神は必ずあなたを顧みられる

2020年9月6日 礼拝メッセージ全文

出エジプト記 13章17~22節

 

8月に引き続き、9月も出エジプト記を読んでいきます。先週は、イスラエルの民がエジプトを脱出するきっかけとなった主の過越しの箇所でしたが、今日の箇所は、その後イスラエルの民がどのような道を進んでいったかについて記しています。その道は、私たちが神様を知り、神様に導かれて歩む道を指し示しています。

 

1.回り道を通される

17節には次のようにあります。
「さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。」

エジプトを脱出したイスラエルの民は、先祖たちの住んだカナンの地、すなわちイスラエルに向かって進んで行きました。ペリシテ街道というのは、カナンの地に向かって真直ぐ進む道です。神様は彼らをその道ではない道を行かせました。その理由については、続く箇所に書いてあります。
「それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである」

ペリシテ街道は、カナンの地に向かうためには近道でありました。しかし、そこは敵が支配する土地だったので、イスラエルの民が多くの敵を見て心挫け、エジプトに帰ろうとしてしまうのではないかと神様は思われました。
どんなに近道であっても、引き返してしまったら一番の回り道です。神様は、イスラエルの民がエジプトに引き返してしまうことがないように、あえて近道であるペリシテ街道を避けるように導かれました。イスラエルの民は、まだ敵と戦う準備ができていなかったということを、神様は知っておられました。
神様は、耐えられない試練をお与えになりません。私たちは物事が順調に進まなくなると、なぜ自分はこんな苦労をしなければならないのか、と思います。しかし神様が導かれる道のすべてには意味があります。今、もし試練が与えられているとするなら、それは、それよりももっと大きな試練、自分には耐えることのできない試練に遭わないように、神様が導かれた道なのです。
イスラエルの民は、その後、荒れ野を四十年もの間さまようという試練を与えられました。しかしそれによって、彼らは準備のできないまま敵と戦い、エジプトに逃げ帰ることをせずに済みました。神様が近道に導かれなかったことで、彼らは救いの道に導かれました。私たちも時にそのような回り道を通されることがあります。しかしその道は、神様によって用意された救いに至る道であるということを覚えることができます。

 

2.行き止まりに導かれる

次に18節を見ると、イスラエルの民が近道の代わりに進んだ先について書かれています。
「神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた」

主はカナンの地に通じる近道ではなく、海へと向かう道に民を導かれました。主はその海辺で、宿営するように命じられました。ところがちょうどその頃、イスラエルの民が逃げ出したエジプトの軍勢は、彼らを猛烈な勢いで追って来ていました。イスラエルの人々からすれば、目の前は海、後ろには迫りくる敵の軍隊、という状況で、彼らは完全に逃げ場を失ってしまいました。
神様は時に私たちを、行き止まりの状況に導かれます。前にも後ろにも行けないという、この時のイスラエルの民のような状況を経験します。しかし主が私たちをそのような状況に導かれるのは、私たちを滅ぼすためではなく、主ご自身によって道が開かれるということを経験するためです。この時イスラエルの民は、目の前で、葦の海が開かれて、海の中に道が開かれてゆくのを目撃しました。そのように私たちも、行く手が全く塞がれてしまったという時にこそ、主が想像もしない形で道を開いて下さるということを経験します。

 

3.ヨセフの人生、モーセの人生

聖書はそのような神に導かれた人生の証で満ちています。19節には、モーセの先祖であるヨセフのことについて記されています。
「モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが、『神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここから一緒に携えて上るように』と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである」
ヨセフは、「神は必ずあなたたちを顧みられる」という言葉を遺しました。「顧みる」と訳されている原文の言葉には色々な意味がありますが、「数える」とか「記録する」という意味もあります。つまり、神様は、人生で起こるすべてのことを数えていて下さり、一つとして無駄な出来事はないということです。すべてのことを通して、神様は必ず最善の道へと導いて下さるということです。
ヨセフ自身がそのような生涯を生きた者でした。彼は若い頃、兄たちによって妬まれて、奴隷としてエジプトに売られていってしまいました。ヨセフはエジプト人の家で仕えるようになりましたが、その家の主人の妻と関係を持ったというあらぬ疑いをかけられて、牢に入れられてしまいました。しかしその牢の中にいる時に、ファラオの見た夢を解くという機会が与えられ、目を留められたヨセフは、牢から出るとエジプト中を治める統治者となりました。統治者となったヨセフは、後に自分のことを売った兄たちと再会することになりますが、そのときヨセフは、自分がエジプトに来たのは兄たちのせいではなく、神様によって遣わされたからだと語りました。
そのようなヨセフの遺言と遺骨は、数百年の後、モーセに引き継がれてゆくことになりました。モーセも又、ヨセフのように神に導かれた人生を生きた人でした。モーセも幼い頃に、家族と離されるという辛い経験をしました。また、同胞のイスラエル人を救おうとしたのにかえって反感を買い、異国の地に逃げてゆかねばなりませんでした。その後モーセは、40年もの間ミディアンの地で羊を飼い続けました。それは、数ある逆境、挫折の中にも主のご計画があるということを信じ続ける人生でした。そのようなモーセにとって、先祖ヨセフの言葉は、心に迫るものがあったと思います。今を生きる私たちに対しても、神様は「わたしは必ずあなたを顧みる」と語りかけておられます。ヨセフやモーセがそうであったように、私たちも又、神様によって導かれる人生を生きています。

 

4.雲の柱・火の柱によって導かれる

最後に21~22節では、そのようなイスラエルの民が、雲の柱、火の柱によって導かれたことが伝えられています。
「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。」

雲の柱、火の柱とは、神様の臨在を指し示しています。神様がここにおられる、ということが目に見える形でイスラエルの民に示された、ということです。
神様は、私たちの人生の中で、それぞれに分かる形で、現れて下さいます。その経験の仕方は人によって様々ですが、しかし、最も大切なしるしであり、全ての出来事が指し示しているのは、神であるイエス様が、人となってこの世に来られたということです。イエス様はこのように言われました。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ(ヨハネによる福音書8章12節)」

イエス様という光は、この世の全てのものを照らす光であり、この光によって人は、命を受ける者となります。私たちは色々な困難や苦難を経験しますが、その全てをイエス様は十字架で既に負って下さっています。それだけでなく、イエス様は、最大の試練であり苦しみである死を、一人で負われ、これに打ち勝たれて復活されました。私たちが人生の途上で経験するどんな回り道も行き止まりも、イエス様はすべて知っておられ、その道を共に歩いて下さっています。
そのイエス様が、今日の箇所を通して、私たちに改めて語っておられます。「神は必ずあなたを顧みられる」と。「顧みる」という原文の言葉には、「訪れる」という意味もあります。イエス様を信じ、イエス様に従って歩む道の途上には、イスラエルの民が荒れ野で経験したような様々な試練や困難があります。しかし、そのような私たちのところをイエス様は必ず訪れて下さり、命の光でその道を照らして下さいます。私たちはイエス様の光に照らされて、永遠の命に至る道を、主と共に歩んでいます。今も共に私たちを導いて下さるイエス様に感謝と賛美をおささげします。