内側を見せられる神

2021年8月8日 礼拝メッセージ全文

エゼキエル書 8章1~18節

今日のエゼキエル書の箇所は、幻を見たというエゼキエルの証を記しています。これは、実は先週読んだエゼキエル書の最初の箇所にも出てきたことで、そこでは「神の顕現(1章1節)」と訳されていました。このように「顕現」や「幻」と訳されるこのヘブライ語の単語は、「見る」という言葉の名詞形となっています。そのことが示すように、幻とは、通常私たちが思い浮かべるような、実体のないぼんやりとしたもののことではなく、「見ること」、それも、神様の示される霊的な現実を見るということを指します。

エゼキエルは、バビロンの地に捕囚として住んでいたイスラエルの民の一人でした。今日の箇所の1節によれば、彼の前には、ユダの長老たちが座っていたということです。この様子は、エゼキエル書の中で繰り返し描かれています。捕囚の地で、エゼキエルから主の言葉を聞くために、多くの人々が集まっていました。そのような中で、突如彼の上に主の御手が下り、神の幻が示されました。そして彼は、地と天の間に引き上げられ、「神の幻のうちに」エルサレムへと運ばれたということです。このような不思議なことがどのように起こったのか、私たちにはすべてを知ることが許されていません。しかし確かなことは、エゼキエルが幻の中で、エルサレムの様子について見せられたということです。主は、エゼキエルを、エルサレム神殿の四つの箇所へ連れてゆき、「見たか」と言われました。この時、エルサレムは、バビロンの支配下に置かれていましたが、少数の人々が残っていました。その人々が、いかに主を忘れ、堕落しているかを、主は幻によってエゼキエルにお示しになったのです。しかし、エゼキエルの幻は、エルサレムに残された人々だけの問題を示しているのではありませんでした。この幻は、イスラエルの民がバビロン捕囚を経験することになった、その原因がどこにあるのかを、エゼキエルに、そしてイスラエルの民に示すためのものでした。そしてこの幻は、ただ過去のイスラエルの民の罪や堕落を示すだけのものにとどまりません。それは、今を生きる私たちを含めた、すべての人間の内側に存在する霊的な現実を、示している幻であると言えます。

 

1.内側の門の入り口で

主がエゼキエルを最初に連れて行かれたのは、「北に面する内側の門の入り口」でした。5節によれば、この内側の門の近くには、祭壇があったということです。主にいけにえをささげるべきその祭壇の近くに、エゼキエルは、「激怒を起こさせる像」を見ました。これが実際にどのような像であったのかは分かりませんが、偶像の一種であったと思われます。実は、このように神殿の中に偶像を設置するということは、過去にもあったことでした。マナセという王がユダを支配していた時代、彼は神殿の中にアシェラという女神の像を設置しました(列王下21:7)。その後、マナセの孫にあたる、ヨシヤ王がこの像を取り除きましたが、しかしエゼキエルの見た幻の中では、再び偶像が神殿の中に置かれていました。このことが示すように、偶像を拝もうとする人間の性質は、時代を越えて引き継がれてゆきました。そしてそれは今も変わっていません。

そもそも人はなぜ、偶像を拝もうとするのでしょうか?それは、目に見えて、分かり易いからです。人は、目に見えない神様を拝むだけでは不安になり、目に見える像を造って、それを拝もうとします。モーセを頭としてエジプトを出たイスラエルの民も、モーセがいなくなり、先が見えなくなった時、金の子牛を偶像として造りました(出エジプト記32章)。

しかし今日の箇所によるなら、偶像を作るということは、主を否定することに他ならないと分かります。「人の子よ、イスラエルの人々がわたしを聖所から遠ざけるために行っている甚だ忌まわしいことを見るか(6節)」。偶像を聖所に置くなら、主を礼拝していても、それは主を礼拝していることにはならないということです。

私たちも、知らず知らずの内に、また良かれと思って、心の内側に、主の隣に、偶像を置いてしまっているかもしれません。それは目に見えるものである場合もあれば、目に見えないものである場合もあります。偶像とは、心の拠り所とするものだと言えます。主を拠り所としながらも、それと同じ位拠り所としているものがないかどうか、振り返ってみる必要があります。

 

2.部屋の中で

主が次に見せられたのは、神殿の内部の部屋で、人々が行っていたことでした。主はエゼキエルを、庭の入り口に連れて行かれました。すると、壁に一つの穴が開いており、主は彼にその穴を通り抜けて、その先にある入り口から入りなさいと言われました。

その部屋の中で彼が見たものとは、壁一面に彫り込まれた、蛇や獣や、あらゆる偶像でした。壁への彫り物と言えば、ソロモンが最初に神殿を建てたとき、その神殿の内側の壁には、花模様や、ケルビムが浮き彫りにされていました。そして床には、一面に金が張り詰められていました。その様子から較べると、この箇所の伝えている光景は何とも暗く、不気味なものです。エジプトのピラミッドなどをみると、様々な動物が描かれた壁画が残っています。エルサレム神殿の中にも、そのような外国の宗教の影響が入ってきていたのかもしれません。

皆さんは、自分の部屋の壁に何かを飾っていますか?壁に飾るものは、無意識の内にも自分が何を大切にしているかを示していることが多いと思います。イスラエルの民は本来、主なる神様だけを拝み、その御言葉を、自分の家の戸口の柱にも門にも書き記していた人々でした。しかしこの時、人々は、御言葉でも、主の臨在を示す事物でもなく、偶像を壁に彫り込み、自らの心が主の元にないことを示していました。しかも、ここにいた人々は、「イスラエルの長老七十人」、つまり、国を代表するリーダーたちでありました。彼らは、「主は我々を御覧にならない。主はこの地を捨てられた(12節)」と言っていたということです。リーダーである彼らが率先して主への信仰を捨て、偶像に心を寄せるようになってしまいました。

