなに罪を犯しても、主は、私たちが立ち帰り、生きるようになることを願っておられるからです。イエス様は、私たちが、ペトロのように「神のことを思わず、人間のことを思っている」者であることを知っておられます。それにも関わらず、そのような私たちに対して、ペトロに対して言われたようにこう問いかけ続けてくださいます。「あなたは、わたしのことを何者だと言うのか」。それに対して、私たちが「あなたはメシアです」と応え続けてゆくなら、そのような私たちの罪を赦し、助け導いて下さいます。生きるとは、つまずきと失敗を繰り返すということでもあります。その度ごとに、私たちは、イエス様の恵みによって、死から命へと救い出されています。

このような私たち信仰者の歩みを、パウロは次のように証しました。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです(フィリピ1:21)」。この手紙を書いた時パウロは獄中にあり、死を身近なものとして感じていたことでしょう。この言葉は、今獄中にはいない私たちにとっても同じ真理を伝えています。私たちも、日々の人生の中で、罪によって、死んでいます。しかしそれは、私たちにとって損失ではなく、私たちがイエス様の十字架によって再び生きるようになるため、すなわち、利益であると信じることができます。

35節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」

今日、私たちは、このイエス様の福音を聞いて、信じて、生かされています。主は私たちがこの福音に自らの人生の日々のすべてを委ね、この福音のために生きるようになることを、願っておられます。