神の示しに従う

2022年11月6日 礼拝メッセージ全文

ネヘミヤ書2章11節~20節

1.神の示しを吟味する

11~12節「わたしはエルサレムに着き、三日間過ごしてから、夜、わずか数名の者と共に起きて出かけた。だが、エルサレムで何をすべきかについて、神がわたしの心に示されたことは、だれにも知らせなかった。わたしの乗ったもののほか、一頭の動物も引いて行かなかった」

今日の箇所は、ネヘミヤがエルサレムに到着した直後のことを伝えています。ネヘミヤは、エルサレムの城壁を再建するという使命を神様から与えられました。それは、「神がわたしの心に示されたこと」であるという確信がありました。しかし、ネヘミヤはエルサレムに到着した後、すぐに行動することをしませんでした。そこで、三日間過ごした、とあります。この間、彼が何をしていたのかは書かれていませんが、おそらくは旅の疲れをとって休むと同時に、神様に祈って過ごしたことであると思います。実は、このことは、エズラ記に記されているエズラも同じような行動をとったと言われています。エズラも、エルサレムに到着後、三日間休息を取ったと書いてあります(エズラ8:32)。彼らが、大きな働きを始める前に、備える時間を持ったということです。

現代は忙しい時代です。特に、インターネットの普及から、私たちはあらゆる面で、スピードや効率を求められることが多くなりました。クリスチャンや教会も、そのような時代の流れに影響を受けることがあるかもしれません。しかし、聖書が私たちに伝えることは、休むこと、待つことの大切さです。今日の箇所のネヘミヤの姿から示されるのは、私たちは、神様の導きが明確であればあるほど、それを行動に移す前に備える時間を持つことが大切であるということです。

今日の箇所で、ネヘミヤは、エルサレムで三日間を過ごした後に「夜、わずか数名の者と共に起きて出かけた」と言われています。彼は、人目につかない時間にこっそりと、ごく少数の人たちとだけ一緒に出かけました。しかも彼は、自分がしようとしていることを、誰にも知らせなかったということです。それはネヘミヤが、自分に与えられた神様の示しが本当かどうか、吟味しようとしていたことの現れであると言えます。

神様は、私たち一人一人の心に語られます。私たちは、自分の心にあることが、神様から語られたものなのか、それとも自分自身の思いなのかを吟味することが必要です。そのために必要なのは、まず私たち自身が静まって、神様の御声に耳を傾けることです。そして時に、人の声は、その妨げとなってしまうものです。「何かをしよう」「これが御心だろうか」と心に思う時、私たちはすぐ誰かにそのことを相談したくなるものです。しかし、そういう時こそ私たちは、人に相談するよりも先に神様に相談する、ということが大切であるということを、今日の箇所を通して示されます。

ネヘミヤも、エルサレムに着いた時、城壁を再建したいという願いを、人々と分かち合いたいと願ったのではと思います。そして、そのために一緒に祈り、一緒に出かけたいと思ったのではないでしょうか。もちろん、そのように一緒に働くことも必要なことで、それはこの後の箇所で実際にそうなってゆく訳ですけれども、ネヘミヤはその前にまず、一人で城壁の様子を確認し、自分の内側で燃えている心が本物かどうか、神様から出たことかどうか、吟味しようとしたのではないかと思います。私たちも、神様からそれぞれに異なった示し、語りかけを与えられます。その時にはまず、それが本当に神様から出たことかどうかを吟味することが大切であると教えられます。

 

2.神の示しに従って行動する

ネヘミヤは、そのように、城壁の様子を一人でしっかりと見て、神様の御心を吟味した後で、実際に行動を起こしました。

17節「やがてわたしは彼らに言った。『御覧のとおり、わたしたちは不幸の中であえいでいる。エルサレムは荒廃し、城門は焼け落ちたままだ。エルサレムの城壁を建て直そうではないか。そうすれば、もう恥ずかしいことはない』」

