信じます

2022年2月20日 礼拝メッセージ全文

マルコによる福音書9章14節~29節

1.議論をする弟子たち:不信仰とは

14節「一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた」

今日の聖書箇所は、表面的にはイエス様を信じていたが、その内面は信じていなかった弟子たちの姿を伝えています。14節の「一同」とは、直前の箇所でイエス様と一緒に高い山に登ったペトロ、ヤコブ、ヨハネのことを指しています。彼らが山から下りて来ると、残された弟子たちが、律法学者たちと議論していたということです。彼らは一体何を議論していたのでしょうか。それは、この時群衆の中の一人が連れてきた息子についてのことでした。この息子は、汚れた霊にとりつかれていました。それで、父親は弟子たちにこの霊を追い出すように願いましたが、弟子たちはこの霊を追い出すことができませんでした。そういう訳で、この時の弟子たちと律法学者たちとの間の議論とは、なぜイエスの御名によって悪霊を追い出せないのかというものだったと思われます。イエス様は、使徒たちに汚れた霊を追い出す権能を与えたはずでした。それなのにどうして、この子どもをいやすことができなかったのか。弟子たちは、そのような律法学者たちの問いかけに、議論で反論していたということです。

その様子を見て、イエス様は19節でこう言われました。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」ここでイエス様は、弟子たちが汚れた霊を追い出すことのできなかったという事実についてだけ言われたのではないと思います。むしろ、彼らの内面にイエス様に頼るという信仰が欠けていたということを言われています。彼らは、使徒や弟子たちとして、イエス様に選ばれた者たちであったはずでした。しかし、その内面にはイエス様に頼る信仰が欠けていた、だからこそ彼らは議論をし続けてしまった訳です。そして、このように議論をしてしまうということは、この時だけでなく、イエス様が十字架にかかられるまで、常にそうでありました。この直前の箇所でも、イエス様と一緒に山に登っていたペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人も、やはり議論をしていました。

10節「彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った」

彼らは、イエス様の言葉が何を意味するのか論じあっていました。しかし、議論をするところに信仰は存在しません。そこには、自分の立場を認めてもらいたいという人間の強い思いだけがあります。

実は、このように議論をすることへの誘惑は、私たちの周りにも常にあるものだと思います。私たちは、自分の信じていることを否定されると、議論をすることで自分の正当性を主張してしまうことがあります。以前、私がバプテスマを受けたばかりの頃、教会に新しく来られた人で、新約聖書の中のパウロの手紙は人が書いたものだから正典とするべきでないと言った人がいました。私はそのことを聞いてとてもショックを感じました。それで、その方と帰りの駅の改札口の前で、一時間位論じ合ったことがありました。結局その方は、教会から離れていってしまいました。今振り返ると、論じ合うのではなく、その方のために祈れば良かったと思います。私たちは、聖書が人によって書かれたものではなく、神の言葉であるということを、自分の力で信じることはできない者です。しかし、それを自分の力で信じようとする時、信じることのできない人を裁き、議論をしてしまいます。私たちは、聖書の御言葉を信じる、イエス様を信じると言いながら、実は自分自身を正当化しようとしていることがあるのではないか、今日の御言葉はそのような私たちの姿を示しています。

 

2.自らの不信仰を認めた父親:信仰とは

それでは私たちはどのように信じたらよいのでしょうか。今日の箇所は、この一人の父親の姿を通して、「信じる」とはどういうことかを教えています。この父親は群衆の中にいた、使徒でも弟子でもない、名前も知られない人でしたが、この一人の父親が、かえって信仰とは何かを私たちに教える者となりました。

22節「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」

彼の息子は、汚れた霊に取りつかれており、幼い頃から、死の危険に遭遇してきたということです。この霊は、口をきけなくするだけでなく、この子を火の中や水の中に投げ込みました。本当に恐ろしいことだと思います。この父親は、そういう経験をして、わらをもすがる思いで、弟子たちのもとに来たのだと思います。しかし、弟子たちは汚れた霊を追い出すことができませんでした。かえって、彼らは律法学者たちと議論を始めてしまったのです。この父親は大きく失望したことだと思います。

そこで彼は、イエス様に対して「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と言いました。人が「できることなら」と言うときの本心とは「きっと無理だろう」「できないだろう」というものだと思います。しかしそれでも、何とか「できることなら」と人は願い求めます。そのようなこの父親の、「信じたい、けれども信じられない」という本心を、イエス様は知っておられました。そのような父親に、イエス様は何と言われたでしょうか。

23節「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」

イエス様は、この父親を裁かれなかったということです。彼をありのまま受け入れて、信じることのできないあなたでも、信じる者となることができる、そして、「信じる者には何でもできる」と、招かれました。

