2020年9月13日 礼拝メッセージ全文
出エジプト記 18章13~26節
エジプトを脱出したイスラエルの民は、イスラエルに向かう道の途中で様々なことを経験しました。先週は、その道が荒れ野の道であったことを見ることができました。そして先週の箇所と今日の箇所までの間には、まず、海の底の道を渡る「葦の海の奇跡」の出来事があります。そして、天からマナが降ったという出来事についても記されています。そして、来週の箇所ではいよいよ、十戒を受けるという場面が出てきます。そのような壮大なスケールの出来事が続く出エジプト記にあって、今日の箇所の18章は、読む私たちに少し立ち止まって考える機会を与えているように思います。
私たちは、あれもしなければ、これもしなければ、という世の中に生きています。自分を含めて、教会の中でも、そのように考えたり行動したりしてしまうことがあるように思います。しかし聖書は、むしろ私たち人間の弱さや限界を明らかにしています。そして、それぞれが弱さや限界を持った存在であるからこそ、互いに助け合い、補い合う者となっているということを示しています。
1.主は助言者、助け手を与えて下さる
今日の箇所がまず示しているのは、神様は、私たちに必要な助言者や助け手を与えて下さるということです。
主はモーセに、エトロという助言者を与えられました。エトロはモーセのしゅうとであって、ミディアンで結婚した妻ツィポラの父です。エトロについては、先月、出エジプト記3章のモーセの召命の場面を取り上げた時にも触れました。エトロは、外国人でありながら、エジプトから逃れてきたモーセを受け入れ、実の子であるかのように、モーセと接したのでした。幼くして両親と離されたモーセにとって、エトロは自分の存在を受け入れてくれる父親のような存在でした。
そのエトロが、荒れ野で旅をしていたモーセのところにはるばるやって来ました。しかもエトロは、モーセの妻ツィポラと、息子二人も一緒に連れて来ました。モーセはどんなに喜んだことでしょうか。今なら、家族が離れ離れになっても、電話やインターネットで連絡を取り続けることができます。しかし当時はそのようなものはなく、お互いに無事かどうかすら、知ることは難しかったでしょう。そのような中で彼らは再会し、久しぶりの家族の時間を過ごすことができました。
しかしエトロがやって来たのは、モーセの家族を連れてくるためだけではなく、モーセに必要な助言を与えるためでもありました。モーセは、エジプトからイスラエルの民を導き出して以降、民のために神の御心を問うことを行っていました。何か事件が起こるたびに、人々は神の御心を問うためにモーセのもとに来て、神の裁きを求めました。そのため、モーセは朝から晩まで、それらの人々の対応をしなければなりませんでした。そのような状況を見たエトロはモーセに、次のように伝えました。
17~18節「あなたのやり方は良くない。あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。」
エトロはモーセに対して、「あなたのやり方は良くない」と、はっきりと間違いを指摘しています。モーセは、イスラエルの民の指導者として、人々を導いていた存在です。そのようなモーセに、このようにはっきりと間違いを指摘できる人物は、他にはいなかったのではないでしょうか。特に、幼い頃に肉親から離されたモーセには、時に厳しく間違いを指摘する父親の存在感が希薄でした。エトロは、そのようなモーセとミディアンで40年の間共に暮らす中で、はっきりと物を言える関係になっていました。
助言とは、このように、間違いがある時ははっきりとそれを指摘することです。しかしそれを実際にしようとすると簡単ではありません。私たちは相手のことを思って遠慮してしまったり、後々の関係のことを心配してしまったりして、中々はっきりと間違いを指摘できないことがあります。そのようなリスクを冒してまで助言をしてくれる人は、とても貴重な存在です。それは神様からの恵みであると言えます。
そしてエトロの助言の内容ですが、エトロは、モーセが一人で自分のもとに来るすべての人々の対応をしていることは、良くないことだと言いました。それは、一人では負うことのできない重荷であり、そんなことをしていたら、モーセは疲れ果て、モーセのもとに来る人々も待ちくたびれてしまうだろうと考えたからです。
私たちは、自分の能力を過信して、一人でできる、と思ってしまうことがありますが、しかし実際には、私たちは自分一人では何もできないものです。すべてのことにおいて、助けを必要としている者です。そのような私たちに、神様は時に適った助け手を遣わして下さいます。エトロは、そのような助け手の必要性を語り、また自身も助言をすることを通して、モーセの助けとなりました。
2.主はそれぞれに異なる役割を与えられる
