主イエスに遣わされて

2021年4月11日 礼拝メッセージ全文

マタイによる福音書28章16~20節

 今日の箇所はマタイによる福音書の最後の箇所です。昨年秋ごろから、マタイによる福音書をご一緒に読んできました。その中で示されてきたことは、神様は、福音という神の救いの知らせを、人間を通して語り伝えるようにされたということです。マタイによる福音書は、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図(1章1節)」という言葉で始められています。これは、神である方が人として来られた、ということが、救いの本質であり、そしてその救いの言葉を、私たち人間は委ねられたものであるということを表しています。

皆さんが手にしておられる聖書は、どのようにして手元に届けられたでしょうか?ある人は、誰かから、あるいは教会から、聖書を受け取ったかもしれません。また、ある人は、自分が書店で聖書を購入したかもしれません。いずれにしても、その聖書は、誰かの手を介して、自分のもとに届けられたものです。それは、聖書が他の書物と同じように人によって書かれた書物であるということではありません。聖書は神の言葉そのものです。しかし、その神の言葉である聖書を、誰かが私に分かる言葉で翻訳してくれ、誰かが私のもとへと届けてくれました。これは驚くべきことであると改めて思います。

今日の箇所は、イエス様の弟子である使徒たちが、復活された直後のイエス様から直接にメッセージを受け取ったという出来事を記しています。この使徒たちから始まって、福音が世界中に、そして私たちのところにまで、伝えられるようになりました。それは、福音が、限りある弱い存在である人間を通して、世界中に宣べ伝えられることが、神様の御心であるということです。

16節には「十一人の弟子たち」と書かれています。もともとイエス様が使徒として選ばれたのは十二人でした。しかし、ユダが裏切って、自ら命を絶ってしまい、使徒の数は十一人になりました。十二というのは、聖書の中では完全を表す数として使われています。しかし十二に一つ足りないこの十一という数は、人間の不完全性を示しています。ユダだけでなく、そもそも弟子たちは全て、イエス様の十字架から逃げ出してしまったのです。そして弟子たちは、イエス様の復活の知らせを聞いても、今日の箇所の場面まで信じることができませんでした。そしてこの箇所でも、復活されたイエス様を目の前にして、まだ「疑う者もいた」と言われています。

もともと、イエス様が十二人を選ばれたのは、彼らの能力や信仰深さによっていたのではありませんでした。むしろ、彼らの内の多くは無学な者、社会から忌み嫌われている者たちでした。しかし彼らはただ、神様からの一方的な恵みによって、選ばれ、使徒とされました。今日の箇所で、イエス様は、そのような使徒たちを、再び集められました。イエス様の十字架から逃げ出し、イエス様を疑うようにまでなってしまった彼らをです。18節を見ると、イエス様は彼らのもとに「近寄って来て」と書いてあります。

この「近寄って来て」という表現に着目したいと思います。この時イエス様が弟子たちを集められたのは、「イエスが指示しておかれた山」であると書かれています。「山」というと、イエス様の「山上の説教」の場面が頭に浮かびます。

マタイ5章1節「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」

このときの山が、今日の箇所で言われているのと同じ山であるかどうかは分かりません。しかし、弟子たちは、かつて山でイエス様から教えを受けた時のことを思い出したのではないかと思います。その時は、弟子たちが自らイエス様の「近くに寄って来た」と書いてあります。イエス様の救いを求める、純粋な人間の姿です。しかし、人々は、イエス様が十字架にかかられると知ると、離れ去って行きました。イエス様を信じ続けることができず、御前から離れ去って行った弟子たちの下に、今度はイエス様の方から「近寄って行かれた」と今日の箇所は記しています。それは、神様のもとから離れてしまう人間のもとに、いつも近寄って来て下さる、イエス様の愛を示しています。私たちが神様のもとから離れてしまうときにこそ、すべての人間の罪のために十字架にかかられ、復活されたイエス様が、私たちのもとに近寄って来て下さり、語りかけてくださるということ、これは驚くべき恵みです。

18節後半からは、そのようにして近寄ってきてくださるイエス様から弟子たちに向けられた言葉が書かれています。これは、今を生きる私たちに対しても向けられた言葉です。その初めには、「(イエス様には)一切の権能が授けられている」とあります。この権能とは何を指しているのでしょうか?このことも、やはりイエス様の生涯を振り返ると見えて来ることです。イエス様は、全知全能の力と権威を持っておられるのに、それらをすべて捨てて、十字架で死んで下さいました。それは、すべての人の罪をその身に背負い、赦しを与えるためでした。イエス様に授けられている権能とは、一切の権能、すべての力ですが、その中で最も大切なものは、このように人の罪を赦すという権能でした。

