真の平和を与える神

2021年8月15日 礼拝メッセージ全文
エゼキエル書 13章1~16節

エゼキエル書を引き続き読んでいきます。この書物を通して、私たちは、エゼキエルという預言者が、神から与えられた幻について知ることができます。幻というと、私たちの現実から遠く離れた、架空のことのように思えるかもしれません。しかし、この幻とは、先週もご一緒に見たように、神様の示される霊的な現実を見るということです。それは、私たち自身の直面する現実を示し、その現実の中でどう生きるべきかについて、神のメッセージを伝えています。私たちは聖書を通して、そのような神様の幻を見ることができます。

 

1.偽預言者たちの見た「むなしい幻」

今日の箇所が最初に伝えているのは、そのような神の幻ではなく、「むなしい幻」を見ていたイスラエルの預言者たちについて、そして、彼らと同じように「むなしい幻」を追い求めてしまう私たち人間の姿です。

1節「主の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、イスラエルの預言者たちに向かって、預言しなさい。自分の心のままに預言する者たちに向かって預言し、言いなさい。主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。災いだ、何も示されることなく、自分の霊の赴くままに歩む愚かな預言者たちは」

預言者とは、その字が示すとおり、神の言葉を預かる者です。旧約聖書の時代には、神によって選ばれた預言者たちに、神の御言葉が直接啓示されました。しかし、イスラエルの中で預言者と呼ばれる人々の中には、「自分の心のままに」預言をする者がいたということです。神から示された御言葉ではなく、自分の語りたいことを語って、それを神からの預言としていた人々がいたということです。

これは、私たちにとっても無関係なことではありません。私たちには、聖霊によって編纂された神の言葉である聖書が与えられています。ところが、時として、その言葉は分かりづらかったり、現在の私たちには受け入れ難いものであったりします。その時、自分で都合の良い解釈をしたり、自分の耳に心地よい箇所だけを受け入れたりしたいという誘惑が常に存在しています。そのような誘惑から、あらゆる異端が生まれました。

エゼキエルの時代にも、そのような誘惑に負けた預言者たちが、神の言葉ではなく、「自分の心のままに」語りました。今日の箇所はそれを「むなしい幻」と記しています。「むなしい」とは、「中身がない」「嘘の」という意味です。つまり、人間が創り出した偽りの幻ということです。その幻の内容とは、どのようなものだったでしょうか?

10節「平和がないのに、彼らが『平和だ』と言ってわたしの民を惑わすのは、壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ」

イスラエルの預言者たちが見た「むなしい幻」とは、平和に関するものでした。彼らは、実際には平和がないのに、あたかも平和があるかのように語りました。

当時イスラエルは、敵国であるバビロンに支配され、多くの人々はバビロンに捕囚として移住させられていました。エゼキエルも、そのような捕囚の民の中の一人でした。しかし、イスラエルの民の中には、そのような敵の支配はまもなく終わり、再び平和な時代がやって来ると預言する預言者たちがいました。

彼らがどのような預言をしたかについては、エゼキエルと同じ時代に、エルサレムに残って預言者として語り続けたエレミヤによる、エレミヤ書に多くの記載があります。

エレミヤ書28章1~4節「その同じ年、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年の五月に、主の神殿において、ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤが、祭司とすべての民の前でわたしに言った。『イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く。二年のうちに、わたしはバビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる。また、バビロンへ連行されたユダの王、ヨヤキムの子エコンヤおよびバビロンへ行ったユダの捕囚の民をすべて、わたしはこの場所へ連れ帰る、と主は言われる。なぜなら、わたしがバビロンの王の軛を打ち砕くからである』」

このハナンヤという預言者は、エレミヤに対抗して、イスラエルの民の平和を預言しました。彼は、「二年の内に、バビロンの支配は終り、イスラエルに平和がやって来る」と語りました。しかし、それに対して、エレミヤは、「ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ(エレミヤ28:15)」と言いました。

ハナンヤの告げた平和の約束は、神様から与えられたものではありませんでした。それは彼が、人々を安心させるために創り出した偽りだとエレミヤは指摘しました。しかし、これはハナンヤだけの問題ではありませんでした。この時代、同じように、人々を安心させようと、偽りの平和の幻を語る預言者たちがたくさんいました。今日の箇所でエゼキエルに与えられた神の幻は、そのような偽りの幻を語る預言者の姿と、またそれを求めてしまう人々の姿でした。

そのように偽りの幻を創り上げることについて、10節は「壁に漆喰を上塗りするようなものだ」と伝えています。漆喰とは、壁に塗ることによって防水性や防火性を高めることのできる塗料で、世界中で用いられてきました。しかし、壁自体が壊れていたり、土台がしっかりと建てられていたりしなければ、どんなに厚く漆喰を塗っても、災害に耐えることはできません。その場合、漆喰はその場しのぎの意味しかありません。

「漆喰を上塗りする」とは、そのように、外側を取り繕い、内側の崩壊をごまかそうとすることを表しています。それは、平和がないのに、あたかも平和があるかのように語り、振る舞ってしまう人間の姿です。もし、そのように偽りを重ねてゆくなら、神様は、災いを通してその偽りを明るみに出されます。

