2020年7月12日 礼拝メッセージ全文
テサロニケの信徒への手紙二 1章1~12節
今週から、テサロニケの信徒への手紙二に入ります。皆さんはこの手紙について、どのような印象を持っておられるでしょうか?この手紙は、聖書の中ではそれほど多く取り上げられる箇所ではないと思います。正直なところ私は、この手紙についてあまり前向きな印象を持っていませんでした。この手紙によく出てくる「裁き」というテーマが厳しく思えていたのかもしれません。しかし、改めて読んでみて、この手紙は、今を生きる私たちにとても大切なメッセージを送っているということに気付かされました。先月から読んでいる第一の手紙の中でも語られてきたことですが、テサロニケの教会の人々は、「何が正しいのか分からない」という状況の中に生きていました。色々な間違った教えがはびこっていましたし、厳しい迫害の中で、希望を失いそうになっていました。そのような中で、パウロは、神様は正しく裁きをなさる方であると、テサロニケの人々に伝えました。裁きは、神様の正しさを示すものであると同時に、その神様を信じることによって正しい者とされるということでもあると教えました。現在の私たちも、特に最近、「何が正しいか分からない」という状況を生きていると思います。テレビやインターネットで得られる情報は日々変わり、嘘のニュースも流れ、何を信じて良いのか分からない状況です。そのような中で私たちは、神様の正しさ、を改めて心に留める必要があると思います。社会がどう言おうと、人がどう言おうと、神様の正しさの中を生きるということです。今日の箇所は、イエス様が再びこの地に来られ、その神様の正しさを裁きによって実現して下さる、ということを示しています。
1.裁きは滅ぼすためではなく、救うためにある
裁きに関して、今日の箇所が示していることは、神様の裁きは、人間を滅ぼすためではなく、救うためにあるということです。
5節「これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです」
この5節の一つ前の4節には、テサロニケの人々が、迫害と苦難の中で、信仰を保ち続けたということが書かれています。5節では、そのことが、彼らを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠であった、と言われています。つまり、彼らが迫害や様々な苦難を経験したことは、苦しみの中で信仰を保つことで、彼らが「神の国にふさわしい者」という判定を神様からいただくためであったということです。
裁きとは、このように神様からいただく判定のことを指しています。裁きは、英語ではジャッジメントであり、良いものと悪いものを見分けるという意味があります。そして、良い判定を受けた人々は救いに、悪い判定を受けた人々は滅びに入れられます。
多くの人の疑問に、「神様が愛であるなら、なぜ裁きがあるのか。すべての人を救うのが愛ではないのか」というものがあります。私は以前、ある宣教団体で、ビジネスマンへの伝道に関わっていたことがあるのですが、その時に、クリスチャンではない人々に、キリスト教に関しての疑問を寄せてもらったところ、その疑問の第一位はこれでした。「信じる者だけが救われて、信じない者が裁かれるということは理解できない」そのような声が多く寄せられました。
聖書は、そのような疑問にどのように答えているでしょうか?聖書は、裁きがあることを明確に伝えています。それは、裁きがなければ、救いが完成しないからです。神様は、良いお方であり、私たちを良いものとして造られました。しかし、人間は罪を犯し、悪いものに支配され、悪いものを求めるようになってしまいました。この悪いものを持ったままで、神の国に入ることはできません。もしそれが許されれば、神の国にも悪いものが残ってしまうことになります。それでは、神の国も、この世と同じことになってしまい、救いが完成されません。
神様は、私たち人間を良い者として、ご自分の御国に招こうとしておられます。しかし、人間はだれ一人、自分の力で悪いものを捨て去ることはできません。従ってそのままでは、神様の裁きの前に悪い者だと判定され、滅びに入れられてしまいます。神様はそのような私たち人間を救うために、御子イエス・キリストを遣わして下さいました。イエス様は、神の子であり、完全に良いお方であったのですが、人間と同じものになられ、人間が負うべき罪に対する裁きを、十字架で代わりに負って下さいました。このように、イエス様が十字架で裁きを引き受けて下さったことにより、私たち人間は救いをいただく者とされました。そしてイエス様が再び戻って来られる裁きの時、イエス様を信じるすべての者は、良い者であるという判定を受けて、天の御国に生きる者とされます。このように、裁きを通して、救いが完成されるのです。神様の裁きは、人間を救うために備えられています。
