内なる人の回復

2022年7月17日 礼拝メッセージ全文

エフェソの信徒への手紙3章14節~21節

1.御父の愛を知る

15節「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています」

私たちは皆、親から名前を付けられます。しかし神様は、わたしが名付けられる前から、母の胎内に形作られる前から、天地創造の前から、わたしを選び、わたしを愛されていたと聖書は伝えています。

創世記には、神様がはじめの人間であるアダムの鼻に、「命の息」を吹き入れられたと書かれています。それは神様が私たち人間を、霊的な存在として、つまり神様との関係を持って生きる存在として、デザインをされたということです。

ところがそのような神様との関係は、人間が罪を犯したことによって遮断されてしまいました。これが、今も私たち人間が置かれた元々の状態です。神様との関係が失われると、どうなるでしょうか?その人は、神様の愛を知らずに生きる者となります。そして、どんなに他の人から愛を受けたとしても、本質的に自分が愛されている存在であるということを知ることができません。そして、神様から愛されているということを知らなければ、本当の意味で誰かを愛することもできません。

しかし今、イエス・キリストという御方は、このように私たちと神様との間に置かれた隔ての壁を、十字架によって打ち砕いて下さいました。私たちの罪をすべて背負って十字架で死なれることにより、私たちが再び神様との霊的な、愛の関係を持つことができるようにしてくださったのです。ですから私たちは、このことを信じるとき、自分は父なる神様から、子どもとして愛されているんだよ、という神の愛を受け取って生きる者となることができるのです。

私たちは、人生の中で、様々な傷を負うことがあります。特に、実際の父、もしくは血はつながっていなくても、「父」のような存在から受ける傷というものは、私たちの生涯に及ぶ深い傷を残します。

私自身は、比較的平和な家庭で育ったように思います。両親はクリスチャンではありませんでしたが、私を兄と共に健康に育て、そして今はそれぞれの家庭に孫が与えられ、無事に過ごせるということ、それは本当に神様の恵みであると思います。しかし、特に父との関係を思い返してみると、色々な傷が残されていることも事実です。自分のことを理解してもらえなかったという思い、価値観を押し付けられたという思い、これらの経験が傷となって残っているように思います。しかし、これは最近気づかされたことですが、自分も今、子育てをしている中で、息子に対して同じようなことをしてしまっているのではないか、と思う時があります。自分も、本当は息子のことを理解しようとしていない、自分の価値観を押し付けようとしている、という姿を見せられることがしょっちゅうあります。そう考えると、もしかしたら自分を育てた父も、自分と同じように父との関係の中で傷ついていたのではないかと思うようになりました。このように親との関係で何らかの傷を受けるということは、私に限らず、多くの人に見られることであると思います。

そのように、人は皆、内容や程度は違ったとしても、色々な傷を抱えて生きています。しかし神様は、その傷を癒してくださるお方です。その傷をすべて、御子であるイエス様に十字架の上で負わせられたからです。そのことを信じるとき、私たちは、神様を自分の本当の父、天のお父様と呼ぶことができるようになります。神様は私たちの真の父であり、「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザヤ43:4)」と言われています。私たちの一人一人が、神様からそのような愛を受けているということを知るとき、私たちの心の内の傷は癒されて、父なる神様との愛の関係を持つことができるようになります。アダムが最初に神様との間に持っていたような、神様との霊的な関係を、もう一度回復することができるということです。

 

2.内なる人を強められる

今日の箇所は、そのように神様との関係の中に生きる私たちの存在のことを指して、「内なる人」と呼んでいます。

16節「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて」

イエス・キリストを信じ、父なる神様の愛を受け取る時、私たちは神の子とされます。しかし、それによって私たちの名前が変わる訳でも、目に見える姿が急に変わる訳でもありません。それは、私たちの内に与えられた新しい霊的な命であり、キリストと共にあるこの新しい命のことをここで「内なる人」と呼んでいます。

