2021年9月5日 礼拝メッセージ全文
エゼキエル書 34章1~16節
1.イスラエルの牧者たち
今週もご一緒に礼拝をささげられる恵みに感謝します。エゼキエル書のこれまでの箇所で伝えられてきたように、エゼキエルの語った時代、イスラエルという国は、国家的な危機に直面していました。この頃、北イスラエルは、既にアッシリアの支配下にありました。そして、エルサレムを首都とする南ユダは、バビロンによって滅ぼされ、そこに住む人々の多くは、バビロンの地へ捕囚として移住されられました。そして神殿も破壊されてしまい、人々は疲れ果て、生きる希望を失いかけていました。私達も現在、大変苦しみの多い時代を生きていると言えますが、エゼキエルの時代も、そのように苦しみの多い時代、そして人々の希望が失われかけている時代であったと言えます。
そのような時代の中で、国を導くべき存在であるリーダーたちがどのような状態であったかということを、今日の箇所は伝えています。ここで、そのようなリーダーのことが、「牧者」と呼ばれています。「牧者」と訳されていますが、原文では「養う者」という言葉が使われています。聖書では、人間を羊に例えることが多いです。羊とは、自分だけでは生きることのできない、弱い存在の象徴です。牧者とは、そのような弱さや迷いの中にある人々を養うための存在として、主によって立てられた人々でした。具体的には、王様や、宗教指導者のような立場の人々を指していたと思われます。
ところが、このイスラエルの牧者たちは、本来果たすべき役割を果たしていませんでした。今日の箇所によれば、彼らの問題点は、大きく三つあったということです。
2節「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではな いか」
この箇所から示されるように、彼らの問題点の一つ目は、その自己中心性にありました。「牧者」という言葉が示しているとおり、牧者が存在するのは、弱い者、迷っている者を養うためでした。ところが、彼らは群れであるイスラエルの人々ではなく、「自分自身を養っている」とあります。これは具体的には、3節に「お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない」とあります。自分は良いものを食べ、上等な着物を着ているが、人々にはそのような良いものを一切与えないということです。そのような自己中心的な牧者たちの姿がここではまず描かれています。
4節「お前たちは、弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず」
彼らの二つ目の問題点は、無関心であるということでした。羊飼いは、自分の飼っている群れを見回して、弱っているものはいないか、病気のものはいないか、傷ついたものはいないか、はぐれてしまったものはいないか、絶えず気を配るものです。しかしイスラエルの牧者たちは、そのような人々の状態に関心を示しませんでした。そして無関心な訳ですから、人々のために立ち上がって行動を起こすこともなかったということです。
4節後半「かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した」
三つ目の問題点として、この箇所が示すように、彼らの内には支配欲があったと言えます。自己中心、無関心である牧者たちは、群れとなる人々との間に良い関係が作られることはありませんでした。それゆえに、彼らは牧者として人々を養うよりむしろ、力ずくで人々を支配していたということです。
これらのような問題を抱える牧者のもとで、人々は生きづらさを抱えていました。その様子が、続く箇所に書かれています。
5~6節「彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない」
ここで、人々は「散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった」とあります。これは、具体的には、イスラエルが近隣諸国から攻められ、多くの人々の命が犠牲になったこと、バビロン捕囚によって、人々が遠い国に散らされていってしまったことを表しています。そしてこれらすべてのことは、牧者たちが群れを養わなかったことに原因があるのだということです。
さて、このような状況は、当時のイスラエルでのことだけを言っているのでしょうか?決してそうではないと思います。このような現実を、今、私達は世界中で目にしています。あらゆる国のリーダーと呼ばれる人たちは、自分の国の人々よりも、自分の身を守ることに躍起になり、人々は搾取と混乱の中にあります。我が国でも、コロナ禍の大変な状況の中で、政治家たちは主導権争いに明け暮れている状態です。このような状況は、聖書の時代から何一つ変わっていないということが分かります。そしてそれは、国のリーダー、牧者だけの問題ではなくして、人間全体に及ぶ罪の深さというものを表していると言えます。聖書は、人間が罪を犯したことによって、この世界はサタンの支配のもとに置かれることになったと伝えています。この悪魔サタンが支配する世の中にあって、私達は、あらゆる形で、人間の自己中心、無関心、支配欲によって傷つき、飼い主のいない羊のように、助けを求めてさまよっている者です。そのような私達に救いを与えてくれる存在、それはこの地上の人々の中には誰もいません。
2.真の牧者イエス・キリスト
今日の箇所は、そのような私達人間のために、主ご自身が、真の牧者となって私達を養ってくださるということを伝えています。このお方こそ、神の御子としてこの地上に生まれ、そして、すべての人間の罪を贖い、救いの道を開いて下さった、主イエス・キリストです。旧約聖書はすべて、この主イエスが、メシアとして来られるということを、その誕生のはるか以前に、前もって預言しました。このエゼキエル書も、主イエス・キリストの到来を指し示し、待ち望む信仰を、読む者に与えるものです。
