ハレルヤ 主をほめ歌おう

2021年11月21日 礼拝メッセージ全文

詩編147編1~20節

詩編からのメッセージは今回で最後となりました。詩編の後半、特に146編から最後の150編までは、「ハレルヤ」で始まり「ハレルヤ」で終わる、神様への賛美の歌です。これは、詩編の全体、そして聖書の全体について同じことではありますが、私たちはこれらの御言葉を通して、主である神様を賛美するように招かれています。

1.主を賛美せよ

1節「ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく、神への賛美はいかに美しく快いことか」

「ハレルヤ」は、良く知られている言葉です。聖書を知らない人でも、色々な歌の中で、この言葉を聞いたことのある人は多いと思います。これは聖書原文のヘブライ語の言葉で、「ハレル」と「ヤ」からなっています。「ハレル」は、「賛美する」という動詞の命令形、「ヤ」は、イスラエルの神である主の御名を表す言葉です。従って、「主を賛美せよ」という意味になります。

つまり、御言葉は私たちに、主を賛美するように命じている、呼びかけている、ということです。

1節には、この賛美というものが、「いかに喜ばしく」「いかに美しく快いことか」書かれています。私たちは、教会で賛美をする時や、また、一人で賛美をする時にも、その素晴らしさを実感することができます。本当にこれは神様の恵みであると思います。神様が人間に声というものを与えてくださり、また、楽器というものを与えてくださり、神様のことを美しく賛美することができるようにしてくださった、その恵みを覚えます。

しかし私たちが賛美をするのは、決して喜ばしい時だけではありません。むしろ、賛美が本当に大切なのは、喜ぶのが難しい時の方です。

2~3節「主はエルサレムを再建し、イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。打ち砕かれた心の人々を癒し、その傷を包んでくださる」

イスラエルの歴史を見ると、都であり、神殿の置かれたエルサレムが、敵によって打ち滅ぼされるということが繰り返し起こったのが分かります。今日の詩編が歌われたのはまさにそのような時でした。都は破壊され、人々は各地に追いやられ、そしてその人々の心が打ち砕かれ、傷を負っていた時、彼らはこの歌を賛美しました。主が、都を建て直して下さり、そして、人々を癒し、傷を包んで下さると信じていたからです。そのように、私たちもまた、目に見える状況はとても厳しく、到底喜べない時こそ、主を見上げて賛美をすることが大切であるということです。

たとえ私たちが人の目からは軽んじられ、虐げられ、また、忘れられたような状況にあっても、主は私たちのことを決して忘れず、共にいて下さいます。4節には、「主は星に数を定め、それぞれに呼び名をお与えになる」とあります。夜空には、数え切れないほどの星が浮かんでいます。そしてその彼方には、私たちの目には見えないおびただしい数の銀河があり、その中にも無数の星が存在しています。神様は、そのようなすべての星の数さえも数えておられます。そして、私たちの見たことも聞いたこともない、彼方の星々の一つ一つを、名前で呼んでおられます。それはつまり、神様がそれらの星々に対するように、私たち一人一人の存在を見ておられるということです。全宇宙を造られた、偉大な造り主である神様は、私たちの一人一人を、大切な存在として見ておられ、共にいて下さいます。

そして6節でこう言われています。「主は貧しい人々を励まし、逆らう者を地に倒される」。「貧しい」とは、経済的な貧しさだけを指しているのではなく、「低められた者」という意味の言葉です。神様の前に、自分自身がいかに小さな存在か、貧しい存在かを悟った人であると言えます。そのような人は、目に見える状況がどのようであっても、主を賛美し、そのことを通して、主からの励ましを受け、高められることができるということです。それに対して、「逆らう者」は地に倒される、とあります。この「逆らう者」とは、あからさまに神の名を冒涜する人、目に見える罪を犯した人、だけのことを指しているのではありません。「貧しい人」とは逆に、自分の力に頼り、自分のことを誇る人のことを指しています。そのような人は、地に倒される、つまり、神様からの助けを受け取れず、栄えることができないということです。

だからこそ、御言葉は7節で改めて私たちにこう呼びかけています。「感謝の献げ物をささげて主に歌え。竪琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をうたえ」。

賛美とは、神様からの恵みに対する私たちの応答であると共に、私たちのささげ物であります。たとえ今、苦しみや貧しさの中にあったとしても、主が自分と共にいて下さることのゆえに、心を主にささげ、感謝をもって賛美をするということ、そこに神様からの豊かな祝福が注がれてゆきます。

 

2.賛美は戦い

そのように主に賛美をささげ続ける信仰生活は、戦いです。

10~11節「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人」

イスラエルの歴史は戦いの歴史でした。イスラエルの民は、数多くの敵と戦い、ある時は勝利し、ある時は敗北しました。そして、敗北の時には必ず、主に頼らず、人の力に頼ったという人々の姿勢がありました。この箇所でも改めて、勝利のために必要なのは「馬の勇ましさ」「人の足の速さ」、すなわち人間の力ではない、ということが言われています。勝利のために必要なことはただ一つ、主の力に頼るということです。そして賛美をするということはまさに主の力に頼るということです。

