地を満たすイエス様の栄光

2021年10月17日 礼拝メッセージ全文

詩編24編1~10節

1.全地を統べ治められる主

先々週の19編では、天に目が向けられていました。19編2節「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」。これは良く知られた、素晴らしい御言葉です。

それに対し、今日の24編ではまず、地に目が向けられています。1節「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの」。ここで言われている地というのは、私たちが立っている大地、私たちの住む街、社会、この国のことを指しています。そこに満ちるすべてのものと、そこに住むすべての人々は「主のもの」であると言われています。これは、単純なようで、ものすごいことを言っていると思います。

天を見上げるとき、私たちは神様のことを思うことが比較的たやすいかもしれません。一方で地とそこに満ちるものを見る時、私たちが見るものはなんでしょうか。ある人はありふれた日常、退屈な毎日を見るかもしれません。ある人は、貧しさや生活の苦しさを見るかもしれません。ある人は、争いや戦いの絶えない現実を見、またある人は、一向に変わらない政治や社会に幻滅しているかもしれません。

しかし、今日の箇所は、それらすべてのものは「主のもの」である!と宣言しているのです。

どんなにこの地上の人生が空しいものであると思えても、それはすべて、「主のもの」、英語訳ではFor the LORD、つまり「主のために存在している」ということです。

わたしたちはこのことをどれだけ実感して、日々生きているでしょうか。

私たちの生きる日々の現実は、主によって備えられたものであり、この主によってすべてのことが統べ治められています。そう考えると、感謝と共に、主に対する畏れの念が湧いてきます。

 

2.主の山に上り、聖所に立つ

3節「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか」

ここで目が、私たちの足元から、もっと高い所に移されています。ここには、「主の山」「聖所」とあります。それは、主のものである全地の中で、最も高いところ、最も聖なるところという意味です。そのような場所に、一人の人間が上って行くということ、それは主の偉大さを考えると、本来あり得ないことのはずです。

しかし神様は、人間に、主の山に上り、聖所に立つ、つまり、いと高き神と交わりを持つということを許してくださいました。それは、人となられた神、イエス様の恵みによってです。

4節には「それは潔白な手と清い心をもつ人」とあります。ここを読むと、神様と交わりを持つために、私たちが努力して清くならなければならないのかと思えるかもしれません。あらゆる宗教はそのように、人の力によって、神に近づこうとするものだと思います。しかしどんなに修行で高い山に登っても、どんなに人に善い行いをして心が清められたような気がしても、私たちは自分の力で神に近づくことはできません。この箇所で言われているのは、私たちがどんなに努力をしても、神と交わりを持つことができるだけの「潔白な手と清い心をもつ人」になることはできない、ということです。

だからこそ、完全に清い方であるイエス様が私たちの身代わりとなって、十字架にかかり、すべての罪を背負って死んでくださいました。私たちはそのことを信じるだけで、無償で神の子とされ、この地上において、そして死後の永遠の人生においても、神様と交わりを持って生きる者となるのです。

6節「それは主を求める人、ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人」

ここでは、主の山に上り、聖所に立つことができる人、それは、「主を求める人」「御顔を尋ね求める人」であると言われています。神様と交わり、神の祝福と恵みをいただくために、私たちはどこか特別な場所に行かなければならないということはありません。もちろん、私たちがこのように教会に来て、主を礼拝するというのは大切なことです。しかし、教会の外の生活で、神様と交わることができないということではないわけです。むしろ、私たちの日常生活の只中で、私たちはイエス様を信じることを通して、いつでも神様と交わることができる者です。「主を求める人」「御顔を尋ね求める人」とはそのような人のことを表しています。

旧約聖書の時代には、まだイエス様の名前は知られていませんでした。しかし、神様からの恵みを受けて、主との交わりを体験した人々がいました。この箇所にも出てくる、後にイスラエルと呼ばれたヤコブは、その一人でありました。

創世記28章16~17節「ヤコブは眠りから覚めて言った。『まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。』そして、恐れおののいて言った。『ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。』」

ヤコブは、一人で親戚の家に向かって旅をしている時、後にベテルと呼ばれた見知らぬ場所で、野宿をしました。その時、彼は夢の中で、先端が天まで達する階段が地に向かって伸びていて、天使たちがそれを昇り降りしているのを見ました。ヤコブはこの夢を通して、主なる神様が自分の今いる場所、見知らぬ寂しい土地に、共にいて下さるということを知りました。そして彼は、「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」と告白しました。

私たちはイエス様を信じることによって、まさしくこの言葉のように、日常生活の只中で、「ここは神の家、天の門だ」と告白することができます。イエス様は、天の門を開いて、私たち人間が、いつでもどこでも、神様と交わることができるようにしてくださったのです。

 

3.栄光の王、主イエスが来られる

7~10節は、そのように天の門を開いて下さったイエス様が、栄光に輝く王として私たちのもとに来て下さると伝えています。

7節「城門よ、頭を上げよ、とこしえの門よ、身を起こせ。栄光に輝く王が来られる」

城門とは、直接的には、エルサレムの門のことを指しています。エルサレムには、神殿を囲む城壁の中に、たくさんの門がありました。聖書を読んでいくと、エルサレムの神殿も、城門も、後に破壊されてしまったことがわかります。この地上にあるもので、永遠に残るものというのは何一つありません。それでも主なる神様は、今日の箇所で、世界とそこに住むすべてのものに、そして私たち人間の一人一人に、「頭を上げよ、身を起こせ」と呼び掛けておられます。なぜなら、天の門を開いて下さったイエス様が、この世界を治める栄光の王として来て下さり、私たちの一人一人を、その栄光を現わす者として下さるからです。

この地上にあっては、様々な困難があります。神の栄光とは程遠く思われるような、貧しさや、醜さや、空しさが存在しています。イエス様は言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている(ヨハネによる福音書16:33)」。今日の箇所では、8節「栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主」と言われています。私たちの身代わりとなって、十字架にかかり、三日目に復活されたイエス様は、「雄々しく戦われる主」として今も私たちと共にいて、私たちの戦いを共に戦ってくださいます。そこにあるのは、既にあたえられた勝利です。私たちは日常生活の只中で、イエス様を求め、勝利することを通して、神の栄光を現わす者となりましょう。