すべての人を照らすいのちの光

2021年12月19日 クリスマス礼拝メッセージ全文

ヨハネによる福音書1章1~18節

クリスマスおめでとうございます。

私たちは、救い主であるイエス・キリストというお方が生まれたという歴史的事実を、毎年、喜び祝います。しかし、特にこの時、私たちはイエス様の誕生という出来事を通して、どのようなメッセージを受け取っているでしょうか。

私たちに今日与えられました、ヨハネによる福音書の1章を通して神様が伝えておられることは、イエス・キリストというお方は、私たちに命を与えて下さる方であるということです。イエス・キリストこそが命であり、私たちはこの方を通して、本当の命をいただいて、生きることができる。クリスマスは、イエス様が幼子として生まれたという出来事を伝えますが、その生まれた新しい命とは、私たちに本当の命を与える神の命です。私たちは今日、このことに目を向けていきたいと思います。

 

1.イエス・キリストは、万物に命を与えられた

まず、今日の箇所の1~4節が伝えていること、それは、イエス・キリストというお方は、この全世界、全宇宙を造られた創造主であり、そこに住むすべての生き物に、命を与えられた方であるということです。

1~2節「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」

この箇所を、私たちは頭で理解しようとしても中々分からない。言とは、具体的にはどのような存在なのか。考えれば考えるほど分からなくなる。しかし、確かなことは、「言」という存在が、天地の造られる前から神と共にあった、ということです。そして、この箇所によるなら、その「言」という存在は、神ご自身でもあったということです。

つまり、神様は、この「言」という存在を通して、初めから、ご自分のことを私たち人間に伝えようとされていた、ということです。そして、その「言」こそが、私たちがクリスマスに誕生を祝っているイエス・キリストというお方です。イエス様は、今から約2000年前に、ユダのベツレヘムという場所で、実際にこの地上に生きる人間として生まれました。しかしそのイエス様の存在自体は、世界が造られるよりも前から、神と共にあったということです。なぜならイエス様は、神の御子であると同時に、神ご自身でもあるからです。

3節「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」

神の言、すなわちイエス・キリストの中心には、命があります。それは、造られたものとしての命ではなく、創り出すものとしての命です。この命によって、イエス様は、万物を創造されました。私たちの一人一人も、私たちの住むこの世界も、自然に発生したのではなく、神によって、イエス様によって造られたものであるということです。イエス様は、このような神の命を私たちに示すために、肉となって来てくださいました。これこそが、イエス様の降誕、クリスマスの出来事です。私たちは、このクリスマスの時、私という存在に、そしてこの世界のすべてのものに、命を与えて下さったイエス・キリストを喜ぶことができます。

 

2.イエス・キリストは、信じる者に神の子としての新しい命を与えられた

このように、イエス様は、神の言、神の命を与える方として、私たちのところに来てくださいました。その命とは、ただ肉体的な寿命のことではなく、神の子どもとしての新しい命を与える命です。

12~13節「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」

1~4節で見たように、この世にあるものはすべて、神によって命が与えられ、生きるものとなりました。しかし人間はそのことを知らず、自分中心に生きる者となってしまいました。10節に「世は言を認めなかった」、11節には「民は受け入れなかった」とあるように、アダムが罪を犯して以来、人間は神を認めない者となり、自分の力で生きているかのように考える者となってしまいました。このことは現在も変わっていません。聖書は、このように神から離れた状態のことを指して、罪と呼びます。

すべての人が、この罪の中を生きています。そして私たちは、その罪の中にある限り、肉体的には生きていても、死に向かっています。天地創造の時、神のもとで輝いていた命の光というものは、私たち人間から失われてしまった状態にあります。

しかし、そのような私たちに命を与えるために、イエス様が来られました。イエス様は、罪を犯す私たちを滅ぼすためではなく、その罪を赦し、救いに至らせるために来られました。神ご自身である方が、一人の人間として、それも最も貧しい身分として生まれて下さいました。そして、全く罪のない方であるのに、十字架にかかり、死んで下さいました。それは私たちの罪をあがなうためでした。私たちはだれでもこのことを信じるなら救われ、神の子どもとされることができます。

神様を知らず、神様から遠く離れて歩んでいた、そんな私たちであっても、イエス様を受け入れ、その名を信じるならば、「神の子」とされる資格を得ている、とこの箇所は伝えています。私たちはそのように、イエス様を通して、神の子としての新しい命をいただいています。もちろん、イエス様を信じても、私たちの見た目は変わらないかもしれません。また、実の父母の子どもであることは変わりません。しかしそうであっても、イエス様にあって新しい命を得た人は、もはや血や肉によって生まれた者ではなく、神によって生まれた者であると言われています。

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた(Ⅱコリント5:17)」

イエス様を信じて、イエス様につながる時、私たちは自分が新しく創造された者であるということを信じることができます。

 

3.イエス・キリストは、救われた者に日々新しい命を与えて下さる

最後に、今日の箇所が伝えている命とは、イエス様を信じて神の子どもとして生きるとき、私たちに日々注がれてゆく命の恵みのことを指しています。

16~17節「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」

私たちはこのクリスマスの時、イエス様によって罪赦され、神の子としての新しい命を与えられたということを喜ぶことができます。しかし、命を与えられるという経験は、一度きりのことでしょうか?そんなことはありません。私たちは、イエス様を信じたその日から、日々、新しい命を与えられて生きてゆく者です。

この箇所で、私たちは皆、「恵みの上に、更に恵みを受けた」と言われています。これは、イエス様によって与えられる救いの恵みは、日々増し加わっていくということです。それは、イエス様を信じる私たちの信仰人生が、順風満帆でなにも苦しみがないということではありません。むしろその逆です。私たちがイエス様を信じ、神の子どもとして生きてゆこうとすればするほど、様々な苦しみを経験します。なぜなら、イエス様が示されるのは恵みだけではなく、真理でもあるからです。

真理とは、すべてを明らかにする神の真理です。その真理は、私たちの罪をも明らかにします。私たちは神様の恵みに満たされれば満たされるほど、自分自身の内にある罪や汚れ、醜さを見ていく事になります。これはとても苦しい経験です。しかし、神の真理にはもう一つの側面があります。それは、そのように罪深く汚れた者である私たちの一人一人を赦すために、イエス様が十字架にかかられたということです。私たちはこの十字架を通って、いつも新しい命をいただくことができます。日々、罪赦され、清められて、新しい命を生きてゆく者とされてゆきます。

今日の箇所は、イエス・キリストというお方は、私たちの一人一人に命を与えて下さる方であるということを伝えています。

4節「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった」

私たちは、この世の暗闇の中に、イエス・キリストという方が、私自身に、そしてこの世のすべてのものに命を与える光として来て下さったということを信じることができます。

この命の光を信じ、喜んで、このクリスマスの時を過ごしてゆきましょう。