キリストにおいて一つとなる

2022年7月10日 礼拝メッセージ全文

エフェソの信徒への手紙2章14節~22節

私たちは、主の日に神様の言葉を聞いて、それぞれの場所に遣わされてゆきます。その中で私たちが日々経験することというのは、私たちが「一つになる」ということがいかに難しいか、ということではないかと思います。今日の箇所には、「キリストにおいて一つとなる」という小題がついています。これは、私たちが、キリストを信じる自分の信仰によって一つとなれるよう努力してゆく、ということではありません。その逆で、神様が、キリストという私たちへの一方的な恵みによって、私たちを一つとしてくださるということです。

では、イエス・キリストというお方は、私たちをどのように一つにされるのでしょうか?

 

1.キリストにおいて、神様との間に平和を得た

14節「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」

ここで言われている平和とは、まず、神様と私たちの間に与えられる平和のことです。私たちはキリストにあって、神様との間に平和を得ることができるようにされたということです。

先週の箇所、エフェソの信徒への手紙の1章は、神様はわたしたち人間を祝福された存在として造られたということを伝えていました。創世記を読みますと、神様は、私たちの一人一人を「極めて良い」存在として造られたことが分かります。けれども、その後、人間は罪を犯したことによって、本来の祝福に代わって、呪いを受ける存在となってしまいました。今日の箇所ではそのことが、「敵意」という言葉で表されています。これは、神様と人間との間に、隔ての壁が造られてしまったということです。これを、パウロは別の箇所で次のように語っています。

コロサイの信徒への手紙1章21節「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」

私たち人間は皆、罪を犯すものになってしまいました。そのことによって、私たちは「心の中で神様と敵対する」ものになってしまったということです。この敵対関係はどのように解消されたのでしょうか?続く箇所にはこうあります。22節「しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」。人間と神様の間に置かれた敵対関係は、御子イエス様の肉の体、すなわち十字架の死によって解消されました。このことが、今日の箇所では次のように言われています。

16節「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」

ここで、先ほどの箇所と同じく「和解」という言葉が使われています。私たちは普段「和解」というと、人間同士のことを思い浮かべますけれども、今日の箇所、そしてエフェソ1章を読むと、私たちに与えられる和解とはまず、神様と私たちとの間の和解であることが分かります。イエス様は、十字架によって、神と人間との間に置かれた敵意を滅ぼし、私たちに和解をもたらしてくださいました。

私たちの住むこの日本では、多くの人々にとって、神様とは「怖い存在」であり続けているように思います。何か悪いことをすると、「ばちがあたる」というようなことが言われます。聖書を信じるクリスチャンであっても、神様は、自分の過ちを赦さない厳しい方というイメージがあるかもしれません。そういうイメージが残る原因の一つとして、自分の肉親、特に父親との関係が挙げられると思います。自分の親と関係の中で傷つき、「父」とは厳しい存在であるというイメージが作られると、「父なる神様」と言われた時に、自分を裁く厳しい方だとイメージしてしまうということです。

しかし、父なる神様は、私たちを愛しておられるお方です。人間の罪が、隔ての壁を作り、その愛を見えなくしてしまったのです。イエス様は、その隔ての壁を、十字架によって打ち砕いてくださいました。私たち人間が、罪のゆえに受けなければならなかった呪いを、敵意を、痛みと苦しみを、すべて十字架で私たちの代わりに受けてくださったのです。

私たちはこうして、神様との間に平和を得る者となりました。私たちが求めるいかなる平和も、その源は神様との間に得る平和にあるということを覚えたいと思います。

2.キリストにおいて、異なる者が一つとされた

今日の箇所は、このようにキリストにあって神様との間に平和を得ることが、お互いの間の平和につながってゆくということを示しています。逆に言えば、神様との間に平和が無ければ、お互いの間にも平和は無いということです。

先ほど創世記の箇所についてお話しましたが、そこでは、神様との間の平和が失われた人間の間に争いが生じたということが書かれています。初めの人であるアダムとエバは、神に逆らって罪を犯した直後、罪の責任をなすりつけ合ってしまいました。私たちも今日、お互いの間で同じようなことを経験するかもしれません。神様から赦されているという平安、安心感がなくなったとき、私たちは誰か他の人を裁いたり、責任をなすり付け合ったりしてしまいます。このようなことは、聖書の中でも繰り返されました。アダムとエバの間に産まれた兄弟、カインとアベルの間では、それがエスカレートし、遂に兄が弟を殺すという殺人事件へと発展しました。ここには、自分の献げ物を神に受け入れられなかったことへの、兄の怒りがありました。神に受け入れられないという怒りは、弟に対する妬み、殺意へとなってゆきました。このように、私たちの間に存在するあらゆる形の敵意の源泉は、人間の罪、そしてそれが赦されないことへの不安や怒りにあるということが分かります。

