苦難の中にある励まし

2020年6月21日 礼拝メッセージ全文

テサロニケ信徒への手紙一 3章1~13節

 

今週は、テサロニケの信徒への手紙一の3章からの御言葉です。これまでお話ししてきましたように、このテサロニケの信徒への手紙は、苦難の中にある人々に向けられた手紙でした。そして先週お話ししましたのは、そのような苦難の中で二つのことが起こるということでした。一つは、色々な嘘の教えが広がり、何が本当か分からなくなるということです。そしてもう一つは、人々の間の争いが増え、お互いの間の愛が冷えるということです。このような状況は現代の私たちにもあてはまるものであると思います。そのような混乱と争い、もしくは無関心の中で必要とされているのは、むしろ励まし合うことであるということを、今日の箇所の3章は私たちに伝えています。苦難の中にある時こそ、私たちはお互いの間で励まし合うことがいかに大切かを知る者となります。

 

1.人間は励ましを必要とする

今日の箇所では、パウロがテサロニケの人々を励ますためにテモテを遣わしたということが書かれています。その結果、テサロニケの人々が信仰を守り続けていることが分かり、逆にパウロが励ましを受けたと言われています。そのように、パウロとテサロニケの人々は、互いに励まし合う存在でした。このテサロニケの信徒への手紙一には、「励まし」に関連した言葉が8回出てきます。それほど、彼らの関係の中で、「励まし」が大切であったということです。

1節でパウロは、「もはや我慢できず」と言っています。この表現は、5節にも出てきます。「もはやじっとしていられなくなって」。パウロが心から、苦難の中にいたテサロニケの人々のことを気にかけていたことが分かります。パウロとテサロニケの人々は、それほど長い期間一緒にいた訳ではありませんでした。テサロニケにパウロがいたのは、1か月に満たない短い期間でした。それにも関わらず、パウロはこれほどまでに熱い思いを持って、彼らのために祈り、励ましを与えたいと願いました。そこには、神様から与えられた思いと、愛が働いていました。

私たちにも、神様の導きの中で、互いに励まし合う存在が与えられるものです。それは、神様からの一方的な恵みであって、人の努力で得られるものではありません。私は先日、アメリカの神学校の時の友人と、ZOOMを通して、約4年ぶりに顔と顔を合わせて会話をすることができました。彼らはエクアドルからの留学生夫婦で、現在もアメリカに住んでいますが、私が神学生の時代、夫婦で良く交わりの時を持ち、祈り合ったものでした。なぜ、彼らと仲良くなったのか、はっきり覚えていないのですが、共に外国で暮らす葛藤を分かち合ったり、また、私たちが流産の悲しみを経験した時に、励まし、祈り支えて下さったりしたことを覚えています。そして、日本に帰国してからも、時折メールのやり取りをして、お祈りの課題などを分かち合ってきました。しかし、今回、コロナウイルスの影響で、ZOOMで会話ができるということを知り、彼らと話をすることができました。もし、コロナウイルスのことがなかったら、彼らとZOOMで話すことにはならなかったかもしれません。そのような不思議な導きを覚えつつ、改めて、互いに励まし合うことの大切さを覚えました。

私たちが人と出会う仕方は様々です。しかし、その全ての中に神様は働いておられて、必要な時に必要な出会いを与えて下さいます。そして、苦難の中にある時こそ、私たちが信仰にとどまることができるように、励ましを与える存在に出会わせて下さいます。そして、その関係は、どちらか一方だけが励まされる関係ではなく、お互いに励まし合い、愛し合う関係になってゆきます。パウロとテサロニケの人々も、そのように励まし合い、愛し合う関係を築いてゆきました。そのように、互いに励まし合うことを、主は喜ばれます。

 

2.人を通して与えられる神様の励まし

私たちは、そのように、励ましを必要とする存在ですが、本当に必要な励ましは、人間から出るものではなく、神様から出るものです。今日の箇所で「励まし」と訳されている原文のギリシャ語の単語は、別の箇所では「勧め」と訳されています。神様に向かうように勧めることが励ましの意味であるということです。励ましも、ただ人間同士の言葉による励ましなら、それは一時的なもので終わってしまいます。

