2020年8月9日 礼拝メッセージ全文
出エジプト記 1章15節~2章10節
今日の箇所は、先週に引き続き、出エジプト記の1章15節~2章10節です。この箇所を通して教えられることは、神様の御心は、死が支配するこの世の中にあって、命を与えること、命を守ることであるということです。真の神様は、恵みによって、私たちを死から救い出すことがおできになるお方です。
1.子どもの命を守られる神
今日の箇所は、子どもの命が守られたという二つの出来事を伝えています。まず前半部分で伝えられているのは、エジプトで、ヘブライ人の男の子の命が守られたということです。エジプト王は、ヘブライ人の勢力拡大を恐れ、新たに生まれたヘブライ人の男の子を皆殺すように、二人の助産婦に命じました。しかし、この助産婦たちは、王の命令に従わず、子どもたちの命を守る選択をしました。結果、この子どもたちは生かされ、助産婦たちも、子宝に恵まれることになりました。
子どもの命が守られるというのは、一方的な神の恵みです。私たちは、人間の力で命を守ることはできません。命が母親の胎に宿った時から、無事に産まれてくるまで、その命は神様の御手にあります。そして、出産してからも、生まれたばかりの赤ちゃんは自分ではなにもすることができません。
妻と私は、去年の11月に子どもの出産を迎えましたが、難産であったため、最初息子の血糖値が低く、点滴を打たなければならなくなりました。息子は妻とは別室の新生児室で24時間助産師のケアを受けることになりました。その間、息子が退院するまでの1週間、私たちは決められた面会時間の間以外は息子と会うことができず、とても寂しい思いをしました。新生児室を去る時には、すべてを神様にゆだね、担当してくださる助産師の方の手に息子を委ねる他はありませんでした。
今日の箇所でも、エジプトで、産まれたばかりのヘブライ人の子どもたちは何もできない状態でした。母親も、出産直後には何もできないので、出産を助けた助産婦に命があずけられているという状態です。そのような中で、子どもたちの命が守られたのは、命をあずけられた助産婦たちに、神様が働いて下さったということであると思います。
今日の箇所の後半の、モーセの場合も同じように、神様によって命を救われるという経験をしました。ヘブライ人の生まれた男の子をすべて殺せというエジプト王の命令はさらに厳しいものになりましたが、ちょうどその頃、モーセが生まれました。モーセの母は、子どもを守るために3か月の間、モーセを隠しておきました。しかし、3か月経ったとき、もはや隠し切れなくなり、籠にいれてナイル川のほとりに置き去られることになりました。
私も記憶に新しいところですが、3か月目の赤ちゃんというと、まだ首もすわらず、寝返りもなにもできない状態です。授乳間隔も頻繁で、常にお世話が必要な状態です。モーセはそんな状態で、一人籠の中に置き去りにされてしまいました。誰かに見つけてもらえなければ、半日も経たない内に死んでしまっていたことでしょう。
しかし、神様は、ちょうどそこへ、ファラオの王女が水浴びのために来るように導かれました。王女にとって、ヘブライ人の男の子は、自分の父親の目の敵のような存在でした。しかしそれでも、この王女は、自分の見つけた一つの小さな命を見過ごしにすることができず、モーセを救う決断をしました。ここで王女はなぜ、モーセを引き取る決断をしたのでしょうか。
6節「開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、『これは、きっと、ヘブライ人の子です』と言った。」
王女は、小さな赤ちゃんのことを「ふびんに思った」とあります。その子がヘブライ人であることや、自分がエジプト人であることは関係なく、ただ「ふびんに思った」からこそ、王女はモーセを助ける選択をしました。赤ちゃんとは、そのように、存在しているだけで、人から「ふびんに思われる」存在です。赤ちゃんは、ただ泣いているだけで、人から助けてもらえるのです。このようなことは大人ではありえないことです。
モーセの母についても、似たようなことが言えると思います。なぜ母は、王様の命令に背いてまで、子どもを助けようとしたのでしょうか。
2節「彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。」
ある意味当然のことですが、母は「かわいかったのを見て」、子どもを助けようとしました。しかしここで、「かわいかった」と訳されている単語は、原文では「良かった」という一般的な言葉が使われています。それは、見た目の美しさだけではなく、その存在の素晴らしさを表している言葉です。子どもとは、ただその存在ゆえに素晴らしく、守られるべきものであるということが示されています。
今日の箇所は、子どもの命には、そのような神様からの恵みが表されているということを示しています。1章15節からの箇所で、二人の助産婦は「神様を畏れていた」ということが、17節と21節に二度言われています。その意味は、彼女たちが、産まれたばかりの子どもたちの命の中に、神様の恵みを認めていたということです。だから、神様からの賜物である子どもたちの命を取り去るようなことはしなかったということです。モーセの母も、生まれた男の子をすべて殺すようにというファラオの命令を無視し、命の恵みを与えてくださった神を信じ、3か月の間隠しておきました。そしてファラオの王女も、自分の父が目の敵にしていたヘブライ人の子でありながら、神の恵みの注がれた赤ん坊が捨てて置かれるのを「ふびんに思い」、その子を助けました。