この場所は、本来、外からは見えない場所でした。しかし主は、「入って、彼らがここで行っている邪悪で忌まわしいことを見なさい(9節)」と、それを見ることを命じられました。私たちは普段、隠れた内側の現実というものを、あまり見ようとはしません。見なくて済むのなら、その方が楽だからです。しかし神様はすべてを見ておられ、私たちが自分の部屋の中で隠れて行っていることも、そして自分の心の中に隠していることも、すべてを知っておられます。そして神様は、私たちのそのような内側の現実を見せられます。私たちを裁くためではなく、私たちが悔い改め、主に救いを求めるようになるためです。主は、エゼキエルに与えた幻を通して、イスラエルの民の中にある現実を示されました。それは、すべての人間の内にある、罪の現実です。主を信じると言いながらも、主に失望し、主ではないもので心を見たそうとしてしまう人間の罪の現実です。

 

3.門の入り口で

そして次に主は、「神殿の北に面した門の入り口」にエゼキエルを導かれました。そこでは、「女たちがタンムズ神のために泣きながら座っていた」とあります。「タンムズ」とは、バビロンや近隣諸国で崇拝されていた異教の神の名称であったと言われています。この神のために、女たちが「泣きながら」座っていた、とあります。当時、神殿での礼拝は、男性である祭司によって行われました。このように、女性が、しかも泣きながら拝むという行為は、これもやはり異教の習慣によるものでした。一説によれば、タンムズ礼拝は、不浄な儀式やみだらな行為を伴うものであるということです。これは、タンムズに限らず、偶像崇拝のあるところには、必ずといっていいほど、放蕩やみだらな行いがセットとなっていることが多いものです。サタンがこれらの誘惑を用いて、真の神から人間を遠ざけようとしていることが分かります。

このような、目を覆いたくなるような神殿の内側の堕落した現実を、主はエゼキエルに幻を通して示されました。それは、この時代の問題であるだけでなく、今を生きる私たち自身の内側の現実でもあると言えます。主なる神様を礼拝するはずの場所で、異教の儀式やみだらな行いを行ってしまう、私たち人間の心の内にはそのような罪が存在しているということです。

 

4.聖所の入り口で

主は最後に、エゼキエルを、聖所の入り口へと連れてゆかれました。この聖所に入ることができるのは、祭司だけであり、その奥には、大祭司だけが年に一度入ることのできる至聖所がありました。神殿の中で最も聖なる場所において、エゼキエルは、そこにいる選ばれた25人の人々が、主の聖所を背にし、つまり聖所とは真逆の方向を見て、東の方角にある太陽を拝んでいる様子を見せられます。太陽崇拝は、世界中で見られることです。日本神話のもとになっているアマテラスも、太陽神であると言われています。そして、このように太陽を拝む習慣は、イスラエルの人々の元にも入ってきました。先ほど出てきたユダの王、マナセは、天の万象の前にもひれ伏して仕えたと書かれています(列王下21:3)。そのような異教の習慣が、エゼキエルの時代にも、特に祭司たちの間で行われていたということは、衝撃的な事実でした。

主の聖所の前にいながらも、その聖所と真逆の方向を見ているということ、それは、イスラエルの民の反逆を表したものでした。主に選ばれた神の宝の民として、主に祝福され、守られてきたにも関わらず、イスラエルの民は、繰り返し主を忘れ、偶像を拝むようになりました。私たちは、そのようなイスラエルの民の歴史を読む時に、また、この箇所で主の聖所を背にして、東の空の太陽を拝む人々の姿を見る時に、もし自分がその立場にいれば、そのようなことをしないと思うかもしれません。しかしこれは、正にそのような私たちのために与えられた、すべての人の内側の現実を示す神の幻です。主を信じると言いながらも、実は主とは真逆の方を見てしまう。それは、罪ある人間の弱さを示していると同時に、偶像の持つ誘惑の力がそれだけ強いものであるということを示しています。エゼキエルを通して語られた御言葉は、そのような危険に対する警告の言葉として捉えることができます。

 

今日の箇所を通して伝えられたエゼキエルの幻は、エルサレムに残されたイスラエルの人々の堕落を示しました。そして、それは、彼らだけでなく、イスラエルの民全体の堕落、神に背いた罪の現実でありました。その罪の結果として、彼らはバビロンに捕囚となり、この後、エルサレム神殿も、焼き滅ぼされてしまうことになります。これらのことを通して、私たちは、今を生きる私たちの内側にある現実を見せられています。この社会には、多くの問題があります。私たちの家庭や、私たちの教会の中にも、色々な問題があるかもしれません。主は、まず私たち自身の内側にある現実を見るようにと、招いておられます。

Ⅰコリント3:16-17「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」

父なる神様は、神の神殿である私たちが、一人も滅びることなく、御自身の栄光を現わすものになることを願っておられます。だからこそ主は、その神殿の内側で行われているすべてのことを見ておられ、そこに神に背いた現実があるのであれば、それを私たちに見せて下さいます。私たち自身の力では、この神殿を聖めることはできません。それをなすことができるのは、私たちの罪を赦すために流されたイエス様の十字架の血潮です。従ってそこには希望があります。私たちの内側がどんな状況であっても、主に立ち帰り、主の赦しを乞うなら、主は私たちを豊かに赦し、その聖さにあずかるものとして立たせて下さるからです。