2節にあるように、パウロがテモテを遣わした目的は、テサロニケの人々の「信仰を強め」ることでした。苦難の中にあったテサロニケの人々が、信仰に堅く立ち、そこから離れてしまわないように勧めるために、パウロはテモテを遣わしたということです。本当の苦難とは、信仰から離れてしまうことです。5節では「誘惑する者があなたがたを惑わし」とあります。テサロニケの人々の苦難の中には、彼らを神様から離そうと誘惑する者がいたということです。これは、人を通して働くサタンの働きを指し示しています。サタンは、人が信仰から離れるように常に誘惑をしてきます。このサタンの誘惑から引き離し、信仰に立ち帰るように勧めることこそ、パウロやテモテの励ましの内容であり、私たちもまた、苦難の中で、そのような主にある励ましを必要としています。

旧約聖書のヨブ記には、苦難の人ヨブの生涯が記されています。ヨブは大変裕福な人でしたが、彼が神様から離れるように、サタンが彼の全財産と家族を奪い、さらに全身を重い皮膚病にかからせました。そうすれば、ヨブは神様を呪うだろう、とサタンは企んだのです。初め、ヨブはそのような苦難の中でも、神様を賛美し続けますが、次第にヨブの心の内側が表れていきます。なぜ、自分は正しい人間なのに、このような苦しみが襲うのか。なぜ神は答えてくださらないのか。ヨブの心はそのように叫びました。そのヨブのもとに、3人の友人たちがやって来て、ヨブを励まそうとして言葉をかけました。しかし、そこから彼らとヨブの間で30章にも及ぶ議論が生まれてしまい、結果ヨブはますます頑なになってしまいました。

人間の言葉には、サタンの誘惑を退ける力はありません。ヨブが神様のもとに立ち帰るためには、神様の御言葉を、へりくだって受け入れることが必要でした。そのことを教えるために、神様は、エリフというもう一人の人物をヨブのもとに遣わされました。このエリフについては、ヨブ記の32章から36章までに記されています。興味深いことにこのエリフも、今日の箇所に出てくるテモテと同じく、若者であったということです。長年の経験に基づく、熟練したアドバイスではなく、これらの若者の素直な心を、主は御言葉を伝えるために用いられました。エリフの言葉から1節だけ引用します。

ヨブ記35章14節「あなたは神を見ることができないと言うが、あなたの訴えは御前にある。あなたは神を待つべきなのだ」。

苦難の中で、自分も、神も見失っていたヨブに対して、エリフはこのように語り、祈りを聞いて下さる主を待ち望むように勧めました。苦難の中で、本当に助けになるのは、そのように主を指し示す言葉です。テモテも、またパウロも、そのように主の御言葉を宣べ伝える者でした。そしてその御言葉によって、主なる神様からの励ましを人々と共に分かち合うことができました。私たちも、そのように神様の御言葉を通して、共に励まし合うことができ、そのことが今、苦難の時代の中で求められています。

 

3.再び来られるイエス様からの励まし

そして最後に、このテサロニケ3章は、これまでの章と同じく、再び来られるイエス様に対する希望の言葉でしめくくられています。

13節「そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。」

主の御言葉を通しての励ましは、最終的には、イエス様の再臨という希望の約束に向かいます。私たちの生きるこの世界には苦難があります。それは、ヨブの時代から、パウロの時代、また私たちの生きる現代まで、変わることがありません。しかし、聖書が伝えている希望は、その苦難の時代の先には、主イエス・キリストが再び帰って来られて、この主に属するすべての者が引き上げられ、天の御国に永遠に住むようになるということです。その御国においては、この地上にあっては弱く、不完全な者だった私たちが、神の御前で「聖なる、非のうちどころのない者」とされてゆくということが起こります。テサロニケの人々と同じく、私たちも、このような希望を励ましとしていただいているのです。

私たちはこの地上の人生で、あらゆる苦難を経験してゆきますが、そのような中でこそ、イエス様と共に生きるこのような天の御国の希望を励ましとしていただいて、また、その福音を通しての励ましを、一人でも多くの人に伝えていきたいと願うものです。