これらの出来事は、神様の一方的な恵みによって、子どもたちの命が守られたということを伝えています。
2.御子イエスの命を守られる神
エジプトで子どもたちの命が守られたという出来事は、ただ、子どもたちの命が守られるということだけを伝えているのではありません。それは、神の御子であるイエス様の命が守られるということを指し示しています。
エジプトで重労働を課され、苦しむイスラエルの民を救うために、神様は一人の男の子を誕生させて下さいました。これがモーセです。それは、全ての人間を罪から救うためにお生まれになった、イエス様の誕生の出来事を指し示しています。イエス様も誕生の後、ヘロデ王から命を狙われましたが、神様がその中から救い出して下さいました。マタイによる福音書の中の記事を見てみましょう。
「占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。『起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。』ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった(マタイによる福音書2章13~15節)。」
ヘロデ王は、今日の箇所でエジプト王がヘブライ人を恐れたのと同じように、自分の権力を脅かすメシアの存在を恐れ、殺そうとしました。そしてヘロデ王は、占星術の学者たちがイエス様の居場所を教えずにいなくなってしまったことに怒り、ベツレヘムとその周辺の二歳以下の男の子を皆殺しにしました。正に、モーセの時代にエジプトで起こったのと同じことが起こりました。神様は、このことを夢を通してヨセフにお語りになり、彼らはエジプトに逃れることができました。そのようにして神様は、はるか昔にエジプトでモーセや他のヘブライ人の子どもたちを守って下さったのと同じように、イエス様の命を守ってくださいました。
イエス様はこの時だけでなく、十字架に至るまでずっと、神様に守られました。そして最後に十字架にかかられ、死なれ、墓に葬られました。そして三日目に死から復活されました。これらすべての救いの御業を成し遂げるため、幼子イエス様の命は、どうしても守られなければなりませんでした。今日の箇所で、エジプトでヘブライ人の男の子の命が守られたことも、すべてこのことのためであったと言えます。もしこの男の子たちが守られなければ、イスラエル民族は、途絶えてしまっていたことになります。またもしイスラエル民族が途絶えていたら、当然モーセによる出エジプトの出来事も、ダビデによるイスラエル王国の成立もなかったことになります。すると、ダビデの子孫から生まれるイエス・キリストの誕生も、成立しなかったことになります。このように、今日の箇所で、子どもたちの命が守られたということは、イエス様の命が守られるということにつながっています。
3.私たちの命を守られる神
そして最後に、このことから、私たち自身の救いの事実が示されています。つまり、今日の箇所で守られた子どもたちの命は、私たち自身の命であるということです。
神様は、エジプトで死の危険に直面した子どもたちの命を恵みによって救ってくださったように、イエス様を信じるすべての人を、神様の子どもとし、死から救い出してくださいます。今日の箇所の最後で、水の中から引き上げられたモーセの姿は、そのことを指し示しています。モーセは、防水加工されたパピルスの籠に入れられて、ナイル川の傍の茂みの間に置かれました。この「籠」という言葉は、原語では、創世記6章でノアが作った「箱舟」と同じ言葉です。ノアの箱舟が全世界に押し寄せる洪水から救い出されたように、赤ん坊のモーセが入った籠は、死の危険から救い出されたのです。そのように、私たちのこの命も、イエス様の贖いによって、死が洪水のように支配するこの世の中から引き上げられたのです。私たちがバプテスマを受けるのは、この救いの事実を信じ、自らが水の中から引き上げられた者であるという信仰を表明するためです。パウロは次のように語っています。
「わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです(ローマの信徒への手紙6章4節)」
ここにあるように、私たちはバプテスマによって、イエス様の十字架と復活が自分のためであったという信仰を表明します。イエス様を信じて、水の中から引き上げられた自分は、もう罪と死に支配されない、新しい命であるということを信じ、そのことを体で体験します。今日の箇所から、そのように、私たちの一人一人が、イエス様によって新しい命を与えられた者であるということを知ることができます。
神様は、エジプトにおいて、子どもたちの命を救って下さったように、私たちの一人一人を、生まれたばかりの子どものように、愛しておられ、死から救い出そうとしておられます。神を畏れる二人の助産婦が子どもたちの命を大切に守ったように、また、ファラオの母が自分の息子を「かわいい」と思ったように、そしてファラオの王女がモーセを「ふびんに思った」ように、神様は私たち一人一人の命を大切な新しい命として、救い、守ろうとしておられます。父なる神様はそのために、御子であるイエス様を遣わし、私たちの罪を贖ういけにえとしてささげてくださいました。そのことを信じるすべての人は、イエス様が復活されたように、死に支配されたこの世の中から引き上げられ、新しい復活の命をいただきます。神様は、このように死に打ち勝つ恵みを、神の子どもである私たちにいつも注いでくださっています。私たちも、子どもが親に全面的に信頼し、頼るように、この神様の恵みに依り頼んで、毎日を生きてゆきましょう。