2022年1月30日 礼拝メッセージ全文
マルコによる福音書7章24節~30節
先週の聖書箇所は、イエス様が数万人の人々の必要を満たして下さったという出来事を伝えていました。その箇所の終わりには、このような言葉がありました。
6章43節「そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった」
「パンの屑と魚の残り」だけで、十二の籠が一杯になったということは、それほどたくさんの食糧が与えられたという証でした。ここで、本来は捨てられてしまう「パンの屑と魚の残り」に目が向けられているのには、別の理由もあると思います。
神様は私たちの必要を満たして下さるお方です。しかし、ともすると私たちは、目に見えるものばかりを求めるようになり、目には見えない本当に大切なものを見失ってしまうことがあるのではないでしょうか?日本ではそのような信仰を、「ご利益信仰」と呼びます。目に見えるものが与えられている内は信じるけれども、それがなくなると途端に離れていってしまう、これはご利益信仰です。そして日本人だけでなく、すべての人は、ご利益信仰的に神様を求めてしまう弱さがあります。イエス様の弟子たちの内にも、それがありました。6章52節に「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」とあります。弟子たちは、数万人の人々に足る食糧を備えられたイエス様の奇跡を目の当たりにし、自分達もそのパンを実際に食べました。しかしそれでもなお、彼らの「心は鈍くなっていた」、彼らはイエス様が湖の上を歩いて自分たちの所へ来られた時、「幽霊だ」と叫んでしまったのです。「イエス様が共にいて、守ってくださる」と信頼する心を失ってしまっていました。
そのような出来事の後で、今日の箇所は、一人の女がイエス様のもとに救いを求めてやって来たという出来事を伝えています。この名前も知られていない一人の異邦人の女性の行いは、イエス様に信頼するということを忘れた弟子たちに、そしてまた私たちに、心からイエス様を求める信仰のあり方を示しています。
1.飢え渇きをもって求める
この女性を通して教えられる一つ目のこと、それは、心からの飢え渇きをもって神様に求めるという信仰です。
イエス様は、それまで働きをされていたガリラヤ湖の周辺を離れ、ティルスという町に行かれました。ここは、地中海に面した沿岸の町で、現在ではレバノンという国の一部になっています。ティルスは、古くから貿易の盛んな豊かな町でしたが、イスラエルから見ると異邦人の町で、かつて預言者のイザヤやエゼキエルは、ティルスに対する厳しい裁きを預言しました。そのように、この町は、弟子たちの目からすれば、当然行くべきではない場所でした。しかしイエス様はこの町に来てくださいました。それは、ここに住んでいた一人の女性に会うためでした。
この女性は、聖書ではこの箇所にしか登場せず、名前も知られていません。ただ、「女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」としか書かれていません。彼女は、ティルスの属するフェニキアの生まれであり、ギリシア人、つまり異邦人であったということです。イエス様の福音宣教は、まず、ユダヤ人に対して行われました。それは、旧約聖書に啓示された神の救いの計画が、主に選ばれたユダヤ人から始まり、それから全世界の人々にもたらされるためであったからです。しかしこの時はまだ、そのような異邦人の時は来ていませんでした。それでイエス様は、24節で「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられた」と、隠れるように過ごしておられました。
この女性は、そのように家の中に引きこもったような状態にあったイエス様のもとにやって来ました。しかも、「すぐにイエスのことを聞きつけ」てやって来たとあります。彼女がどのようにしてイエス様が来られたことを知ったのかは分かりません。しかし、「すぐに聞きつけて」やって来た。そしてさらに、「来てその足もとにひれ伏した」とあります。これらのことから、この女性が、どれほど切にイエス様のことを求めていたのかが伝わってきます。
今、コロナ禍の中で、教会に多くの人が集まったり、大規模な伝道集会を行ったりすることは難しいという状況が続いています。しかし私は、そのこと自体は教会にとって大きな問題ではないと思っています。なぜなら、救いを求める人は、どんな状況になろうとも、主のもとに引き寄せられるからです。むしろ、このような時こそ、人間には解決することのできない問題に直面し、心からの飢え渇きをもって、神様を求める人々が起こされています。また、既に信じている私たちも、このような時こそ、心からの飢え渇きを持って神様を求めているだろうかと、問われているように感じています。
27~28節「イエスは言われた。『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。』ところが、女は答えて言った。『主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます』」
イエス様は、この女性に、パンをあげることはできないと言われました。そこで彼女は、それならば、パン屑でよいから下さいと言ったのです。これは、当たり前のことかもしれませんが、パンを食べて満腹している人は、パン屑を求めないものです。しかし、もし私たちに何も食べる物がないならば、パン屑でも良いから下さい、と必死に求めるのではないでしょうか。これはもちろん、実際の食べ物のことだけを言っているのではありません。シリア・フェニキアの女は、神の救いに心から飢え渇き、パン屑のようなものでもいいから、自分と娘に、神の恵みを注いでくださいと求めたということです。
私たちは皆、パンを食べて満腹したいのです。それは信仰生活の中でも同じで、自分の願いや希望が叶うように、私たちはお祈りをします。実際、神様は私たちの必要をすべて、満たして下さるお方です。そのことを、私たちは先週の五千人の給食の奇跡の箇所を通して示されました。しかし、イエス様が弟子たちに本当に願われたこと、そして今、主が私たちに願っておられることは、ただ私たちが食べて満腹することではありません。むしろ、飢え渇いた心を持って、主に求めるようになることを、イエス様は弟子たちに願われ、また私たちに願われているのです。なぜなら、そのように求めてゆく中でこそ、神様との交わりが深まってゆくからです。
2.へりくだって求める
だからこそ、この女性の信仰が伝えている二つ目のこと、それは、へりくだって主に求めるという信仰です。