彼はそれまで、誰にも城壁を再建したいという考えを話してきませんでした。それはつまり、彼の考えが賛同を得られる保証はなかったということです。もちろん、城壁再建のアイデア自体に反対する人はユダにはいなかったと思います。ただ、彼らの中にも「今じゃないのでは」「本当にできるのか」などの不安の声があったかもしれません。しかし、ネヘミヤは、今、城壁を再建することが神様からの示しであることを確信していました。そこで、色々な不安の声があっても、勇気をもって、人々に自分の考え、神様の示しを分かち合ってゆきました。

私たちも、神様からの示しをいただいて、それを行動に移すべき時があります。その時には、様々な不安や、人々から受け入れられないのではという恐れを感じることもあります。けれどもネヘミヤは、不安や恐れがある中でも、信仰をもって、一歩踏み出してゆきました。その中で、人間による助けではなく、神ご自身からの助けを経験してゆきました。そのことを彼は、「神の御手」と表現しています。

18節「神の御手が恵み深くわたしを守り、王がわたしに言ってくれた言葉を彼らに告げると、彼らは『早速、建築に取りかかろう』と応じ、この良い企てに奮い立った」

ネヘミヤ記は、この「神の御手」という言葉を繰り返し使っています。さらに振り返ると、エズラ記でも、「神の御手」によって助けられたと繰り返し言われています。それは彼らが、人間的に考えればあり得ないことが私の身に起こったということ、神様がそのように私を助けてくださったということを、証言しているということです。ネヘミヤは、ペルシアの王から好意を受け、エルサレム再建を許されたという奇跡を経験しました。本当にそれは、人間的に考えればあり得ないことであり、「神の御手が恵み深くわたしを守り」くださったのだ、とネヘミヤはこの箇所で証ししています。そして、その神様の御手が、自分の上だけでなく、イスラエルの民全体の上にあるのだということを、この箇所でネヘミヤは伝えています。そしてそのことを人々に伝えると、人々は「早速、建築に取りかかろう」と素直に応じたのです。本当に、城壁建設が始められるにあたって、神様の御手が力強く働いていたということを私たちは見ることができます。

私たちを神様の示しに従うように促すのは、人間の説得や損得勘定ではありません。人間的に考えれば到底無理だろうと思われることであっても、神様の御手が私を助けられるということを信じる時に、私たちは一歩踏み出してゆくことができます。それは、自分が神の御手によって支えられているということを経験する時、また、他の人の証しを通して、神様は本当に生きておられるんだということを聞く時であるかもしれません。神の御手が自分を助けられるということを信じる時、私たちは神様の示されるところに従って行動しようという勇気が与えられます。

創世記の中にロトという人物がいます(創世記19章)。彼はソドムという悪に満ちた町から逃げ出すように神様から示されましたが、自分の家族や生活のことを考えて、中々逃げ出せずにいました。その時神様は、二人のみ使いを遣わされ、ロトと家族の手をとらせて、強制的に町の外に連れ出すようにされました。もしかすると、私たちもロトのようであるかもしれません。神様からの示しをいただいても、中々すぐに従うことのできない弱いわたしがいることを思います。しかし神様は、ロトに対してされたように、御手をもって私たちの手をとり、連れ出し、救い出してくださいます。それは、様々な出来事の中に、神様の御手を私たちが見てゆくということです。そのように、神様の御手が自分を支えているということを知る時に、私たちは神様の言葉に従って行動してゆくことができる者とされてゆきます。

 

3.敵の惑わしに勝利する

しかし今日の箇所が最後に伝えていることは、私たちが神様の示しに従ってゆこうとする時、敵からの惑わしを経験するということです。

19節「ところが、ホロニ人サンバラト、アンモン人の僕トビヤ、アラブ人ゲシェムは、それを聞いてわたしたちを嘲笑い、さげすみ、こう言った。『お前たちは何をしようとしているのか。王に反逆しようとしているのか』」

このサンバラト、トビヤという人々は先週の箇所にも出てきた人物で、いつもネヘミヤたちの働きを妨げる存在でした。そして特に今日の箇所では、彼らが人々に対して惑わしを与えていることが分かります。彼らは「お前たちは何をしようとしているのか」と言い、「その工事の先に何があるのか」「そんな工事をしても無駄ではないのか」と惑わしの言葉を吐きました。

