立て、行こう

2021年3月21日 礼拝メッセージ全文

マタイによる福音書26章36~46節

 

イエス様の十字架を覚える受難節を迎えています。この時期、イエス様が私たちに望んでおられることは何でしょうか?イエス様は、私たちがただイエス様の十字架を覚えることだけでなく、共に十字架の道を歩んで欲しいと願っておられます。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る(マタイ16:24-25)」

この御言葉が示すように、十字架の道は、死に至る道ではなく、命に至る道です。イエス様が十字架で死なれて、その後復活されたように、私たちが、自分の十字架を背負うとは、古い自分に死ぬことです。死を通ることで初めて、キリストにある新しい命を得ることができます。

今日の箇所は、そのような命を与える十字架に向かわれたイエス様が、十字架の出来事の直前に弟子たちに言われた言葉です。

 

1.イエス様の悲しみ

今日の箇所がまず伝えているのは、激しく悲しまれるイエス様の姿です。

イエス様は、十字架にかかられる前、ゲッセマネという場所に3人の弟子たちと一緒に行き、そこで祈られました。その時、イエス様は悲しみもだえられて、弟子たちに次のように言われました。

38節「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」

イエス様は、ご自分が捕らえられ、十字架にかけられることを知っておられました。そしてそれが、神のご計画によるのだということも知っていました。しかしそれでも、イエス様は、十字架にかかられることを悲しみました。そして、その悲しみを、包み隠さずに、弟子たちに伝えました。「わたしは、死ぬばかりに悲しい」と。これほどストレートに、悲しみの言葉を伝えることのできる人は少ないと思います。ましてや指導者と言われる人で、このように素直に自分の悲しみを認めて、それを人々に伝えることのできる人はほとんどいません。そして何より、イエス様は神様です。全能の神様であるお方が、人間と共に悲しんでおられる。ここに私たちは、究極のへりくだりを見ることができます。

39節「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに』」

イエス様は、杯、すなわち、これから経験する十字架の苦しみを、過ぎ去らせて下さいとまで言われています。それは、十字架というもののもたらす悲しみがいかに深いものであったかを物語っています。イエス様は、神の御子でありながら、父なる神様から見捨てられ、十字架の上でたった一人死んでいかなければなりませんでした。また、大勢の弟子がイエス様に従っていたにも関わらず、皆、逃げていってしまいました。その深い悲しみのすべてを、私たちはすべて知ることはできません。もしそれができれば、イエス様が十字架にかかられることはなかっただろうと思います。しかし、それでもイエス様は、ご自分の悲しみを私たちと分かち合おうとしておられます。

 

2.弟子たちの無力さ

今日の箇所は、そのように悲しむイエス様とは全く対照的な弟子たちの姿を記しています。それは、イエス様が必死に祈っているそばで、眠ってしまったという姿です。

40節「それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。『あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか』」

イエス様は、弟子たちから少し離れたところでお祈りをされていました。恐らくは、弟子たちの目の届く距離におられたのだと思います。イエス様はひざまずいて、そして、ルカによる福音書によれば、血のような汗を流して祈られたということです。弟子たちの目にそのようなイエス様の姿が全く映らなかったとは思えません。しかし、それにもかかわらず、弟子たちは眠ってしまいました。「わずか一時」、たった一時間でも、弟子たちはイエス様を待っていることができませんでした。

私たちはこのような弟子たちの姿を見ると、自分ならそんなことはしない、という風に思ってしまうかもしれません。しかし、このような弟子たちの姿は、そして3回このことが繰り返されたということは、私たちを含めすべての人が、人の力ではイエス様に従うことはできないということを表しています。

眠気というのは不思議なもので、自分の力で抑えることがとても難しいものです。私もよく眠くなります。どちらかというと私は朝型人間なので、疲れた夜は、どう頑張っても起きていられません。なんとか頑張って起きて仕事をしようとするのですが、すぐに眠くなり、そこでなんとか寝ないようにお祈りをするのですが、そのお祈りの最中で寝てしまうこともあります。それくらい眠気というのは強いものです。「睡魔」という言葉があるくらいですから・・・。

それは私たち人間が、神様から力をいただかなければ、イエス様を信じたり、待ち望んだりはできない弱い存在であるということを示しています。

 

3.赦し、立ち上がらせて下さるイエス様の愛

イエス様は、そのような弟子たちにどのような言葉をかけられたでしょうか?

45~46節「それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。『あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た』」

三度、眠ってしまった弟子たちを前に、イエス様はまず、「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる」と言われました。これは、イエス様が、弟子たちのありのままの姿を受け止められたということを示しています。イエス様は、起きていることのできなかった弟子たちを責めることもとがめることもなく、そのような弟子たちの弱さをただ、受け止められました。イエス様は、弱さを抱えた私たちのありのままをいつでも受け止めてくださいます。よく、テレビなどで、お寺で座禅を組んでいる人が寝ていると、和尚さんに後ろから木の板でパーンと叩かれる姿を見たりしますが、イエス様の姿はそのようなものとはまったくの逆であると言えます。

しかしイエス様は、眠っていた弟子たちをそのままにされた訳でもありません。イエス様は続いて、「立て、行こう」と言われました。

この時、弟子たちはどのような気持ちだったでしょうか?弟子たちは、三回、寝ているのをイエス様に見つけられて、さぞ、決まりが悪かったことと思います。また、お祈りを続けられなかったことに、大きな挫折感を感じたでしょう。到底、「立つことなんでできない」「立つ資格なんでない」と思ったかもしれません。しかしイエス様は、そのような弟子たちに対して、「立て」と言われました。これは、「なぜ立てないのか」とプレッシャーをかける言葉ではなく、むしろ「わたしがあなたがたを立たせてあげます」という、愛の呼びかけです。自分には「立てない」ということが分かった人こそ、立つのにふさわしい者とされるということです。「もう立ち上がれない」と思うときに初めて、人は神様の力に頼ろうとします。その人は、神様の力によって、立ち上がることができます。

イエス様は「立て」に続いて「行こう」と言われています。どこに「行こう」と言うのでしょうか?それは、十字架へと進む道です。この時、イエス様を裏切る者、つまりイスカリオテのユダが、イエス様の方へ近づいて来ていました。このユダによってイエス様は売り渡され、捕らえられ、裁判にかけられ、十字架にかけられることになります。その十字架へ向かう道を指して、イエス様は私たちに、「行こう」と言われています。

十字架へ進む道は、イエス様が「死ぬばかりに悲しい」と言われた程に、悲しい道です。十字架には肉体の死があるだけでなく、罪に支配された古い自分の死があります。つまり、十字架を背負うということは、自分の罪と向き合うということなのです。これは大変に辛く、悲しい経験です。それは、イエス様の背負われた悲しみのほんの一部、何千億分の一かもしれません。しかしそれでもイエス様は、ご自分の悲しみを私たちと共にしたいと願っておられます。なぜならその悲しみは、死で終わる悲しみではなく、命へと至る悲しみだからです。イエス様が十字架で死なれた後、復活されて命を受けられたように、私たちも、十字架によって罪に支配された古い自分に死ぬならば、キリストにある新しい命を生きる者となります。

それは私たちが自分の力を捨てる道であると言えます。この箇所で、三度眠ってしまった弟子たちは、私たちの姿を映しています。私たちがどんなに惨めで、情けなく思われても、イエス様は、そのような自分の罪と向き合って従って来る人を、決してひとりきりにはされません。「立って、一緒に行こう」と、私たちを、十字架の死を通り、復活の新しい命へと至らせて下さいます。共に、この道を歩んでゆきましょう。