ヨハネによる福音書10章11節「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」
イエス様は、ご自分こそが、イスラエルの民が待ち望んでいた真の牧者、良い羊飼いであると語られました。真の牧者としてのイエス様の生き方は、今日の箇所で語られるイスラエルの牧者たちの自己中心的な生き方の、正に対極にありました。イスラエルの牧者たちは群れを養わず、自分自身を養っていましたが、イエス様はむしろ、群れである全ての人間のために、十字架にかかりご自分の命を捨ててくださいました。
エゼキエル書34章11節~12節前半「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す」
この箇所も、真の牧者として来られるイエス様の姿を表しています。イエス様は、「自ら自分の群れを探し出し」と言われています。散らされて、ちりぢりになってしまった群れの一人一人を、イエス様は今も探し求めておられます。これは、イスラエルの牧者たちの自分の群れを探しもしないという無関心な姿とは対照的です。
14節「わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる」
さらにこの箇所は、イエス様がどのような場所で群れを養うのかを伝えています。それは、「良い牧場」「肥沃な牧草地」であり、「憩い」の場所であります。イスラエルの牧者たちは、「力ずくで、苛酷に群れを支配」しました。しかしイエス様は、力で人間を支配するのではなく、むしろ一人一人が自由に憩うことができるようにしてくださいます。イエス様を信じて、イエス様に養われて生きる時、私達はその人生の豊かさを楽しみ、憩いを得ることができるということです。何と感謝なことでしょうか。
このように、真の牧者であるイエス様は、私達の一人一人を本当の意味で養って下さるお方です。この世の中にどれほど希望がなく、どれほど人々の自己中心、無関心、支配欲が私達を傷つけても、イエス様は、そのような私達の一人一人を探し求め、ご自分のもとへと導いて下さいます。私達は、この真の牧者であるイエス様に従って、生きることのできる者とされています。
3.真の牧者にならって生きる
また、今日の箇所は、私たちが真の牧者であるイエス様によって養われて生きる恵みを教えています。そしてそれと共に、神様は、私達が真の牧者であるイエス様にならって生きる者となるように願っておられるということを伝えています。
この箇所は、「イスラエルの牧者たち」に対して語られた言葉であったことを思い起こしたいと思います。牧者たちは群れを養う者としてふさわしくなかったので、主は彼らに群れを飼うことをやめさせた、と言われています。それは、真の牧者であるイエス様によって、私達が養われるようになるためでした。しかし、もしそれで終わりであったなら、私達は何のために、この地上で生かされ続けているのでしょうか?
エゼキエルは、先月の最初に私達が読んだ箇所で、こう告白していました。「それは哀歌と、呻きと嘆きの言葉であった(2章10節)」。エゼキエルが神から受けた啓示とは、神が私達人間の罪深い有様を見て、哀しみ、呻き、嘆いておられるということでした。それは、イスラエルの民が神に背いた罪を悔い改め、主の元に立ち帰ることのためでした。そしてそれは、私達に対して語られた言葉でもあります。今日の箇所を読む時、イエス様に養われている群れである私達の間にも、イスラエルの牧者たちのような、自己中心、無関心、支配欲がないだろうか、そう問われている思いがします。
イスラエルの牧者たちに向けて語られた今日の御言葉は、真の牧者はイエス様ただ一人でも、主は私達の一人一人に、牧者であるイエス様にならって生きるように招いておられるというメッセージを伝えています。それこそが、イエス様が十字架にかかられ、私達に命を与えられた目的であると言えます。
ヨハネによる福音書21章15節「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは、『わたしの小羊を飼いなさい』と言われた」
イエス様は、復活された後、弟子のペトロにこのように語られました。そしてこの同じやり取りが、三回繰り返されました。私達は、ペトロがどんな信仰人生を歩んだかを聖書を通して知っています。彼は、イエス様が捕らえられた後、イエス様のことを三回「知らない」と言いました。恐らくこの時、ペトロと一緒にいた弟子たちの多くは、そのことを知っていたと思います。そのペトロが、「この人たち以上にイエス様、あなたを愛します」などと言えたはずはありません。しかしそれらすべてのことを知った上で、イエス様はペトロに三度言われました。「わたしの羊を飼いなさい」と。それはイエス様が、ペトロのありのままの姿を受け入れ、愛し、用いようとされていたということです。イエス様は、私達にもまた、「わたしの羊を飼いなさい」と言われています。私達の置かれた状況や環境はそれぞれ異なりますが、誰一人として、自分のためだけに生きている人はいません。人との関わりの中で、イエス様の愛を受けて、自分にできる仕方で、人々に仕えていくことを主は願っておられます。もちろん、そのようなことは私達が自分の力でできることでは到底ありません。私達は何度も、主を裏切り、主から離れていってしまう者であります。しかしそのような私達でさえも、真の牧者である主は探し求めて下さり、ご自分のもとへと引き寄せて下さるのです。私達はこのような真の牧者によって養われていることを常に覚えながら、その真の牧者、イエス様にならって生きてゆく者でありたいと願います。