でも神様は、イエス様を私たちのところに遣わしてくださって、私たちと神様が和解をして、平和を得ることができるようにしてくださいました。そしてその平和が、お互いの間へと広げられてゆくのです。今日の箇所を見ると、このような神の平和が実現される様が、色々な形で書かれています。14節には「二つのものを一つにし」、16節には「両者を一つの体とし」、そして17節には「遠く離れているあなたがた」「近くにいる人々」にも平和の福音が告げ知らされた、とあります。ここでパウロが第一に語っているのは、ユダヤ人と異邦人との間の関係のことです。神の律法を与えられたユダヤ人と、それ以外の民である異邦人が、イエス様によって一つとなることができるということです。しかしこれは、ユダヤ人と異邦人の間だけのことを言っているのではないと思います。私たちの間には様々な違いがあります。ある時には、お互いの間に敵意が置かれることもあります。しかしそれでもなお、イエス様は私たちの一人一人に同じように、神様との平和を与えて下さいます。そしてそのような者として、私たちお互いの間にも平和が与えられることを、希望を持って待ち望んでいます。

従って、私たちがイエス様を信じ、教会につながる者となるということは、ただそれぞれの個人的なことではないということです。なぜなら、私たちがイエス様とつながり神の平和をいただいてゆくなら、私たちはお互いの間にも、この世の中では経験することのできない平和を経験してゆくことができるからです。

 

3.キリストにおいて、神の家族となる

さて、今日の箇所は、そのようにキリストによって神との間に平和を得、お互いの間に平和を得ている私たちのことを、「神の家族」と呼んでいます。

19節「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」

「神の家族」であるとは、どういうことでしょうか?それはまず、神様に家族として受け入れられた者となったということです。自分が誰であるか、これまでどのような道を歩んできたかに関わらず、神様はキリストによって、私たちを神の子どもとして、神の家族に受け入れてくださいました。

そして、「神の家族」であるとは、もう一つのことも指しています。それは、自分と同じように神の子どもとされた人々と、家族の関係になったということです。このことは、私たちが今共に礼拝をささげている水戸バプテスト教会の中において真実です。

それだけでなく、主イエス様を信じる日本中の人々、そして世界中の人々と、兄弟姉妹と呼び合うことができるということでもあります。このように、私たちはキリストにおいて、お互いに神の家族とされました。

しかし、これは私たちの実際の家族にあっても同じですが、家族が本当の意味で家族になるのには、時間がかかることが多いと思います。ただ、血がつながっているから、ただ結婚によって結ばれたから、そこですべてが完成したということではないということです。私たちが本当の意味で家族となってゆくためには時間がかかりますし、その過程の中で様々な苦しみも経験します。それは、私たちがキリストにあって神の家族とされてゆくという歩みにも同じことが言えます。

私たちはイエス様によって、すでに神の子どもとされていますが、神様は、私たちによりふさわしく、より多くの愛を注ぎたいと願っておられます。また私たちは、教会のかしらであるキリストによって、すでに兄弟姉妹とされていますが、神様は私たちの間により多くの愛を注ぎ、家族として愛し合うことを願っておられます。これらすべてのことは、私たちの努力によって成し得るものでは決してありません。それは、イエス様御自身の力によってなされるものです。

20~21節「そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります」

神様は私たちを家族としてくださいましたが、その中心に何があるかというと、「かなめ石であるキリスト・イエス御自身」です。「かなめ石」とは、家の全体を支えている石です。イエス様という「かなめ石」によって、私たちのすべては支えられており、また、この方によって「組み合わされて成長」する者となっています。イエス様にしっかりとつながって生きることは、同時に私たちが神の家族としてお互いに組み合わされてゆくということ、そのことによって成長を遂げてゆくということでもあります。組み合わされてゆくということは、簡単なことではありません。凸凹なものが組み合わされると、お互いに削れる部分が出てくるでしょう。そのように、私たちが誰かとしっかりと結び合わされてゆくなら、相手の良い部分だけでなく、悪い部分も見えてきます。これは、私たちと神様との間の関係でも同じです。神様としっかりとつながって生きてゆくなら、自分の隠れた暗闇の部分に神の光が当てられてゆきます。そして、その度ごとにイエス様を見上げ、罪を悔い改めてゆくとき、神様は私たちを赦し清め、ますます愛する子として成長させてくださいます。そのように主との関係が深まってゆく中で、神の家族である私たちのお互いの間の関係も深まってゆきます。

22節「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」

私たちそれぞれが、神様に愛された子どもであります。しかし神様は私たちが一人で生きるようにはなさいませんでした。私たちは「神の家族」として、共に「神の住まい」となってゆくように設計をされています。私たちの内誰一人として、不必要な存在はなく、神の住まいの部分を形作っています。私たちはこのように、キリストにおいて、本当の意味で「一つ」となってゆくことができます。それは、私たちが日々、イエス様の恵みに依り頼んで生きてゆくということです。そうしてゆく中で、私たちと神様との関係はより近いものとなってゆき、また、私たちもお互いに神の家族として組み合わされ、成長してゆくことができます。

私たちが今週、遣わされるそれぞれの場所で、イエス様の恵みに依り頼んで、神の家族として一つとされて、生きてゆくことができるように、お祈りしましょう。