イスラエルの歴史の中で、主に頼り、賛美をすることを通して、勝利が与えられたという実例を見ることができます。その中で今日は特に、歴代誌下20章20~27節を読みたいと思います。この箇所で、ユダの王であったヨシャファトが、賛美を通して敵に対する勝利を経験しました。

歴代誌下20章20節「翌朝早く、彼らはテコアの荒れ野に向かって出て行った。出て行くとき、ヨシャファトは立って言った。『ユダとエルサレムの住民よ、聞け。あなたたちの神、主に信頼せよ。そうすればあなたたちは確かに生かされる。またその預言者に信頼せよ。そうすれば勝利を得ることができる。』」

ヨシャファトは、「主に信頼せよ。そうすればあなたたちは確かに生かされる」と言いました。この時、敵の勢力が目前に迫っていましたが、王はあくまで主に信頼するように民に呼びかけました。そしてその信仰を行動に写し、王は主を賛美する者たちを任命し、軍隊の先頭を進ませました。軍隊の最前線は最も危険な場所ですから、武装した軍勢を置くのが自然であると思いますが、彼らは主を賛美する者たちを最前線に配置しました。そうすると、何と、敵の中で同士討ちが起こり、ユダの人々は確かに生かされ、勝利を得ることができたのです。

このように、私たちは主の力を信頼し、賛美をすることで、敵に対する勝利を得ることができます。私たちも、日々、様々な問題や課題に直面する中で、霊的な戦いを経験しています。そこで私たちが、自分の力に頼るのではなく、主を信頼し、主を賛美するなら、主は勝利を与えて下さいます。賛美をするとは、いつも声高らかに、音色豊かな伴奏と共に歌うということではありません。時には、苦しみや悲しみに打ちひしがれ、たった一人で声にならない賛美をささげることもあるでしょう。しかし今日の御言葉は、「主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人」と宣言しています。主は、私たちの力や勇ましさではなく、打ち砕かれた私たちの心からの賛美を何よりも喜んで下さいます。そして、勝利をもって報いて下さいます。

 

3.主の裁きを喜び、賛美する

私たちがこのように神様を賛美することができるのは、イエス様を知り、イエス様を信じる信仰によって、神の子どもとされているからです。

19~20節「主はヤコブに御言葉を、イスラエルに掟と裁きを告げられる。どの国に対してもこのように計らわれたことはない。彼らは主の裁きを知りえない。ハレルヤ」

主なる神様は、イスラエルをご自分の民として選ばれ、祝福し、そしてモーセを通して律法を与えられました。それは、イスラエルの民が、神の掟に従い、神の祝福の中を歩むようになるためでした。

この箇所にある「裁き」とは、御心に従って歩んでいるか、判断されるということです。神の掟を与えられたイスラエルの民は、人間の基準に従ってではなく、神の基準によって裁かれる者となった、判断される者となった、ということです。これは、神の愛によることでした。20節には「どの国に対しても、このように計らわれたことはない」とあります。神の裁きを知ることができるようになる、ということは、神の民に与えられた特権であるということです。

このことは、イスラエルの民に対してだけではなく、今イエス様を信じている私たちに対して言われていることでもあります。イエス様を通して私たちに与えられている恵み、それは、私たちの罪がすべて赦されているということです。しかしそれだけではなく、私たちが神の裁きを知ることができるような者となったということ、このことも神から与えられる恵みです。それは、何が神様の御心であるのか、何が神様に喜ばれることであるのかについて、知ることができるようになったということです。イエス様を信じる私たちは、神様の子どもとされて、もはや人間の基準によって裁かれることはなくなりました。そして、神様の基準によって、裁かれ、導かれる者となりました。このことは、私たちが神の子どもとされていることを表している大きな祝福であると言えます。

世の人々は、人の評価や、自分の満足度によって、自らの幸福を測っていると思います。けれども私たちがイエス・キリストを信じているならば、もはや誰も私たちを人の基準によって裁くことはできなくなります。そして、ただ神によってのみ自分は裁かれ、また受け入れられる者であるということを知ることができます。これこそがイエス様を信じる者の幸いです。たとえ目に見える状況がどんなに悪く、希望が失われたような状態であったとしても、神様によって自分は選ばれた者であり、そして主に立ち返るならば、いつでも主イエス様の恵みによって赦され、そして主の祝福を待ち望むことができる、これは本当に幸いなことです。今日の箇所は、この幸いを賛美して、最後にもう一度、ハレルヤ、と私たちに神への賛美を呼びかけています。

私たちの日常生活はどうでしょうか?様々な出来事が起こる中で、私たちは賛美よりも不平や不満を口にしてしまう者であるかもしれません。しかし、今日の箇所を通して、私たちの一人一人は神様によって選ばれた者であり、主にあって尊く守られている者であるということを、改めて知ることができます。このような恵みを与えられる神様は、イエス・キリストの御名の外にはありません。そのことを知っているという恵みに感謝して、私たちは改めて主なる神様をほめ歌いたいと思います。

ハレルヤ!