2021年2月14日 礼拝メッセージ全文
マタイによる福音書11章2~19節
「わたしにつまずかない人は幸いである(6節)」
この言葉は、イエス様がヨハネの弟子たちに言われた言葉でした。しかし、この言葉は、彼らだけでなく、イエス様の弟子たち、そして今を生きる私たちにも向けられている言葉です。イエス様がこのように言われたのは、多くの人がイエス様に「つまずく」であろうことを知っておられたからでした。
今日の箇所は、何が人につまずきをもたらすのかについて伝えています。また、そのようなつまずきに溢れているこの世の中で、神様は私たちに何を求めておられるのかを教えています。
1.苦難や迫害がもたらすつまずき
まず、人につまずきをもたらす大きな要因の一つは、この世における苦難や迫害です。今日の箇所で、洗礼者ヨハネは牢に入れられていました。彼がなぜ牢に入れられていたのかというと、当時のガリラヤ地方の領主であったヘロデの反感を買ってしまったからです。ヨハネはヘロデに、兄弟の妻と結婚することは律法で許されていないと言いました。兄弟の妻と結婚していたヘロデはこのことで怒り、ヨハネを牢に入れてしまいました。ヨハネはこのように、いつも御言葉を真直ぐに語り、御言葉に従って生きる人でした。
ヨハネが来たのは、こうして人々の罪を指摘し、悔い改めをもたらすためでした。ところがその結果、彼は迫害され、牢に入れられてしまいました。このヨハネの姿は、ある意味で、御言葉に忠実に生きようとする私たちの姿を表しています。
私たちも、日々の生活の中で神様の御言葉に従おうとするとき、様々な苦難や迫害を経験します。それは先週のマタイ10章の箇所で語られていたとおりです。
10章22節「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」
このようにイエス様は、ご自分を信じる者たちは、この世で人々からの迫害を受けるということを予告されました。ヨハネは、正に、主に従い続けた結果として、投獄という最も厳しい迫害を経験しました。そして最終的には、彼はこの後で牢の中で処刑されてしまいました。しかしそれは、イエス様の救いが世界中の人々に伝えられるために必要なことでした。ヨハネの投獄や殉教は、決して敗北を意味するのではなく、主にあってこの世の力に勝利した証です。たとえ大きな苦難や迫害に遭っても、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」ということ、このことをヨハネの信仰から学ぶことができます。
そのように信仰に堅く立っていたヨハネですが、今日の箇所を見ると、少し後ろ向きにも思える発言があります。
2節「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか」
ヨハネはイエス様がメシアであると知り、イエス様にバプテスマを授けました。しかし、そのようにイエス様を信じたはずのヨハネが、この箇所ではイエス様を疑うような言葉を発しています。その真意ははっきり分かりませんが、少なくとも若干の迷いがそこにあることを見てとれます。イエス様は、ヨハネがつまずいた、とまではおっしゃっていません。しかし、ヨハネが経験したような苦難と迫害は、人につまずきをもたらす強い力であることは確かです。
このヨハネの姿は、彼が指し示していると言われている旧約聖書の預言者、エリヤの姿とも重なります。エリヤも、御言葉に忠実に生き、それによって、当時のイスラエルの王であったアハブとその妻イゼベルから迫害されました。エリヤは信仰の人でしたが、イゼベルが自分の命を狙っていると聞いた瞬間、恐れて、逃げ出しました。
列王記上19章3~4節「それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。『主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。』」
主にすべてを委ねていたエリヤとは思えないような発言です。しかし聖書は、このように絶望した預言者の姿もありのまま、伝えています。それだけ人間は弱い存在であるということです。エリヤやヨハネのような強い信仰を持った人でもつまずきを経験することがあるのですから、私たちはなおさらのことです。しかし主は、そのような弱さを抱えた私たち人間の一人一人を救うために、イエス様を遣わしてくださいました。イエス様は十字架にかかられ、私たちの罪をすべてあがなってくださいました。そして死なれて三日目に、復活されました。私たちはそのように、イエス様の十字架による罪の赦しと復活の力をいただいています。ですから私たちがたとえつまずいても、イエス様は私たちを何度でも起き上がらせてくださいます。神様は、私たちがあらゆる苦難や迫害の中でつまずきそうになる時、イエス様の恵みによって、再び立ち上がるようにと招いておられます。
11節「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」
ヨハネやエリヤは偉大な信仰者でしたが、イエス様の恵みを直接経験することはできませんでした。しかし私たちは、今このように、聖書の御言葉を通して、イエス様の十字架の恵みを経験しています。この恵みによるなら、どれほど小さく弱い存在であっても、偉大な信仰の力にあずかって、つまずきから引き上げられる者とされているのです。