次に、今日の箇所が示しているのは、主が私たちのそれぞれに、異なる役割を与えられるということです。「一人では負いきれない」とは、私たちが助けを必要としている、ということでもありますが、そもそも、一人で負う必要はないということでもあります。
エトロは、次のように助言をしています。
21~22節「あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があったときだけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい。」
ここで、事件には、大きな事件と小さな事件があると言われています。これは、現在でも変わらないことだと思います。裁判で言えば、地方裁判所で決着がつく事件もあれば、最高裁判所まで持ち込まれる事件もあります。その一つ一つは、事件の大小にかかわらず、担当する裁判官がいます。そのように、モーセがすべての事件を裁くのではなくて、小さな事件は別のリーダーに任せてはどうか、というのがエトロの提案でした。
それは、モーセにその能力がないからではなく、そもそもそれがモーセの負うべき重荷ではなかったからです。モーセに与えられた役割とは、民に代わって主の前に立ち、主の語られた言葉を取り次ぐことでした。しかし、大勢の人々の対応に追われている間に、いつしかそのことが見失われていました。そこでエトロは、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長を立て、彼らに小さな事件を裁かせ、モーセが本来の役割に集中できるようにすることを勧めました。
モーセにはモーセの、千人隊長には千人隊長の、十人隊長には十人隊長の、それぞれ与えられた役割がありました。それらは、神様から与えられた役割であって、こちらはあちらより優れているというようなものではありません。その役割はどのように与えられたかというと、21節を見ると、「神を畏れる有能な人」に与えられたと書いてあります。この「有能な人」というのは、この世的に見て能力がある人、体力や気力、知力があるというようなこととは異なります。神様を畏れるということが、第一の有能さです。自分の能力など、神の前ではなにものでもないということを知っている人が、本当の意味で有能な人であるということです。主が、自分は何者でもないということを思い知ったモーセに、イスラエルの人々をエジプトから導き出すという大きな使命をお与えになりました。そのように、私たちも神様を畏れ、神様の栄光を求めてゆくときに、自分に定められた役割を受けることになります。それは一人一人異なるものです。だから、私たちは他人に与えられた役割を見て、羨んだり、自分を卑下したりする必要はありません。私たちが疲れ果てるとき、多くの場合、私たちは本来自分が負わなくてもよい荷を背負おうとしています。そのようなとき、私たちは、主が本来自分に定めておられる役割の原点に立ち帰ることが大切であるということを、エトロの助言は示しています。
3.主は一人で負ってくださった
モーセに対するエトロの言葉が示すように、私たち人間は弱く、自分一人では何もできないものです。また神様は、私たち一人一人がそれぞれに与えられた役割を分担するようにして下さいました。「一人では負いきれない」という言葉は、そのような人間に定められた限界を示しています。しかし、だからこそ、私たちが覚えることができるのは、主であるイエス様は、一人で、すべてのことを負ってくださったということです。ただイエス様だけが、私たちの負うべきすべての重荷を、たった一人で負って下さいました。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである(マタイによる福音書11章28~30節)。」
私たちが疲れ果てる時、イエス様は、私たちが自分で背負おうとしたその重荷を、わたしのもとにゆだねなさい、と言われます。それはイエス様が、十字架の上で、すべての人間の罪、苦しみ、嘆き、怒り、恥、そして死を背負って下さったからです。そしてイエス様のもとに重荷をゆだねる時、主は私たちに新しい使命を与えて下さいます。それは、自分の力で背負う重荷ではなく、イエス様が共に背負ってくださる、負いやすく、軽い荷です。自分に定められた、神様からの賜物としての役割です。その役割を果たしてゆくとき、私たちはあらゆることを通して、神様からの助けをいただきます。助言者や助け手も与えられますし、私たち自身も、誰かの助けとなってゆきます。私たちは、疲れ果てるよりもむしろ、進んで神様の恵みを分かち合ってゆく者とされてゆきます。「一人では負いきれない」からこそ、私たちはすべての重荷を主にゆだねることができ、その安らぎをもって、お互いの重荷を担い合う者とされています。