2020年7月26日 礼拝メッセージ全文
テサロニケの信徒への手紙 3章1~18節
7月最後の礼拝をおささげします。本来なら、今頃は東京オリンピックが始まっているはずでした。しかし、新型コロナウイルスの影響で、今年のオリンピックは行えず、1年間延期されることになりました。来年の今頃がどうなっているのか、それは神様の他には誰も分かりません。私たちは明日がどうなっているのかさえも、知ることはできません。そのように、将来のことは分からないものです。だからこそ、与えられた今日という一日を大切に、主なる神様を見上げて生きるということが大切です。今日の聖書箇所は、世の終わり・主の再臨といった将来の約束について語ってきたテサロニケの信徒への手紙一・二の最後にあって、私たちがそのように「今」という時に目を向けて、主に従うように招いています。使徒パウロは、今という時をどのように過ごすべきかについて、二つのことを語っています。
1.祈り
今日の箇所から、パウロがテサロニケの信徒に、また私たちに勧めている一つ目のことは、祈ることです。
1節「終わりに、兄弟たち、わたしたちのために祈ってください」
パウロも、テサロニケの信徒たちも、厳しい迫害を受け、大きな苦しみの中にありました。そのような中でまず必要なことは、祈ること、そして互いに祈り合うことです。パウロは、指導者の立場にありましたが、それでも自分が祈りなくしては支えられないということを知っていました。私たちも、すべての人が、例外なく、祈りを必要としています。特に、この世の暗闇が深くなればなるほど、私たちは祈りを必要とします。
今の世の中、祈り、という言葉は良く耳にします。私たちクリスチャン同士もよく、お祈りしています、と言ったり、また、クリスチャンでない人も、ご健康をお祈りします、などとよくメールに書いたりします。
もしかしたら、私たちは、「祈り」を挨拶のように使ってしまっていないでしょうか?
しかし、私たちの祈りは、単なる言葉の上だけのことではありません。私たちが祈るのは、祈りに力があると信じるからです。
3節「しかし、主は真実な方です。必ずあなたがたを強め、悪い者から守ってくださいます」
ここで「主は真実な方」と言われています。これは、原文を直訳すると、「忠実な方」となります。2節にあるように、すべての人に信仰があるわけではありません。しかし、たとえ私たちが忠実でなくても、主は忠実なお方であり、私たちを決して見捨てられません。そして、主は「悪い者」から私たちを守って下さいます。
この「悪い者」は、直接的には2節の「道に外れた悪人ども」を指すと思われます。パウロは、多くの人々から迫害を受け、苦しめられていました。しかし、そのような目に見えて苦しみを与える者の背後に働いている悪魔であるサタンにパウロは目を向けていました。
サタンは、あらゆる出来事を通して、私たちを誘惑し、傷つけ、滅びに至らせようとします。しかし、私たちがイエス様の御名によって祈るとき、主は、そのようなすべての悪から、私たちを救い出して下さいます。主の祈りでも、私たちは、イエス様が教えられたとおりに、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え」と祈ります。イエス様は、祈る人を、あらゆる悪から救い出して下さり、また、私たちが執り成し祈るその人をも、悪から救い出して下さいます。暗闇の支配するこの世界にあって、そのような期待をもって祈り続けることを、主は望んでおられます。
2.実行する
今日の箇所で、パウロが勧めているもう一つのことは、御言葉を実行するということです。
4節「そして、わたしたちが命令することを、あなたがたは現に実行しており、また、これからもきっと実行してくれることと、主によって確信しています」
パウロは、自分の伝えたことを、テサロニケの人々が現に実行していることを喜んでいます。そのように、主は私たちが御言葉を聞くだけでなく、それを実行することを望んでおられます。それは、日々の生活の中で、主に聞き従い、御心を実践していくということです。
そのことについて、パウロは6節以降で特に、働くということ、を通して語っています。パウロの職業は、テント造りであったと言われています。パウロは、その仕事を通して生活費を得て、各地を旅して、宣教活動を行うことができました。8節にあるように、パウロは「だれからもパンをもらわず」、人々に負担をかけないように、夜も昼も働きました。それは、テサロニケの人々に模範を示すためであったと言っています。
