2020年10月25日 礼拝メッセージ全文
コヘレトの言葉 7章15~22節
今週も、コヘレトの言葉から、主の御言葉を聞いていきたいと思います。今日の箇所の初めに、次のようにあります。
「この空しい人生の日々に、わたしはすべてを見極めた(15節)」
コヘレトの言葉から、私たちは「空しい」という言葉を繰り返し聞いています。しかし、そのように言われるまでもなく、多くの人々は、人生の空しさを感じています。新型コロナウイルスの影響は中々収まることがありません。特に、志村けんさんや岡江久美子さんなど、多くの芸能人の方々が感染され亡くなられたのには、ショックを受けた方が多いと思います。お二人とも、つい最近まで、テレビで見ていたような方々です。そのような身近な存在が、突然亡くなってしまうというのは、本当に恐ろしい病気であると思います。ウイルスの恐ろしい点は、目に見えないところです。私たちがどんなに気を付けて生活していても、感染のリスクを完全に防ぐことはできません。しかし、だからこそ、私たちは感染対策を行いながらも、最後には神様に信頼して、守りを祈る他ないと思います。
15節後半には、次のようにあります。
「善人がその善のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪のゆえに長らえることもある。」
世の中では、色々なことが起こります。立派で誰からも愛される人が、突然亡くなることもあります。その逆に、悪徳で皆から嫌われているような人が、長生きするようなこともあります。それは私たちの目には、「空しい」と見えることです。しかし聖書は、それでもその人生を「生きよ」と、私たちに呼びかけています。
1.賢く生きるということ
それでは、私たちはどのように生きたら良いのでしょうか。今日の箇所は、二つのことを語っています。
まず一つには、賢く生きるということです。これは、知恵を持って生きるということだと言い換えることができます。
「知恵はその持ち主に命を与える(7章12節)」
この知恵とは、私たち人間の得ることのできる知識とか、情報のことではありません。神様から来る知恵のことです。神様からの知恵は、私たちに命を与えることができます。
知恵と言えば、聖書ではソロモンの知恵が有名です。彼に与えられた知恵を良く表した出来事として、一人の遊女の赤ん坊の命を救ったという出来事があります(列王記上3:16-28)。この遊女は、もう一人の遊女と一緒に暮らしていましたが、夜中の間にそのもう一人の遊女が自分の子どもに寄りかかって死なせてしまい、死んだ子供と生きている子どもを取り換えてしまいました。それで遊女が朝起きると、自分の懐にいる子どもが死んでいるのに気づき、しかもそれはもう一人の女の子どもでした。この二人の遊女たちは、二人とも、生きているのが自分の子であると主張し、王であるソロモンのもとに訴え出てきました。ソロモンはその時、どちらが本物の母親であるかを試すため、「生きている子どもを殺して二人に分け与えよ」と命令しました。その結果、本物の母親は、その子を生きたままもう一人の女に与えて下さい、とお願いしました。それでソロモンは、どちらが本物の母親であるかを判断することができました。これは、ソロモン自身の知恵によることではなく、神の知恵によってなされたことだ、と記されています。このように神様の知恵は、何よりも、命を救うための具体的な知恵を人に与えるものです。
「知恵は賢者を力づけて、町にいる十人の権力者よりも強くする(19節)」
この箇所が伝えるように、神様の知恵は、私たちに力を与えます。それは、世の中の権力者の持つ力よりも大きなものである、と言われています。神様を知るということは、個人的な信仰生活の中だけで意味を持つのではありません。それは、ソロモンがそうであったように、人と関わる実際の生活の中で、効果を発揮するものです。
私たちはそのような神様の知恵を、どのようにいただくことができるでしょうか。それは聖書の御言葉を通してです。聖書の言葉をただ知識として読むのではなく、今の自分に向けられたメッセージとして聞く時に、神様は必要な知恵を与えて下さいます。それは、イエス様を通して与えられる神様の知恵であると言えます。
「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています(コロサイの使徒への手紙2章3節)」
聖書は、創世記から黙示録まですべて、イエス様のことを語っています。そのイエス様を通して、私たちは神様の知恵をいただくことができます。そしてその知恵によって、力づけられて、毎日を生きることができます。
2.愚かに生きるということ
しかし、今日の箇所は同時に伝えています。「賢すぎるな(16節)」と。これは、「自分を知恵のあり過ぎる者とするな」とも訳せます。知恵を得ることは素晴らしいことですが、その知恵が自分自身のものであるかのように感じてはならない、ということです。知恵は、神様から与えられるものであって、私たち自身のものではありません。
