2020年11月29日 礼拝メッセージ全文
マタイによる福音書6章5~15節
アドベント第1週の礼拝を感謝します。今年は感染症の流行により、大変な一年となりましたが、私たちの救い主イエス・キリストの降誕という変わることのない良い知らせを待ち望むアドベントの時を過ごしてゆきたいと思います。
さて、今日の箇所は、祈りについてのイエス様の教えを伝えています。祈りとはなんでしょうか。今日の箇所には、いくつかの教えが伝えられていますが、そこに一貫していることは、祈りとは、天の父に祈るものであるということです。イエス様が来られたのは、天の父である神様のもとに私たちを導くためでした。そのために、イエス様は、十字架によって私たちのすべての罪を負ってくださいました。罪赦された私たちは、神の子どもとして、天の父に向って祈ることができるようになりました。今日の箇所は、祈りということを通して、天の父がどのような方であるのかを、私たちに示しています。
1.隠れたところにおられる父
6節「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」
天の父である神様は、「隠れたところにおられる」とこの箇所は伝えています。それは神様が、私たちの一人一人と、個人的な関係を持って下さる方であるということです。
直前の5節では、他人に見てもらおうとしてお祈りをする人々のことが書かれています。なぜ、人に見てもらおうとしてお祈りをするのでしょうか?それは、自分一人では、神様とつながっていることができないと思うからです。しかしイエス様は、私たちが自分一人でも、どこにいても、何をしていても、父なる神様とつながっていることができるようにしてくださいました。隠れたところにおられる、というのはそのような意味です。私たちの日常生活の只中に、主は共にいてくださり、私たちが祈る時、その声を聴いていて下さいます。
ここでは、「奥まった自分の部屋」で祈りなさいと言われています。これは原文では、「倉」とも訳すことのできる言葉で、要するに、自分が一人になることのできる場所、ということです。それは私たちの住む家によって、また生活環境によって異なるかもしれません。日本では、中々、自分一人の部屋、というものを確保するのが難しいと思います。仮にそのような部屋があっても、小さな子供がいたり、仕事が忙しかったりすると、中々一人で落ち着いた時間を過ごす、ということは難しいかもしれません。しかし、それでも、一人になって神様に祈るとき、その場所に主は共におられます。ちなみに私はよく、喫茶店を利用します。朝のすいている時間帯などに行くと、割と一人で、集中して聖書を読んだりお祈りをしたりすることができます。またある人は、車を運転しながら、ある人は外を散歩しながらお祈りをするということもあると思います。いずれにしても大切なことは、「隠れたところにおられる天の父」に祈るということです。誰に見てもらうためでもなく、ただ、父なる神様に聞いていただくために、祈りをささげるということです。「そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」と書いてあります。これは、天の父が私たちの祈りを喜んで下さり、ふさわしい答えを与えて下さるということです。天の父なる神様は、そのように、隠れたところで私たちが祈る時に、その祈りを聞いていて下さいます。
2.私たちに必要なものを知っておられる父
天の父がどのような方であるかについて、今日の箇所が二つ目に伝えていることは、このお方は、私たちに必要なものを知っておられるということです。
8節「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」
父なる神様は、私たちから遠く離れて、私たちの生活のことを何も知らないのではなく、必要なものをすべてご存じであるということです。しかも、私たちが願う前からそれらを知っておられるということは、私たちのすべてを知っておられるということです。
だから、この直前の箇所にあるように、祈る時に、くどくどと同じことを繰り返す必要はないのです。「異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」とあります。そこには、一生懸命に祈らないと、神様の恵みを受けられないという恐れがあります。しかし、父である神様は私たちが頑張ったから、祈りを聞いて下さるというようなお方ではありません。父親が子どもに良い物をあげたいと思う以上に、天の父なる神様は私たち一人一人に、最高のものを与えたいと願っておられます。
