恐れから希望へ

2022年4月17日 イースター礼拝メッセージ全文

マルコ16章1節~20節

イースターおめでとうございます。今日もこのように、イエス様の復活を記念するイースターを祝うことができることを感謝します。イエス様の復活は、それが起こった2千年前も、そして今も、変わることのない約束を私たちに伝えています。それは、

死は人生の終わりではなく、天にある新しい命の始まりであるということです。私たちは、この天にある新しい命を与えられている者であるということを、このイースターの日に覚えることができます。

1.復活がもたらした「恐れ」

今日の箇所は、イエス様の復活というこのように素晴らしい出来事を最初に経験した婦人たちについて伝えています。それは、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメという三人の女性であって、彼女たちが最初に、イエス様が復活されたという知らせを天使から聞くことになりました。その時の彼女たちの反応は次のようなものでした。

8節「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」

彼女たちは、イエス様が復活されたという決定的な証拠を見ました。なぜなら彼女たちは、イエス様の遺体が納められた場所を、はっきりと見ていたからです。その墓の入り口には、非常に大きな石が置かれ、決して自分の力では抜け出すことができないようになっていました。それにも関わらず、彼女たちが墓に行った時、この大きな石がわきに転がしてあり、中にはイエス様の遺体がなく、ただ白い衣を来た若者だけがいました。この天使と思われる存在が、婦人たちにイエス様復活の事実を伝えたのです。

この時に彼女たちがまず、感じたのは、激しい恐れでした。震え上がり、正気を失うほどの恐れです。イエス様の復活という喜ばしい出来事が、最初に人々に与えたのが喜びではなく恐れであったのは、なぜでしょうか?

 

婦人たちはこの時、イエス様の遺体に油を塗るために来たのでした。彼女たちはイエス様を救い主であると信じ、全てをささげて従ってきました。それでこの時も、亡くなったイエス様の遺体に油を塗ることで、何とか主に仕え続けたいという思いがあったのだと思います。

ところが、イエス様の遺体はそこにありませんでした。彼女たちが生涯、慕い続けたイエス様の体が無くなったという事実は、彼女たちに重く突き付けられました。彼女たちは、イエス様が復活されるということは、それまでも聞いていたかもしれません。しかし、目の前にイエス様がもういないと言う現実の中で、彼女たちは恐れずにはいられませんでした。

私たちが復活を信じるということは、目には見えない死後の世界に目を向けるということです。でもそれは、私たちの自分の力では、到底持ちえない信仰です。それは私たち人間が、いかに普段目に見えるものに支配され、また目に見えないものに対して恐れを抱いているかを示しています。しかし、そのような恐れというのは、実は、神様に対して近づくチャンスでもあります。恐れを感じる時こそ、神様の偉大さの前で、自分を低くすることができるからです。

この婦人たちは、震え上がり、正気を失うほどに恐れました。でも、イエス様はそのような恐れの中にあったマグダラのマリアに、最初にご自身の姿を現わしてくださいました。それは神様が、恐れる者を見捨てられるのではなく、むしろそのような者のそばに来てくださる方であるということを示しています。

 

私たちは今日、このイースターの日、イエス様の復活の出来事を聞いています。教会に続けて通ってらっしゃる方々は、このことを毎年聞くわけですけれども、そのような中で、復活を特別なことと思えなくなる時があるかもしれません。でも私たちは、今日の箇所の婦人たちから教えられるように、イエス様の復活という出来事に恐れを覚えるということ、これがまず大切なことではないかと思います。イエス・キリストは、十字架にかかり死なれ、墓に葬られましたが、葬られたはずの墓の中におられなかったのです!そして私たちは、この出来事の遥か2千年先の今、これを信じるなら、目に見えるこの体が滅びても、イエス様と共に永遠に生きることができる者とされるのです!それは本当に、私たち人間には決して成し遂げることのできない、驚くべき神様の御業です。そのように、復活という出来事は、私たち人間に、感謝と共に恐れをもたらすものでした。

2.「恐れ」がもたらす「かたくなな心」

しかし私たちは、もし恐れの中にとどまり続けるとするなら、信じることができない者です。今日の箇所は、イエス様によって任命され、「使徒」と呼ばれた弟子たちが、復活されたイエス様の話を聞いても、信じることができなかったと伝えています。

14節「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」

ここで「十一人」という言葉自体が、彼らの悲しみを現わしています。イエス様の使徒は元々十二人いた訳ですが、その内の一人であるユダが、イエス様を裏切り、それによって、イエス様は十字架につけられることになりました。このユダは、後に後悔し、自ら命を絶ってしまうこととなりました。

この時にここに残された十一人は、もはや以前のように十二人でイエス様を囲んで食事をすることはできないんだ、という悲しみをひしひしと感じていたのではないかと思います。ヨハネによる福音書によれば、この時彼らは、恐れの中で、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて閉じこもっていたということです。そのような恐れと悲しみの中にあった彼らの状態を指して、この14節では「不信仰とかたくなな心」と言われています。

婦人たちのように、彼らが恐れるということ自体は、必要なことでもありました。特に彼らは、婦人たちとは異なり、イエス様が十字架にかかられた時に逃げ去り、ペトロに関しては、「イエス様を知らない」と三度も言ってしまった訳です。そのような彼らは、イエス様を裏切ってしまったという罪のゆえに、神様を恐れるべきでありました。でもその恐れとは、彼らが閉じこもるためではなく、彼らが神様に立ち返るためのものでした。神様は彼らのことをすべて赦しておられたからです。そのことは、婦人たちが出会った天使が7節で「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい」と言った言葉にも表されています。「イエス様を知らない」と三回も言ったペトロが名指しで呼ばれているのは、神様がそのようなペトロを赦し、そして用いようとされているという、神様の愛を現わしています。