14節「お前たちが漆喰を塗った壁をわたしは破壊し、地面に打ちつけて、その基礎をむき出しにする。それが崩れ落ちるとき、お前たちもその中で滅びる。そのとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる」

神様は、漆喰を塗った壁を破壊し、その基礎をむき出しにすると言われています。それは、偽りの幻によって隠されていた内側の崩壊が明らかにされるということです。その時が来てしまったら、もはや人間には何もなす術がありません。神様は、憤りと怒りをもって、「怒り狂って」、すべてを破壊し、そこにいる人々は滅んでゆく他ありません。

 

2.真の平和へ導く神の幻

しかし神様は、私たちの内の誰一人、滅ぶことを望んでおられません。これは世界の初めから現在まで変わることがありません。神様は、人間を滅びから救い出すために、繰り返し預言者たちを通して神の言葉を語られました。そして、今の時代にはこの聖書を通して語っておられます。それは、私たち人間が、むなしい偽りの幻によってではなく、神の幻によって、真の平和へと導かれるためでした。

預言者であるエゼキエルやエレミヤは、そのような神の幻を伝える器として用いられました。彼らが神の幻を通して示されたこと、それは、「平和がない」という現実でした。

偽預言者たちが平和を預言したのに対して、彼らは、災いを預言しました。それは、イスラエルの民がバビロンに捕囚として連れて行かれ、その後、エルサレムの神殿も焼き払われてしまうという、イスラエルの民にとっては、受け入れ難い災いの預言でした。しかし、彼らの預言の本質は、災いが来る事を伝えることにあるのではありませんでした。彼らは、災いが来るから、イスラエルに平和がないと言ったのではありません。むしろ、災いの起こる前から、既に平和はなかったのだということを伝えました。彼らの言う平和とは、外見上の平和のことではなく、真の平和、主なる神様との間に平和を得るということだったのです。

私たちを含めた全ての人間にとって、神様との間に平和を得ていなければ、外見上はどんなに平和であっても、そこに真の平和はありません。神様はそのことを知らせるために、バビロン捕囚という災いを与えられました。それは、この災いを通して、彼らが神に立ち帰り、真の平和を求めるようになるためでした。

「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである(エレミヤ29:11)」

エレミヤは、バビロン捕囚は七十年もの間続くと預言しました。しかし、それは災いの計画ではなく、平和の計画であると預言しました。神様が私たち人間に立てておられる計画とは、災いによって私たちを苦しめることではなく、むしろその苦しみの中で、私たちが真の平和を与えて下さる唯一の神に立ち帰り、神様との間に平和を得るということでした。

私たちも、現在、コロナウイルス感染という未曾有の大災害を経験しています。この災いがなぜ起こったのか、そしていつまで続くのか、それは神様のみがご存じです。このような苦しみの中で、私たちは、自分がいかに目に見えるものに頼っていたか、神ではないもので心を満たそうとしていたかを、示されているのではないでしょうか。しかし、私たちは神との間に平和を得ているなら、目にみえる環境がどのように変わろうとも、揺らがされることはありません。神様だけが、そのような真の平和を与えて下さいます。

 

3.破れ口に上られた主

では、神様との間の平和とは、どのように与えられるものでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架を通して与えられます。私たちは、そのことを今日の箇所を通してもう一度思い返すことができます。

5節「お前たちは、主の日の戦いに耐えるために、城壁の破れ口に上ろうとせず、イスラエルの家を守る石垣を築こうともしない」

エゼキエルの幻は、偽預言者の語る平和は偽りであり、壁に漆喰を上塗りするようなものだと伝えました。では、現実はどうかというと、この箇所にあるように、城壁に破れ口が空いている状態であるということです。城壁は、町を取り囲み、敵の攻撃から人々を守るためのものです。しかし、その城壁のそこかしこに破れた箇所があり、意味をなしていない状態であるということです。それは、罪を犯し、神との間に平和を得ていない人々が、主の日の神の裁きから自分たちの身を守ることができない様子を示しています。誰かがこの破れ口に上り、神と人との間に立って執り成さなければ、全ての人は滅びてしまいます。主はそのような人を地上に求めたが、見いだすことができなかった、とエゼキエルは後の幻の中で語ります(22章30節)。それができるのは、神の子として来られた、イエス・キリストただお一人です。イエス様は、十字架にかかり、すべての人間の罪を背負って死んで下さいました。それは、私たちの前に開いた破れ口にイエス様が立たれ、私たちの犯した罪のために本来受けなければならない神の裁きを、主が代わりに受けて下さったということです。私たちは、そのことを信じるときに初めて、神様から真の平和を与えられます。

 

主の御言葉は、偽りの平和を取り去り、むしろ、あらゆるところに破れ口が存在しているという現実に私たちの目を開かせます。その時に、見ないふりをしたり、ごまかしたりするのでなく、その破れた状態を神にさらけ出し、祈るようにと、エゼキエルの幻は私たちを招いています。私たちはどこに破れ口を見い出すのでしょうか。それは、この国の中に、でしょうか?エゼキエルが預言したように、神の民の中に、この時代の教会の中に、でしょうか?それとも、まず自分自身の中に、でしょうか?

主は私たちの、そしてこの世界のありのままの状態をご存じであり、それを主にゆだねて祈るとき、イエス様の十字架を通して、真の平和を与えてくださいます。