2.裁きによって悪が滅ぼされる
そして、神様の裁きのもう一つの意味は、悪を滅ぼすということです。
8節「主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります」
イエス様は、世を裁く方として再びこの地に来られます。その時には、「燃え盛る火の中」を来られると言われています。この火は、裁きの二つの意味を表しています。一つは、清めるということです。金や銀を精錬するのには火を用います。火によって精錬され、それらはより純粋なものになります。そのように、裁きの火は、神の民を清い者として救いに導く火です。そして、火の持つもう一つの意味は、無駄なものを取り除くということです。これは一つ目の意味の裏返しと言えますが、金属の精錬をする時、火によって、不純物は溶けてなくなります。そのように、裁きの火は滅びに至る者を炙り出すということです。
このことは、本質的には、神に敵対する悪魔であるサタンが滅ぼされるということを意味しています。サタンは、天地創造の時以来、何とか人間を神様のもとから引き離そうとしてきました。「本当に神はいるのか」「本当に神がそう言ったのか」これらはサタンのささやきです。サタンはまた、人となられた神であるイエス・キリストを否定しようとします。サタンは、この世の君とも呼ばれており、富や名声、不思議な力などを用いて、人々をイエス様から引き離し、自分に従わせようとします。これらのことは今日の箇所に続く2章で詳しく語られています。しかし、イエス様が再び来られる時、サタンは完全に滅ぼされます。そして、サタンに従う人々も、滅びの火の中に入れられてしまいます。このことが9節では、「彼らは、主の面前から退けられ、永遠の破滅という刑罰を受ける」と言われています。
このことも、聞き方によってはとても残酷に聞こえると思います。神様は、それらの人々を憐れまれないのだろうか、と。神様は、もちろんそれらの人々の一人一人を愛しておられます。そして、一人も滅びることなく、自らのもとで永遠の命を受けて欲しいと願っておられます。しかし、サタンを滅ぼす以上、そのサタンの支配下にいる人々も滅ぼさざるを得ません。神様の裁きの目的は、すべての苦しみの原因となった悪魔を滅ぼすことです。悪魔が滅ぼされることによって、究極的な平和、神の国が実現されます。
3.裁きによって休息が与えられる
そして最後に、神様の裁きが示すのは、救われる者に与えられる永遠の休息です。
7節「また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです」
テサロニケの人々は、迫害という大変な苦しみの中を生きていました。しかし、その苦しみは決して無駄なものではなく、裁きの日に、その報いとして休息が与えられるということが約束されています。これは私たちに対しても同じことです。目に見える迫害だけでなく、私たちは様々な苦しみの中で生きています。それは、究極的には「神などない」と私たちにささやくサタンとの戦いであると言えます。そのような戦いも、イエス様が戻って来られる時、終わりを告げます。サタンは滅ぼされ、イエス様を信じる私たちは嘆きも悲しみも死もない、永遠の休息を生きる者とされます。それは、この地上の生涯の「報い」として与えられると言われています。ですから、それぞれが神様からいただく休息の内容は異なるのかもしれませんが、はっきりしたことは御国に行くまで知ることはできません。いずれにしても、その人の地上での人生の戦いにふさわしい休息が用意されているということです。このことに望みを置きつつ、私たちは今、この地上で生かされている者です。
このように、神様の裁きとは、私たちを滅びに至らせるためではなく、悪を滅ぼし、永遠の休息という報いにあずからせるために用意された、神様の救いの計画の最終章です。それは、主イエス・キリストが、再びこの地に戻って来られる時にもたらされます。イエス様を信じる全ての人が、この救いにあずかる者とされます。ローマの信徒への手紙3章22節「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」
イエス様の恵みによって、私たちは、何の差別もなく、「正しい者」との判定を受けて、救いにあずかる者とされます。先の見えない不安定なこの世界の中にあって、終わりの日にこの救いが完成されるという確かな希望をもって、日々を歩んでゆきましょう。