空しさの先にある希望

 

2020年10月4日 礼拝メッセージ全文

コヘレトの言葉 1章1~18節

 

今週から旧約聖書のコヘレトの言葉を読んでいきます。「コヘレト」とは、ヘブライ語で伝道者、説教者という意味です。このコヘレトとは、1節で「エルサレムの王、ダビデの子」とも呼ばれていることから、ソロモンのことであるというのが伝統的な理解ですが、最近では別の人物を指すのではないか、という説もあります。いずれにしても、コヘレトの語る言葉は、ソロモンの送った人生と良く合致していると思います。

1章2節には、このようにあります。

「コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。」

 

この箇所だけで、「空しい」という言葉が3回繰り返されています。そして、コヘレトの言葉全体の1章から12章までを数えると、この言葉は33箇所に使われています。「空しさ」と訳されている原文の単語の元々の意味は、「息」や「そよ風」というものです。そこから、すぐに消えてしまうもの、実体のないもの、空しさという意味で使われるようになりました。そのように、人の一生は、そしてこの世界は、吹いたら消えてしまうような空しいものであると、コヘレトの言葉は伝えています。それは、どのような意味においてでしょうか。そして、人生が空しいとするなら、私たちは何のために生きるのでしょうか。

 

1.労苦の空しさ

3節では、次のように言われています。

「太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう。」

 

「太陽の下、人は労苦する」と言われています。これは、古今東西を問わず、いつの時代も、どの社会でも、人間は労苦してきた、ということです。労苦とは、生活のために行う仕事のことだけでなく、私たちが経験する様々な苦労のことも指しています。人間社会はそのような労苦であふれています。しかし、「すべての労苦も何になろう。」人間がどれだけ労苦をしても、その結果は永遠に残るものではありません。どれだけ優れた仕事をした、どれだけ苦労した、と言っても、そのことを知らない次の世代が生まれ、そしてまたその次の世代が生まれてゆきます。そのことを指して、4節では、「永遠に耐えるのは大地」だけである、と言われています。私たちの存在も、私たちの労苦も、いずれは忘れ去られ、最終的に残るのは、地だけであるということです。

5~7節は、そのことを具体的なイメージを通して語っています。

「日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き、風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることなく、どの川も、繰り返しその道程を流れる。」

 

今日という日に何が起ころうとも、日は昇り、そして沈んでゆきます。そしてそれが、世界が滅びるまで、繰り返されてゆきます。風というものも、南に吹き、次は北に吹き、その後には何も残りません。風はただ、四方八方に吹き続けるということを繰り返します。また、川の流れも、同じように巡り続けます。川の水は海に流れますが、いずれ蒸発し、雲となり、雨となり、また、川の水になって、海へと流れてゆきます。同じことの繰り返しが、延々と続いてゆきます。

そのようにこれらの言葉は、人間の営みは、結局同じことの繰り返しであるということを伝えています。人間がどんなに労苦をしても、新しいものを生み出すことはできないということです。人間の行うことは、既に存在しているものの形を変えることだけで、無から有を造り出すことは人間にはできません。それができるのは、唯、神様だけです。その意味で、人間の行うあらゆる労苦は、空しいものであるということです。

 

2.知恵の空しさ

次に、コヘレトは、人間の知恵がいかに空しいかを伝えています。

「わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった(14節)。」

 

コヘレトは、イスラエルの王として、権力を用いて、財力を用いて、様々なことを調べることができたのだと思います。実際、ソロモン王は、当時の世界中の王の中で最も大きな富を築いた王でした。そしてそれだけでなく、ソロモンの知恵は、世界中の人々がその名声を訪ねてやって来るほど、豊かで広いものでした。しかし、そのような富や知恵をもってしても、人間の知ることのできることは限られていました。そしてコヘレトは、すべてを見極めた結果、「見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった」と伝えています。

そのように、人間には完全な知恵が与えられるということはありません。どんなに優秀な人であっても、どんなに努力をしても、そこには人間の限界が存在します。15節では、「ゆがみは直らず、欠けていれば、数えられない」と言われています。これは、何を指して言っているのでしょうか。それは一つには、どんなに優れた知恵であっても、神様から見れば、ゆがんだものであり、欠けているものである、ということです。私たちが神様について知るための知恵についても、同じことが言えます。神様は、人間に御言葉を与えられました。しかし、人間はそれを完全には理解することができません。新約聖書の中で、使徒パウロは次のように伝えています。

「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる(コリントの信徒への手紙 一13:12)。」

 