 

聖書を読むと、そして特にこのマルコによる福音書を読むと、神様に従おうとする人々の弱さが示されてきます。そこには、神様を信じることができず、常に恐れてしまう人間の姿が伝えられています。しかしイエス様は、そのような私たち一人一人のために来てくださいました。復活されたイエス様が、婦人たち、そしてこの十一人の弟子たちのもとに現れてくださったのは、そのような大きな神様の愛を示しています。そして彼らが、恐れの中に閉じこもり、心をかたくなにするのではなく、神様の愛を受け取って、前に踏み出すことを主が願っておられるということを伝えています。私たちも、今、どのような恐れの中にあるとしても、死から復活されたイエス様が、その恐れから私たちを引き上げようとしておられることを信じることができます。

 

3.復活の命の希望

このように、イエス様の復活の出来事とは、この時婦人たちや弟子たちに対してそうであったように、私たちに今も、恐れに打ち勝つ希望を与える出来事です。その希望というのは、天にある永遠の命です。「わたしを信じる者は、死んでも生きる(ヨハネ11:25)」というイエス様の約束を信じるということです。婦人たちと弟子たちは、この約束を伝えるために、このところから世界中に遣わされてゆきました。

15~16節「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」

恐れの中で震え上がり、正気を失っていた婦人たち、また閉じこもっていた弟子たちを通して、このイエス様の福音は宣べ伝えられ、それが世界中に伝えられ、今日に至っています。それはこの時信じた彼らが、また私たちが今、イエス様の復活によって与えられる永遠の命に希望を持って生きることができるからです。このことを信じて、そのしるしとして洗礼(バプテスマ)を受けるという恵みが、私たちには与えられました。このバプテスマとは、ただの儀式ではなく、これ自体が、永遠の命を私たちに証しています。バプテスマを受ける時、その人は、水の中に一度沈められ、そしてその水の中から上がります。それは、恐れに支配された私たちの古い自分が、十字架で死なれたキリストと共に死に、そして、永遠の命に希望を持つ新しい自分が、復活されたキリストと共に生きるようになるということを、目に見える形で表しているのです。

このように私たちは、イエス様の復活によって、永遠の命に希望を持って生きることができるようになりました。そしてそれは、私たちがこの世を去った後だけでなく、今生きているこの世にあっても、復活の力が注がれて生きるということでもあります。

17~18節「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」

これは、イエス様が復活された後に、弟子たちに与えられた約束の言葉であって、それは私たちに対する約束でもあります。私たちは、イエス様を信じて、その復活の力を与えられてゆくならば、この世の中にあって、その力を証してゆく者となるということです。そのことは、私たちの一人一人が、それぞれの人生の中で経験してゆくことです。ここに書かれている約束が、本当に自分の身に起こるのだろうか、それはどういうことなんだろうか、私も時々悩むことがあります。しかし、私たちクリスチャンの人生とは、神様が常に、私の人生において新しいことを成し遂げて下さるということに希望を持つ人生です。目に見えるところによるのではなく、神様の約束を信じて待ち望む人生です。私の人生に、イエス様が常に復活の力を注いでくださるということ、その力が注がれる時に、私はその力を受けて、イエス様の復活の力を証してゆく者とされます。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、次のように語りました。

「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです(ローマ8:24-25)」

イエス様の復活によって私たちに与えられる復活の命、天にある永遠の命、これを私たちは今、直接目にすることはできません。しかし、目に見えないからこそ、忍耐して待ち望むと、パウロは語りました。私たちは、このような希望を持って、永遠の命を待ち望むことができます。そしてまた、この地上の人生にあっても、復活の力が注がれて、常に神様の恵みを新しく経験してゆくことができる、このことにも希望を持って生きてゆくことができます。

 

私は先日、水戸駅前の三の丸ホテルに宿泊しました。このホテルの前身は、東屋旅館という旅館で、この場所で今からちょうど70年前に、水戸教会の初代牧師である横手元夫先生とガラット宣教師が一泊してお祈りをしたことが、水戸教会の宣教の始まりであると聞いています。このことを聞いて、是非その同じ場所で私もお祈りをしたいとこれまで願って来たのですが、先日そのような機会が与えられたことを神様に感謝しました。その時、お祈りをしながら色々なことを思わされましたが、当時はまだ礼拝堂も建てられておらず、本当に何もない中で、お二人がどのように祈られたのだろうか、ということを思いました。そして、何もない中であっても、これからこの水戸の地で起こされてゆく神様の御業に、希望をもって祈られたのではないかと思わされました。

それから70年が経ち、今はこの元吉田の地に、このようにすばらしい礼拝堂が与えられ、私たちはそれぞれイエス様によって導かれ、今、信仰生活を送っています。しかし、私たちは明日何が起こるか、それはだれにも分かりません。明日の事も一年後の事も、私たちには分かりませんが、それがたとえ目に見えなかったとしても、私たちはその将来に希望を持って生きてゆくように、復活されたイエス様の姿から教えられるのではないでしょうか。私たちの教会にも、また私たちの一人一人の人生にも、神様の立てられたご計画があると信じます。その将来に希望を持って生きてゆくということ、そのためにこそ、イエス様は十字架にかかられ、三日目に復活され、そして、私たちに永遠の命を与えて下さいました。私たちは日々、様々なことで恐れを抱いてしまう者でありますが、そのような時こそ、このイエス様を通して与えられた大きな希望に目を向けて過ごしてゆきたいと思います。