2.人に対する間違った期待がもたらすつまずき
今日の箇所は、もう一つの種類のつまずきがあることを示しています。それは、人に対する間違った期待がもたらすつまずきです。
16~17節「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』」
広場で遊ぶ子どもたちは、それぞれ自由気ままに遊びます。ここで言われている子どもたちは、笛を吹いたり、歌を歌ったりできるのですから、そんなに小さな子どもではないかもしれません。しかし、子どもは普通、空気を読んだり、人に合わせたりすることがあまりできないと思います。その中で、笛を吹いて、宴会の真似事をしている子がいたとしても、それを完全に理解して、一緒に踊ってくれるのを期待するのは難しいことです。同じように、葬式の歌を歌っている子どもが、別の子どもに一緒に悲しんでくれと言っても、それも難しいでしょう。イエス様の言葉は、そのように、人に対して間違った期待をしている人間の姿を教えています。
私たちが人にこうあって欲しいと願う姿は、間違った期待であることが多いということです。なぜなら、エリヤやヨハネがそうであったように、すべての人が弱さを抱えており、完璧な人は存在しないからです。それでも人は、自分の期待に沿った人が現われるのを待ち続けます。ヨハネは、らくだの毛衣を着て、いなごと野の蜜を食べるという質素の極みのような生活をしていました。人々は、そのようなヨハネの姿を見て、「悪霊に取りつかれている」といって拒みました。また、人々は、イエス様が来られて、他の人と同じように食べたり飲んだりしているのを見ると、それも受け入れることができませんでした。イエス様が徴税人や罪人たちと一緒に食事をしているのも、彼らには我慢なりませんでした。彼らが願っていたのは、ユダヤ人をローマ帝国の支配から解放してくれる、立派な指導者のような存在だったからです。
こうしてみると、人に対して間違った期待を持つのは、神様に対して間違った期待を持っているからであると分かります。ヨハネもイエス様も、神様からの御言葉を語りました。しかし、人々はそのいずれも、受け入れませんでした。それは自分にとって都合の良い言葉を、神様に求めていたからです。ヨハネとイエス様が語られた福音は、この二人が初めに語った「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉に集約されています。それは、人間の罪を赦して下さる救い主イエス様の恵みが現われたということです。私たちは誰も、自分の罪や弱さを認めたくありません。だからこそ、人間の罪や弱さを明らかにするような言葉に、私たちはつまずいてしまいます。
けれどもイエス様は、人間の犯したすべての罪を贖うために、十字架にかかられました。ですから、私たちはそのようなイエス様の十字架に、罪や弱さに覆われている自分自身を委ねることができます。そのようにする時、本当の意味でイエス様の恵みを受け取ることができます。私たちはそのような恵みを与えて下さる神様に、計り知れない期待と希望を持っています。そしてそのように神様に対して期待をするなら、他の人に自分の期待を満たしてもらおうという考えはなくなってゆきます。すべての人は、自分と同じように罪ある存在であり、同じようにイエス様の恵みによって赦された存在であることを知るからです。神様は、様々な出来事の中で私たちの人に対する間違った期待が崩れ落ち、つまずきそうになる時、人ではなく神様を見上げるように招いておられます。イエス様だけが、私たちの思いや願いをはるかに超えて、すべてを満たすことがおできになります。この方に希望を持つ人は、決して失望することはありません。
3.つまずかない人の幸い
イエス様は、「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われました。それは、つまずいてしまう私たち人間の姿を知っておられたからです。私たちは、苦難や迫害の中で、神様を疑ったり、人を恐れたりしてしまう者です。また、この世で生きている私たちは、神様にではなく人に期待をしてしまい、それが満たされないと、つまずいてしまう者です。しかし、そのような私たちのために、イエス様が来てくださいました。
「つまずき」という言葉は、聖書の原文では、「スカンダロン」というギリシャ語です。これは、スキャンダルという言葉の語源になりました。日本語では、スキャンダルというと、良くない噂や醜い事件のことを指して使われます。しかしその元々の意味は、「つまずきを与えるもの」という意味でした。イエス様は別の箇所で、「つまずきの石」とも呼ばれています(ローマ9:33)。イエス様ご自身が私たちにつまずきを与えられる。その意味は、イエス様は、この世の価値観に従って生きる人々につまずきを与えられるということでした。イエス様の愛は、私たちの常識や理解をはるかに超えた「スキャンダラスな愛」と呼べるほど、驚くべき恵みであるということです。私たちは、この恵みを受けるに値しないのに、神様から愛されて、赦されて、今ここにいるということです。このような恵みを与えて下さる方につまずかず、すがり続けるとき、この世の何物にも勝る幸いが約束されています。