イエス様は、さきの言葉の中で、イスラエルの民を「子供たち」に、異邦人を「子犬」にたとえておられます。この女性は、自分が子犬にたとえられても、そのことを受け入れています。「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます」。ここで、「主よ」の前に、「はい」という言葉を入れて、「はい、主よ」としている写本も存在しています。いずれにしても「主よ」という言葉は、弟子たちがイエス様を呼ぶ時の呼び方です。彼女は、異邦人でありながら、イエス様を主であると信じ、そして異邦人としての自分に与えられた定めをへりくだって受け入れたということです。
このようにへりくだって求めたシリア・フェニキアの女に対して、イエス様を取り巻くユダヤ人たちはどうであったかというと、そこには、へりくだりとは真逆の高慢さがあったことが分かります。今日の箇所の直前の7章1~23節では、昔の人の言い伝えを守らないイエス様の弟子たちに対して、議論をするユダヤ人たちについて語られています。
7章6~8節「『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」
イエス様はイザヤの言葉を引用して、食事の前に手を洗わなければならないという昔の人の言い伝えに固執する人々を指して、「その心はわたしから遠く離れている」と言われました。彼らは、人間の教えを守ることを通して、自分達が清く正しい存在であると思い込んでいたわけです。イエス様はそれが高慢であると指摘をされました。
神様の御前に最も大切なことは、その人が何人であるか、どんな善い行いをしているか、ではなく、むしろ自分は何をもってしても清く正しくはあり得ないということを、へりくだって受け止めるということです。そうするときに初めて、人は、自分をしばっているすべてのものから解放されて、大胆に、神様に求めるようになってゆきます。シリア・フェニキアの女は、へりくだって、自分は子犬のような存在であるということを受け入れました。このように、真にへりくだった人に、失うものはもう何も残っていません。
実際、パン屑を食糧として求めるということは、プライドがあっては到底できることではないと思います。しかし、食糧が尽きて飢え死にしそうな状況の中では、そのようなことを言っている場合ではありません。この女性は、何としてでも娘を救うために、へりくだって、イエス様に求めました。そのような彼女に、イエス様は答えてくださいました。私たちも、主の御前にへりくだって、自分の足りなさ、至らなさ、罪深さを認め、神様の憐れみを求めるなら、そのような私たちに必ずイエス様が答えてくださいます。
3.神の力に期待して求める
この女性の信仰を通して教えられる三つ目は、神様の力に心から期待をして求めるということです。イエス様からいただくものは、それがたとえパン屑のような小さなものであっても、私たちの人生を変える驚くべき力があると信じるということです。
シリア・フェニキアの女の娘は、「汚れた霊」に取りつかれていました。この「汚れた霊」もしくは「悪霊」は、イエス様の宣教の初めから、常にイエス様と敵対する存在でした。しかし、その度ごとにイエス様はその悪の力に勝利され、福音が宣べ伝えられてゆきました。
私たちは、「父・子・聖霊」の三位一体の神様を信じています。この三つは一つの神様でありますが、それぞれに人格を持った存在でもあります。聖霊とは、人格を持った神様ご自身として、私たちに啓示されます。そのように、「悪霊」というものも、決して架空の存在ではなく、人格を持って、この世界に存在しています。これは、神ではなく、サタンから遣わされる、汚れた霊のことです。そしてこの悪霊は、今日の箇所に「取りつかれた」とあるように、私たちの内側に、つまり心の中に入って、働くことができるものです。
私たちの心の中には、何があるでしょうか。イエス様は直前の21~22節でこう言われました。「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」。悪霊とは、正にこのような人間の心の中にある汚れに働いて、罪を犯すように仕向ける存在です。そして、最終的には、人々がサタンを礼拝するように仕向け、滅びに至らせるのです。このような悪霊の力は、すべての人に対して今も働いています。
イエス様は、このような悪霊を人々の内側から追い出されました。このことは、今日の箇所だけでなく、イエス様の宣教の初めから、繰り返し起こされてきました。シリア・フェニキアの女は、このことを信じて、イエス様に助けを求めました。悪霊に取りつかれて、なす術もなくなっている自分の娘を、イエス様は救うことができると信じたということです。
福音書の中で、イエス様が悪霊を追い出された時、ほとんどの場合、イエス様は言葉によって悪霊に出ていくように命じられました。しかし今日の箇所には、そのようなイエス様の言葉はありません。ただ、「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった(29節)」とだけ言われています。イエス様がこう言われただけで、悪霊は出て行きました。そしてこのことを、シリア・フェニキアの女は信じて、帰って行きました。イエス様が何かを直接言われなくても、やって見せなくても、イエス様の心一つで、娘から悪霊が出て行くと信じたということです。それは正に、パン屑を一心に求める子犬のような信仰であると言えます。パン屑のように人の目にはどんなに小さく見えるものでも、イエス様を通して与えられる恵みは、驚くべき力を発揮する神の力であると、そのようにこの女性は信じました。私たちは、イエス様の恵みと力に、どれほど期待を持って求めているでしょうか。
ヨハネによる福音書6章26~27節「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためにではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」
イエス様は、私たちを救うために、十字架にかかり、三日目に復活されました。この福音を信じる時、私たちには永遠の命が与えられ、この地上においても、神の子どもとして、主の復活といやしの力を受けて生きてゆくことができます。イエス様は、このように素晴らしい、朽ちることのない、完全な霊的な糧を私たちに与え続けて下さいます。私たちは、この恵みを、どのような心で求め、また受け取っているでしょうか?シリア・フェニキアの女は、この恵みを、パン屑を求めるように、心からの飢え渇きをもって、またへりくだって、そして神の力に期待して、求めました。私たちもまた、このような信仰をもって主に求めてゆく時、イエス様はその祈りに答えて下さいます。