24節「その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください』」

この父親は、イエス様の招きを聞いて、「すぐに」叫んで答えました。それだけ彼は神様の助けを必要としていたということです。息子が幼い頃から繰り返し死の危険に遭い、そしてわらをもすがる思いで弟子たちの所へ来たけれどもいやしてもらえず、彼はある意味崖っぷちのような状態の中で、イエス様に必死に求めました。私たちは、崖っぷちにいる時、議論をしたり、迷ったりしている時間はありません。すぐに、答えなければ、命が失われてしまうのです。そのような中で、彼はすべてを神様にゆだねて、神様に助けを求めています。24節の言葉はそのような彼の信仰を表しています。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。これはまず、彼の信仰の告白を表しています。信仰とは何か、私たちは色々なことを考えてしまいますけれども、それはまず「信じます」という単純な告白によって始まるということです。そして、次に「信仰のないわたしをお助けください」と彼は祈りました。それは自分の罪や弱さを神様にゆだねるということです。信じるということは、「信じます」と告白しつつも、信じることのできない自分を認め、その自分を神様にゆだねるということです。イエス様はこのような父親の信仰に応え、すぐに息子をいやしてくださいました。イエス様は祈りによって、この子どもから汚れた霊を即座に追い出すことがおできになりました。

 

3.不信仰から祈りへ

イエス様は、このような信仰によって生きてゆくということは、祈りによって生きてゆくことであると示されました。

29節「イエスは、『この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ』と言われた」

イエス様の弟子たちは、祈っていなかったのでしょうか?恐らく、弟子たちもこの息子から悪霊が出て行くように祈ったことだと思います。しかし彼らは祈ってはいても、自分の力によってそれをしようとしていた部分がありました。だからこそ、彼らは律法学者たちと議論をし、28節でイエス様に対しても「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と問いかけています。祈りながらも、自分の力でしようとしていた、そしてそれが叶わなかったとき、どうしてできなかったのか、と彼らはまた議論を始めようとしているのです。

私たちも、祈りながらも、自分の力によって物事を解決してしまおうとすることが多いのではないでしょうか。けれどもイエス様は、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」と言われました。ここでイエス様が言われた「この種のもの」とは、汚れた霊、つまり悪霊を指している言葉です。それは同時に人間には測り知れない存在全般を指すとも捉えることができます。私たち人間には見ることのできない霊的な領域というものがあります。そのような霊的な領域において、私たちをいやしたり、また解放したりするということは、人間の力によっては不可能である、それは祈りによって初めて可能になるということです。

 

数年前、「祈りのちから」というアメリカの映画が上映されました。原題は”War Room”すなわち「戦いの部屋」という意味のタイトルです。この映画の主人公はある一組の裕福な家族で、彼らは生活には不自由なく暮らしていました。しかし、夫婦関係は冷え切っていて、妻は夫が不倫しているのではないかと疑っていました。そのような時、この妻はある年配の女性と出会い、この女性から何か問題を抱えているのではないか、と尋ねられます。そして、問題のすべてを主にゆだねて祈るべきだと教えられます。家族のために、自分一人で「戦いの部屋」に入って、祈りの戦いをしなさい、と。彼女は教えられた通りに、家のクローゼットに入り、一つ一つのことを主にゆだね、家族が悪の力から守られるように祈り始めます。そうしていく内に、自然と夫は悔い改めに導かれ、夫婦関係も親子関係もいやされてゆくということを経験してゆく、という全体のあらすじでした。

私たちも人生の色々な場面で、自分の力では到底立ち向かうことのできない「この種のもの」に遭遇することがあります。その時に、私たちは自分の力ではなんにもできないことを知ります。それどころか信仰すら失ってしまう者です。「できることなら」助けて下さい、そのようにしか願えない者であるかもしれません。しかし、そのような時こそ、本当の祈りが生まれます。信じることのできない自分を助けて下さい、と主に向かって正直に祈るなら、主は助けて下さいます。そして、そのように祈るとき、それがどんなに惨めで敗北のように思われても、祈りの戦いにおいては勝利を得ることができるのです。

今日の箇所で、汚れた霊に取りつかれた子の父親も、自らの不信仰を知ったこの時、初めて「信じます」と告白することができました。自分の不信仰を知る時、私たちは、ある意味で、死と同じようなことを経験してゆきます。彼の子どもは、汚れた霊を追い出されて、「死んだようになった」と書いてあります。その場にいた多くの人は、この子が「死んでしまった」と思いましたが、イエス様はこの子の手を取って立ち上がらせてくださいました。この時、悪霊から解放されたこの子どもの新しい人生が始まりました。そして、息子と同じように、この父親も、すべての希望を失い、信仰すら失ってしまったこの時、霊的な死を経験しました。しかし、それは、新しい命の始まりでありました。「信仰のないわたしをお助けください」というこの父親の祈りに、イエス様は即座に答えてくださいました。

私たちは、どうでしょうか?自分の信仰を振り返ってみる時、自分の力では信じることができないという不信仰に気付かされることが多いと思います。けれども、「信じることのできない自分ですが、それでも信じます」とイエス様に祈る時、主は力強い御手をもって、私たちの祈りに答えて下さいます。私たちの目の前に立ちはだかる様々な問題や苦しみがあります。しかしそれらのすべてを主にゆだね、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と祈る時、私たちは主の大いなる奇跡を経験してゆきます。