人間が生きている内に神様について知ることのできるのは一部分であり、完全に神様を知るのは、天の御国で直接、神様とお会いした時であるということです。

そして、今日の箇所に戻ると、知恵について18節で次のように言われています。

「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す。」

 

色々なことが分かったり、気づけたりすればするほど、むしろ心の悩みや痛みが増し加わっていくということです。私自身は、このことを、神学校での学びを通して経験したと思います。神学校に行く前は、神学校に行けば、聖書や神様のことがもっと分かるようになる、と思っていました。しかし実際には、学べば学ぶほど、神様の言葉は人間には分からないものである、ということを感じました。確かに、色々な歴史や、色々な聖書解釈を知ることができます。しかし、そのどれも、完全に神様の真理を明らかにするものではありません。そして聖書を学べば学ぶほど、自分自身の愚かさ、罪が明らかになってゆきました。それは、神様の前に、自分の知恵、人間の知恵は空しいということを知る機会であったと思います。そのように、コヘレトの言葉も、人間の知恵の有限性、そして空しさを伝えています。

 

3.快楽の空しさ

そして、労苦や知恵の空しさを思い知ったコヘレトは、今度は快楽に人生の意味を見出そうとします。このことは2章に書かれています。

「わたしはこうつぶやいた。『快楽を追ってみよう。愉悦に浸ってみよう。』見よ、それすらも空しかった(2章1節)。」

 

コヘレトは、素晴らしい屋敷に住み、毎晩のように宴会を行い、多くの女性を妻としました。そのような快楽を求める生活を送ってもなお、彼の心から空しさは去りませんでした。どのような快楽も、それは一時的な喜びであって、永遠に残る喜びを人に与えることはできません。ところが、快楽を与えるものは、とても魅力的に見えます。だからこそ、それが一瞬の内に消えてゆくのを見る時に、人は、空しさを感じます。

 

コヘレトの言葉は、快楽とは、人生の目的ではなく、地上で生きる人間に神様から賜物として与えられているものであるということを伝えています。

「人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは、神の手からいただくもの(2章24節)」

「実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか(2章25節  新改訳2017)」

 

あらゆる快楽、人生の楽しみは、神様から与えられるものであって、神様を知ることなしには、どんなに快楽を得ても、空しさしか残らないものだということを、コヘレトは自分の体験から語っています。

 

4.空しさの先にある希望

労苦、知恵、快楽。人間が求めるこれらのものは、永遠に続くものではありません。吹いたら消えてしまう息のように、空しいものです。それだからこそ、これらのものに人生の意味や価値を見出そうとするなら、人間は必ず失望します。そしてそれは、神様を知らない人々ばかりではありません。神様を信じるクリスチャンも、目に見える自分の働き、自分の知恵、心の喜びを、信仰生活の目的とするなら、いつか失望することになってしまいます。どんな働きも、知恵も、喜びも、不完全なものであり、永遠に残るものではないからです。すべての人間の営みは、この地上にある限り、一時的なもの、空しいものであるということを、コヘレトの言葉は伝えています。しかし私たちは、その空しさを本当の意味で受け入れるとき、失望ではなく、神様からの希望をいただくものとされます。それは、主イエス・キリストを通して与えられる希望です。

 

パウロは、自らが牢獄に捕らえられている時に、フィリピの信徒への手紙を書きました。それは、最も絶望的な状況と言える牢の中で書かれた、希望に満ちた手紙です。

 

「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています(フィリピの信徒への手紙3章8節)」

 

パウロは、優れた教育を受け、熱心なユダヤ教の信仰を持っていました。しかし、イエス様と出会った時に、それらの全てを捨て、ただイエス様に従う者となりました。その過去のすべてを彼は、「塵あくた」のように空しいものと見なしていると言いました。それは、自分の空しさを全て背負われて、十字架にかかられ、復活されたイエス様を知ったためでした。パウロは更に次のように語っています。

「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです(3章13~14節)」

 

今のこの人生がどのような空しさ、絶望的な状況に覆われていようとも、イエス様を通して与えられる希望、天の御国において賞が与えられるという希望を持って、パウロは生き、福音を語りました。私たちも同じように、今の時を生きています。目に見えるところのものは、希望よりも、空しさを示すものの方が多いかもしれません。しかしその空しさは、コヘレトの時代から変わることなく、私たちがむしろ神様を求めるようになるために与えられています。空しさの中にある人間を贖い、救い出すために、イエス様はこの世に来られ、十字架で命を捨てられ、三日目に復活されました。そしてそのことを信じる私たちの一人一人に、永遠の命を与えて下さいます。私たちは空しさの先に、このようにイエス様から与えられる希望を見据えて、生きることができる者です。