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされてゆきます(Ⅱコリント4:16)」

私たちの外なる人、すなわちこの肉体は衰え、滅びてゆきます。しかし、このわたしの肉体が、今どのような状態にあったとしても、またわたしの心が今、どのような傷を負っていたとしても、それはわたしの「外なる人」でのことです。キリストにあって新しく生まれた人には、「内なる人」、すなわち、肉体的、精神的な命を超えた、霊的な命が与えられ、この「内なる人」は、決して衰えることがありません。そればかりか、日々新たにされてゆくと言われています。

私たちは誰でも、「イエス・キリストを救い主と信じます」と、心に受け入れたその日から、この「内なる人」、霊的な命を得るものとなります。どんな試練の中にあっても、どんなに落ち込んだとしても、私たちの内には、キリストにある霊的な命が存在しているのです。そして父なる神様は、この「内なる人」を強めてくださる、と今日の箇所は伝えています。それは、次の17節に「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ」とあるように、私たちの心の内で、主であるキリストの存在感が増してくるということです。

 

3.人の知識をはるかに超えるキリストの愛

それは、具体的にはどのようなことでしょうか。それは、私たちがキリストの愛をより深く知るようになり、そしてその愛に満たされるようになるということです。

17~19節「あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」

そうです。キリストが私たちの心に住まわれる時、私たちはこのお方の愛を知り、その愛に満たされるようになります。しかし私たちはこの愛をどのように知るかというと、それはまず、自分がいかに罪深い者であるかを知ることによってです。私たちの「内なる人」が強められ、心の内にキリストの存在感が増してくるとき、私たちが経験するのは、自分がいかに罪深い者であるかを知るということだからです。

ローマ7:21-24「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」

パウロはここで、「内なる人」が成長してゆくに従って、罪に支配された肉的な自分との間に戦いが起こるという体験について語っています。多くの人々は、クリスチャンになるとは、「聖人君子」のような存在になることだと考えているかもしれません。しかし、むしろその逆で、クリスチャンとして成熟してゆけばゆくほど、自分の罪を示されてゆきます。ここでパウロですら、その戦いの中で、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と打ちのめされそうになっています。しかし、とこの手紙は続きます。「わたしたちの主イエス・キリストを通して、神に感謝いたします」。主であるイエス様は、罪に支配され、どうしようもなくなっているわたしを、救い出してくださったのです。わたし自身、自分の罪の深さを知るからこそ、そのようなわたしを救い出してくださる神様の愛の深さを知るのです。

だから、今日の箇所で言われています。「内なる人」が強められた私たちは、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解」すると。それはまずわたしが、自分の罪の「広さ、長さ、高さ、深さ」を知るということです。キリストにある霊的な命が私たちの内で広がるにつれ、自分の存在がいかに隅々まで罪によって汚染されているのかを、私たちは知るようになります。しかし、まさにそのようなわたしを贖い、神のものとするためにこそ、イエス様が十字架にかかってくださいました。その愛は、私たちの理解、「人の知識をはるかに超える」愛です。パウロはこのようなキリストの愛について、証ししているのです。

したがって、このようなキリストの愛を知るとき、私たちの心に与えられるのは、感謝と共に、悔い改めです。パウロは今日の箇所の初めでこう書いています。14節「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります」。パウロは、復活されたイエス様に直接出会い、使徒として素晴らしく用いられました。しかし彼の心の中には常に、自分自身の罪の深さに対する認識と、悔い改めがありました。私たちも、主の恵みによって、イエス・キリストと共にある「内なる人」が成長してゆくなら、同じような悔い改めの心が与えられてゆきます。わたしの力では到底なしえない、わたしの知識では到底理解できない大いなる愛を、イエス様は私たちの一人一人に与えてくださいました。そのことを知るときに、私たちにできることは何もありません。ただ、神様の前にひざまずいて祈る、ということだけです。そのようにして、私たちが神様との間に霊的な交わりを深めていくときに、神様は私たちの「内なる人」により一層力と愛を注ぎ続けてくださいます。

今週、私たちが遣わされてゆくそれぞれの場所で、このように大きな愛を私たちに注いでくださる神様に、期待しつつ、感謝と悔い改めの心をもって、祈る者でありたいと思います。

20~21節「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」。