私たちが祈るのは、そうしなければならないからではなく、誰よりも私たちのことをご存じである父なる神様を信頼するからです。天の父が自分の祈りを聞いていて下さることを信頼して、私たちは祈ります。イエス様はその祈りについて、9節以降の箇所で、具体的に教えられました。これは、毎週の礼拝の初めに祈っている主の祈りです。これは、私たちの誰もが必要としている祈りを表しています。9節~10節では、まず天の父を賛美し、その御国、御心を求めます。そして、特に11節~13節は、私たちにとって必要なことを具体的に言い表しています。11節では、今日という日に「必要な糧」について祈り求めています。この「糧」とは、生きていくのに必要な食糧のことだけでなく、信仰生活に必要な霊的な糧、つまり御言葉のことも指し示しています。日々、生活の必要が満たされるように、そして御言葉によって信仰が新たにされるように祈り求めるということです。12節には、「わたしたちの負い目を赦してください」とあります。これは神様の御前で私たちが犯すすべての罪、自分で気づいているものも、そうでないものも含めて、すべてを赦して下さい、という祈りです。そして13節は、誘惑から守られ、悪い者から救われるようにとの祈りです。「悪い者」とは、あらゆることを通して私たちを誘惑する悪魔、サタンに他なりません。特にサタンは、私たちが祈ろうとする時、誘惑し、妨げます。先ほど出てきた「奥まった自分の部屋」というのも、祈りに集中できる場所であると同時に、多くの誘惑が存在する場所でもあります。
これらのことを祈るのは、それが私たちにとって必要なことであると、天の父が知っておられるからです。私たちが日々、必要な糧によって満たされ、罪の赦しを受け取り、そしてサタンの誘惑から守られるということが必要なことを、天の父はご存じです。だからこそこのようにイエス様の言葉を通して、この祈りを私たちに教えてくださっています。私たちはこの主の祈りを祈るときに、天の父がすでに私たちに必要なものを知っておられるということ、そしてそれを惜しまずに与え続けて下さる方だということを、知ることができます。そして、そのような天の父を信頼して、祈り続けることができます。
3.私たちの罪をお赦しになる父
最後に、今日の箇所は、天の父が私たちの罪を赦して下さる方であるということを伝えています。
「父」というと、今も昔も、怖い存在、というイメージがあると思います。そのイメージを神様に対して持っている方も多いと思います。しかし、これまで見てきたように、父なる神は、私たちと個人的な関係を持って下さる方、そして私たちの必要をすべて満たして下さる、愛の神です。そして、それだけでなく、私たちの罪を赦して下さる方であるということ、これが一番大切なことです。
「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる(14節)」
ここで「もし人の過ちを赦すなら」と言われています。しかし私たちは、自分の力で人の過ちを赦すことのできない者です。私たちが人を赦せないとき、それは、自分もこのような目にあったのだから、この人も同じ目に遭うべきだ、という風に考えてしまうことが多いと思います。ですから人を赦すためには、まず自分自身が赦されるという経験が必要です。イエス様がこの地上に来られたのは、私たちの一人一人に、赦しを与えるためでした。十字架によって私たちのすべての罪を背負われ、私たちが既に罪赦されている存在であるということを知らせるためでした。使徒パウロは、次のように語っています。
「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい(コロサイ3:13)」
「主があなたがたを赦してくださったように」と言われている通り、まず主であるイエス様が、私たちを赦して下さいました。そして、そのように私たちは、自分の力によるのではなく、主の恵みによって、人を赦す者に既にされています。その恵みを分かち合って、人を赦すとき、私たちはもう一度、自分自身が天の父から赦されている存在なのだということを知るのです。お祈りは、そのように、私たちが赦しを経験する機会です。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」。天の父なる神様は、私たちの罪を赦して下さる方であり、そして私たちに人を赦す恵みをも与えて下さる方です。
今日の箇所は、お祈りについて、私たちに教えています。そして私たちが祈りをささげる天の父は、隠れたところにおられる方、私たちに必要なものを知っておられる方、そして私たちの罪を赦して下さる方であるということを見てきました。私たちはお祈りを通して、このような天の父の姿を、より深く知ってゆくことができます。誰でも、どこにいても、どんな状況の中にあっても、祈りによって、父なる神様の愛に満たされて、生きてゆくことができます。クリスマスを待ち望むこのアドベントの時期、このような天の父に祈りつつ、過ごしていきましょう。