2021年6月27日 礼拝メッセージ全文
ヨハネの手紙一 5章6~15節
今日の箇所は「証し」ということについて伝えています。私たちは教会の中で、「証し」ということをよく耳にするかもしれません。しかし「証し」という言葉でイメージするものは、人によって異なるかもしれません。ある人は、他の人の信仰体験の「証し」を聞いて、励まされたという経験があるかもしれません。また、私自身も今、このようにメッセージを語らせていただいていますが、これも、イエス様についての一つの「証し」であると言えます。いずれにしても、証しは、私たちが自分のことを伝えるのが目的ではなく、イエス様という方がどういう方で、自分に何をして下さったかということを伝えるためのものです。
1.神の証し
今日の箇所によるなら、証しは、私たちが行うものである以前に、まず神様ご自身がされたものです。神の言葉である聖書は、旧約聖書の初めの創世記から新約聖書の終わりのヨハネの黙示録まで、イエス・キリストが神の子であるということを証ししています。その証しがどのようになされたのかについて、今日の箇所は次のように伝えています。
6~8節「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。証しするのは三者で、“霊”と水と血です。この三者は一致しています」
この箇所は何を伝えているのか、一見分かりづらいところです。しかし、聖書に記されたイエス様についての証しを見るならば、これらが何のことを指しているのかが見えてきます。イエス様は、「水と血を通って来られた方」と言われています。この「水」とは、イエス様が水のバプテスマを受けられたという事実を指し示しています。イエス様は、洗礼者ヨハネから、ヨルダン川でバプテスマを受けられました。その時、神の霊が鳩のようにイエス様の上に降って、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえたと聖書は記しています。そのように、イエス様の受けられた水のバプテスマは、イエス様が神によって遣わされた聖なる御子であるということを証しする出来事でした。
ところが、今日の箇所は、イエス様は「水だけでなく、水と血とによって来られた」と伝えています。この「血」とは、何でしょうか?ここにも、様々な解釈がありますが、水のバプテスマと対比的に捉えるなら、この「血」は、イエス様が血を流された十字架の出来事を指していると言えます。十字架は、最も極悪な犯罪人がかけられる、呪われたものと考えられていました。神の御子である方が、十字架につけられるなんて…と、このことを信じることのできない人が、イエス様を信じた人々の中にもいたらしいということが、ヨハネの書き方から分かります。このように、イエス様の十字架を否定する考えというのは、今日でも根強く残っています。イエス様を、ただの道徳的・倫理的存在のように捉え、自分達はイエス様の言葉や行いから学ぶことで、より善い人生を送ることができるというような考えは、無意識の内にもクリスチャンに影響を与えています。しかし、これはヨハネが手紙の中で書いているように、反キリストの霊による考えです。神の子であるイエス様がこの地上に来られたのは、すべての人間の罪を背負い、十字架で血を流されるためでした。私たちはこのお方を信じるだけで、完全に罪赦され、神の子どもとして天の国に入ることができるのです。
「そして、“霊”はこのことを証しする方です」と言われています。神の霊である聖霊が、ペンテコステの日に天から注がれて、教会が生まれました。それ以来、聖霊は、この地上において、イエス様が神の子であること、また、私たちの罪を十字架で贖われた贖い主であることを、様々な仕方で証しし続けています。聖霊によって編纂された、聖書はその中で最も大切なものです。私たちは聖書の御言葉を通して、イエス様についての真理を知ることができます。
2.私たちの内にある証し
そして、イエス様について神様がなされた証しは、私たちにとっての証しともなってゆきます。
10節「神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています」