これは、直前の「善人すぎるな」という言葉とも関連しています。これは、「自分を正し過ぎる者とするな」とも訳することができ、これも、「正しさ」が自分のものであるかのように感じてはならない、ということです。「正しい者は一人もいない」と聖書は教えています。「正しい」のは神様お一人であり、私たちが正しい者な訳ではありません。
神様は自らの知恵によって私たちを賢い者にし、また、御子であるイエス様の贖いによって私たちを正しい者にしてくださいます。しかし、それは一方的な神様からの恵みであって、私たちの業ではありません。けれども、もし私たちが、自分の力で知恵を得ようとするなら、また、自分自身を正しい者にしようとするなら、途端に信仰生活は苦しくなります。聖書を読んでいるし、祈っているのだけれども、苦しい、ということが起こります。命を与え、力を与えるはずの知恵が、私たちの命を削るものになってしまいます。しかし知恵とは、ほんらい、私たちが生きるために、神様が与えられたものです。私たちが生きていく中で、時には、知恵が得られず、どうしてよいか分からないということもあります。しかしたとえそうであっても、分からない中で、前に進んでいく他はありません。そのような時、自らの限界を認めて、ある意味「愚かに」神様の恵みに依り頼んで生きることを、今日の箇所は勧めています。
「善のみ行って罪を犯さないような人間はこの地上にはいない(20節)」
これは、新改訳聖書では「この地上に、正しい人は一人もいない」と訳されています。どんなに知恵を得ても、人間は過ちを犯し、罪を犯す者です。その意味では、正しい人というのはこの地上に一人もいません。だからこそ、「人の言うことをいちいち気にするな(21節)」とも言われています。人間が罪・過ちを犯す者であることは、自分の目にも人の目にも明らかなことです。それゆえに、人から批難されたり、呪われたりするということも起こってきます。しかし、それらの言葉をすべて心に留めるべきではない、とこの箇所は教えています。人からどのような言葉をかけられようとも、私たちは神様の目には罪人であり、また、同時にイエス様の贖いによって罪赦された者です。
3.賢く、愚かに、神様と共に生きる
しかしこれらのことは、私たちが開き直って、愚かに生きてよいということを意味するのではありません。どうせ罪人なのだから、何をしても同じということではありません。また、人から何を言われても、その忠告を無視してよいということでもありません。神様は、人間が知恵を得て、悪から離れ、善を行うこと、すなわち神様に喜ばれる生き方をするように願っておられます。なぜならそれこそが、私たちにとっての本当の幸せをもたらすからです。神様は、繰り返し罪を犯す私たちが、ご自分のもとに帰り、共に生きるようになることを待っておられます。
イエス様のたとえ話の中に、「放蕩息子のたとえ」があります。ルカによる福音書15章11~32節です。この箇所に出てくる放蕩息子は、愚かな生き方をしたと言うことができます。彼は遠い国に旅立ち、父から受けた財産を無駄に使い果たし、飢え死にしそうになりました。しかし彼は、父のもとに帰る決断をしました。父に謝り、憐れみを乞うことを決断しました。すると父は、彼がまだ遠く離れている内に、走り寄り、彼を抱きしめて口づけをしました。そして、彼に最良の服を着せ、祝宴を催しました。
しかし、この父の元々の願いは何であったでしょうか?それはこの放蕩息子も、兄のように自分のもとを離れず、共に働くことではなかったでしょうか。それでも父は、息子が自分勝手に家を出て、困り果てて帰って来た時、この息子を受け入れ、祝福しました。それは、神様の私たちに対する願いを表していると思います。神様は、私たちの一人一人が、御言葉に聞き従い、賢く生きることを願っておられます。しかし同時に、神様は、私たちが時に、放蕩息子のように愚かに生きてしまう者であることを知っておられます。その上で、主は、私たちの想像を超える大きな愛をもって待ち続けておられます。だから私たちも、自分の愚かさをむしろ隠さずに、大胆に主に憐れみを求めていくべきです。そのような私たちを、神様は喜んで受け止めて下さいます。放蕩息子の兄は、無条件に受け入れられた弟のことを妬ましく思いました。そのように、私たちに対しても、妬みや批難の声が上がることもあるかもしれません。しかし、「人の言うことをいちいち気にするな」とある通り、神様に赦されていることが最も大切なのであり、人の言葉にとらわれてはなりません。人の目にどう見えようとも、また、自分自身の目にどう見えようとも、私たちの一人一人は、イエス様によって罪赦されて、神様の子どもとされています。そのような私たちは、主の知恵によって賢く生き、そして愚かなまでに主の恵みに依り頼んで、主と共に生きるように、招かれています。