イエス様が中風の人を癒すという奇跡を行われた時(マタイによる福音書9章1~8節)、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われました。中風を患い、寝たきりになっていた人に対して、イエス様は「あなたの罪は赦される」と言われました。それを聞いていた人々は、なぜこの人にそのようなことができるだろうかと思いました。しかしイエス様は、この中風の人をいやすことで、それよりもはるかに大きな、人の罪を赦す力をもっておられるということを示されました。

「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか(マタイ9:4)」

私たちがどのような罪を犯したとしても、どのような健康状態・心の状態であったとしても、イエス様は、私たちのすべての罪を赦す権威を持っておられるお方です。そして、イエス様は、この中風の人にされたように、私たちの罪を赦し、立ち上がらせて下さいます。そのようにイエス様は、罪を赦すという大いなる権能をもって、私たちを遣わしておられます。

28章19節「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」

この時、イエス様は弟子たちと共にガリラヤにおられました。ガリラヤとは、イエス様が幼い時から育った場所であり、弟子たちはこのガリラヤで、主と共に生活し、食事をし、様々な御業を経験してきました。そのように、ガリラヤとは、弟子たちにとって馴染み深い場所であり、私たちにとっては、日常の生活をする場所を指し示しています。主が私たちを遣わされるのは、日常生活の只中からであるということです。私たちの置かれている家庭や、職場や、学校において、主が共にいて下さり、その場所から、主は御言葉を宣べ伝えるために、私たちを遣わしてくださいます。それは、「すべての民」に向けたものであると言われています。これは、私たち一人一人の力では、到底成し得るものではありません。しかし、弟子たちがガリラヤから、世界中の人々に向けて遣わされたように、私たちも一人一人、それぞれの場所に遣わされています。それは、「すべての民」が主の弟子となるため、私たちの想像や能力を遥かに超える広い範囲で、御言葉が宣べ伝えられてゆくということです。

イエス様が「弟子にしなさい」と言われた時の「弟子」の意味とは、続く箇所の言葉から詳しく知ることができます。一つは、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」ということです。私たちは、イエス様を心に受け入れた時に救われるのであって、洗礼という行いによって救われるのではありません。しかし、イエス様の弟子となるということは、洗礼を通して、私たちがイエス・キリストの体につながるものとなった、ということをはっきりと確認することを通して始まります。洗礼によって、私たちは、罪に支配された古い自分に死に、キリストにある新しい自分に生きるものとなったという恵みを目に見える形で受け取ります。「父・子・聖霊の御名によって」と言われているのは、洗礼はただ個人的なことではなく、三位一体の神の臨在の中で、教会の働きとして行われるものであるということを示しています。私たちはそのようにして、イエス様の体の一部として、兄弟姉妹と共に、弟子となる歩みを始めてゆきます。

20節「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」

弟子として歩むということのもう一つの意味は、「神の命令を守ること」つまり、御言葉にとどまって生きるということです。

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である(ヨハネ8:31)」

御言葉にとどまるということが弟子としての歩みに不可欠であることをこの御言葉は示しています。それは、自分の力で御言葉を実行しようとすることではありません。むしろ、御言葉にとどまるとは、御言葉を行えない自分の姿を知るということです。それは、いつも自分の歩みを御言葉に照らしていただくということです。

イエス様は、あなたはこれができたから弟子である、これができなかったから弟子ではないという様なことを言われません。むしろ何もできなくても、その都度、御言葉に立ち帰ることを望んでおられます。イエス様を見捨て、疑うようにすらなってしまった十一人の弟子たちを、イエス様は再び弟子として遣わし、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と命じておられます。そのようにイエス様は、御言葉に従い得ない私たちをも、御言葉を教えるために遣わして下さいます。

イエス様は、今日の箇所の最後で、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われました。私たちが道を外れそうになる時にも、イエス様は傍にいてくださり、決して私たちを見捨てられることはありません。十字架から逃げ去り、イエス様を疑った弟子たちのことも、イエス様は決して見捨てられず、彼らに近寄って、今日のメッセージを語り、彼らを弟子として、改めて遣わされました。そのようにイエス様は、私たちともいつも共にいてくださり、私たちを弟子として、遣わし続けていて下さるのです。

 

今日の箇所を通して、私たちのそれぞれはイエス様から遣わされている存在なのだということを改めて知ることができます。そして、私たちが毎週の日曜日にささげる礼拝も、このことを覚えるときであると言えます。私たちは、弟子たちが、山上の説教の時にイエス様の御もとに近寄っていったように、イエス様の御言葉のもとに集まります。しかし、御言葉に従うことのできない自らの罪深さを知ります。しかしそのような私たちの罪を赦してくださる、主の十字架の恵みを受け取ります。私たちは、礼拝を通してこの恵みを受け取って、福音の使者として、新しい週もそれぞれの場所へと遣わされてゆきます。私たちの家庭や、職場や、学校に、イエス様によって罪赦された者として、私たちは今日もまた、遣わされて出てゆきます。