それに対して、テサロニケの人々の中には、パウロたちの教えを間違って捉え、世の終わりが近いのだから、もはや働く必要はないとし、自分勝手に生きている人たちがいたようです。
11節「ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです」
今日の箇所で繰り返されている「怠惰」という言葉は、原文では「規則に従わないこと」「好き勝手にすること」という言葉でした。つまり、御言葉を無視して、自分勝手に生きる者ということです。それは特に、仕事をしない、という彼らの生活に現わされていました。そのような彼らに対してパウロは12節でこう語りました。
「そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。」
パウロは、「主イエス・キリストに結ばれた者として」、彼らに命じ、勧めていると言います。これと似た表現が6節にも使われています。「わたしたちの主イエス・キリストの名によって命じます。」これらは、パウロがただ人間的な思いから語っているのではなく、主の御心がそこにあるということを示しています。彼らが怠惰な生活をやめ、自分の働きをすることは、主の御心であったということです。
働くということは、一見、信仰とはあまり関係ない事のように思えます。当時のテサロニケの人々も、主を待ち望み、祈り礼拝だけしていればよいとし、働くことをやめてしまったようです。しかし聖書は、働くことと信仰を切り離すことをせず、むしろ働くことは信仰者の神様への応答の一部であるとしています。
「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい(コロサイ3:23)」
仕事をすることは、それがどんなことであったとしても、人に対してするのではなく、神様に対してする奉仕であるということです。
私自身の経験を少しお話ししますと、私は会社員の時にイエス様を信じてバプテスマを受け、その後献身して神学校に行き、副牧師として教会に仕え始めましたが、その時、色々な仕事を経験する機会をいただきました。スーパーの鮮魚コーナー、塾の講師、物流倉庫での軽作業、出版会社の事務など、色々やりました。それらの中には、肉体的に大変な仕事もあれば、単調なことの繰り返しで退屈に感じてしまうこともありました。仕事には色々なものがありましたが、一つ共通していたことは、仕事をしていると、自分の弱さやいやな部分が見えてくるということでした。仕事を通して、自分の忍耐の無さや、人を赦せない気持ちなどが明らかになってきました。そのような中でこそ、とても祈らされました。自分のため、そして共に働く人々のため、祈りました。そして、今自分がこの場所に置かれているのは、神様のためなのだということが、少しずつ分かるようになりました。
そしてもちろんこのようなことは、生活を支えるためにする働きに限られたことでなく、私たちの生活の全ての営みにあてはまることです。
13節「そして、兄弟たち、あなたがたはたゆまず善いことをしなさい」
私たちが、日常生活の中で、絶えず、主を認め、御心を実行するということを、主は望んでおられます。しかし、私たちは元々そのようなことができる者ではありません。それだからこそ、私たちは祈ります。そして祈ると、神様から新しい働きが与えられます。その働きを実行する中で、また新しい祈りが与えられます。そのように、祈ることと実行することは、二つの別のことではなく、一つのことを言っています。
主は、私たちが毎日の生活の中で、主に祈りつつ、聞いた御言葉を実行してゆくことを望んでおられます。そのように生きることが、真の意味で、イエス様を待ち望んで生きることであるからです。パウロは、イエス様の再臨を待ち望むテサロニケの教会の人々にこの手紙を書いて、今という時を、落ち着いて、主のために生きるように励ましました。その言葉は今、私たちのもとにも及んでいます。私たちには、将来のことは分かりません。一年後はおろか、明日のことさえ、分かりません。しかし、分かっていることは、イエス様が世の終わりに再び来られて、イエス様を信じる全ての人に、この地上の人生の歩みに応じて報いを与えて下さるということです。私たちはその日を待ち望みながら、与えられた毎日の中で、主に祈り、主の御言葉を実行してゆきます。