ここで、イエス様を信じる人は、「自分の内に証しがある」と言われています。イエス様について神様がなさった証しを信じるとき、それは私たちの内でも証しとなるということです。それはちょうど、人が裁判の中でなされる証言を信じるのに似ています。私たちは、聖書を通して、イエス・キリストについての証言を聞いています。イエス様をまだ信じていなかったころ、私たちは、まるで裁判の傍聴席で聞いているかのように、イエス様についての証言を聞いていたかもしれません。しかし、聖書の証言は、イエス様の救いが、私たち自身の罪のためのものだったということを悟らせます。そして、傍聴席で聞いていたはずの私たちは、いつの間にか証言台に立ち、本当は自分自身が被告として裁かれなければならなかったということ、その身代わりとして、イエス様が十字架にかかり、復活して下さったのだということを、証言する者へと変えられてゆきます。
私たちは、「証し」というと、何か立派な事をしたとか、劇的な体験をしたとか、そのようなことを話さなければならない、と考えるかもしれません。しかし証しは、イエス様についての証しをするということなので、私たち自身の行いや体験に価値があるのではありません。そしてそれはやはり、「水と血を通って来られた方、イエス・キリスト」を証しするものです。私たち自身も、イエス様が受けられたように、水によってバプテスマを受け、新しい命に生きる者とされました。バプテスマを受けクリスチャンとなった私たちは、自らの内にあるたくさんの罪と向き合う経験をします。それらをすべて神の御前に告白するとき、私たちはイエス様の血潮によって清められてゆきます。このように、水と血によるイエス様の証し、すなわちバプテスマと十字架の贖いは、私たちと無関係な出来事ではなく、私たち自身の内なる証しとして、積み重ねられてゆきます。
3.神に対する私たちの確信
このように、ヨハネは今日の箇所を通して、神によってなされたイエス様についての証し、そして、私たち自身の内にあるイエス様についての証しのゆえに、信じる私たちに確信を与えようとして書いています。
13節「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」
私たちはこの世にあっては様々な問題や困難に直面します。信仰が試されるような、試練も経験します。しかし、イエス様を信じる者は、すでに永遠の命を得ています。それは、私たちの命が、十字架で死なれ復活されたイエス様によって、保証されているということです。私たちはこのことを、聖書を通して与えられた神様自身の証しによって、また、私たち自身に与えられた証しによって、確認し続けることができます。
そして続く14~15節では、神様に信頼する私たちの持つ確信について伝えています。
14節「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」
ここで「これが神に対するわたしたちの確信です」と言われている、その「確信」という言葉は、「大胆さ」とも訳される言葉です。私たちは、イエス様の贖いによって罪赦され、神の子どもとされ、永遠の命を保証されているからこそ、確信と大胆さを持って、神に祈ることができる者です。それも「何事でも」願うというのは、本当に大胆な信仰がなければできることではありません。「こんなことをお願いしても神様は聞いて下さらないのではないか」そのように考えて、祈ることを止めてしまうことはないでしょうか。しかし、その願いが神の御心に適っているかどうかを判断するのは、私たちではなく神様ご自身です。私たち自身はあくまでも、神の子どもとして、願うものを何でも神様に祈り求めることができます。神様はその一つ一つの願いを聞き入れて下さいます。
ヨハネによる福音書によれば、イエス様の言葉で最初に記録されたのは、「何を求めているのか」というものでした(1章38節)。イエス様は、従って来た二人の弟子たちに「何を求めているのか」と聞かれ、彼らが「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエス様は「来なさい。そうすれば分かる」と言われました。そのように、イエス様は、私たちがあらゆる願いや祈りをご自分のもとに持ってくるのを待っておられます。そうして祈り求めるとき、イエス様は「来なさい。そうすれば分かる」と語り続けてくださっています。イエス様は、祈り求める私たちに、必ずふさわしい答えを与えてくださいます。私たちの願いや計画を遥かに超えた、神様の御心に適った答えを、ふさわしい時に与えてくださいます。そして、そのように祈りが聞かれたという経験は、私たちの内で証しとなり、それがまた、神に対する私たちの確信となってゆきます。そのような証しのある人生を与えられていることを主に感謝します。