私たちも、神様の示された計画に従おうとする時に、同じ様な声を心の内に聞くと思います。しかしそれは私たち自身の声ではなく、私たちを神様から遠ざけようとする敵、サタンの声です。「お前たちは何をしようとしているのか」と、サタンは今でも私たちに対して言います。「神に従うことに何の意味があるのか」「結局あなたの人生は何も変わらないのではないか」、そのような囁きを私たちは聞きます。しかし私たちは、そういう時こそ、ここでネヘミヤが反論したように、祈ることができる者です。

20節「そこでわたしは反論した。『天にいます神御自ら、わたしたちにこの工事を成功させてくださる。その僕であるわたしたちは立ち上がって町を再建する。あなたたちには、エルサレムの中に領分もなければ、それに対する権利も記録もない』」

ネヘミヤはまず、この工事の主体は自分ではなく、「天にいます神」であると言いました。自分の思いで工事を行っているのではなく、神様に任された仕事を自分たちは行っている、そして神様ご自身がかならずこの工事を成功させてくださると言いました。つまり、自分たちは神様の僕であって、神様に示されたことに従っているんだと言っているということです。

サタンは、目に見えるものに私たちの目を向けさせようとします。それに対処する方法は、このときネヘミヤがしたように、「天にいます神」つまり、主とその主の約束に目を向けるということです。この時も、目に見える所では、敵が力をふるっていました。エルサレムは敵国に支配され、城壁は無残に壊されたままでした。しかし、目には見えない神様の領域に目を向けるなら、神様の約束は必ず成就する、エルサレムは永遠に主の民のものであり、敵が今エルサレムの中に持っている領分、権利、記録は、無に等しい、ということを信じてゆくことができました。

私たちも、目に見えるところでは、敵に支配されているかもしれません。様々な困難な、先の見えない状況の中で、神様の希望はどこにあるのかと疑ってしまう時があるかもしれません。しかし、主の目には、私たちの一人一人は神様の子どもであり、そしてイエス様は十字架でサタンに勝利されたということを信じることができます。

ルカによる福音書10章18~19節「わたしはサタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない

聖書が伝えるサタンとは架空の存在ではありません。それは目には見えなくても、人格を持った存在であり、私たちを神様から遠ざけようとします。しかしイエス・キリストは、このサタンの支配から人間を救うために十字架で贖いを遂げられたのです。最近、「サタン」という言葉を、色々な新興宗教がらみの報道で聞くようになりました。しかし、そこで伝えられるのは、いたずらに私たちを恐怖に陥れるための存在であったり、都合の悪いことが起こると「サタン」のせいにするという間違った信仰の在り方であったりします。しかし、聖書の伝えるサタンとは、人間を神の御心から遠ざけるという明確な目的を持っています。サタンは、神の示された道を私たちが行かせないようにするのです。だから、今日の箇所のネヘミヤの経験は、まさしくそのようなサタンとの戦いであったと言うことができます。イスラエルの民は、エルサレムの城壁を建設するという神様の示しを与えられながらも、それに対する惑わし、サタンとの戦いを経験していったということです。

そしてそれは、私たち自身の経験でもあるのです。神様の示された道を進もうとすればするほど、それに対するサタンの惑わしが起こってきます。しかし私たちは恐れることも、惑わされることもありません。なぜならば、私たちには、神様の御言葉があり、その御言葉に立ち返ってゆくならば、サタンの惑わしを退け、神様が私たちに望んでおられる「工事」を、私たちに望んでおられる一つ一つの働きを進めてゆくことができるからです。

今日の箇所は、神様が私たちの一人一人に示しを与えてくださるということを伝えています。私たちはその示しが神様からのものであるということを信じるなら、恐れることなく前進してゆくものでありたいと思います。その時、様々な妨げや惑わしが起こります。しかし、いつも、ネヘミヤがしたように、神様の約束に立ち返って進んでゆくならば、イエス様ご自身が私たちの歩みを助け、勝利を与えてくださいます。主の御名を賛美します。