主イエスの十字架の愛

2021年1月17日 礼拝メッセージ全文

マタイによる福音書5章17~20節

マタイによる福音書5章からの箇所は山上の説教と呼ばれている箇所です。これはとても良く知られている聖書の箇所であると思います。そこには、イエス様が弟子たちに与えられたたくさんの教えが書かれています。その中に、好きな聖句があるという方も多いと思います。しかし私たちは、この山上の説教を聞く時に、どのようにそれを聞くのかということがとても大事になってきます。

例えば、有名な教えの中に、「敵を愛しなさい」というものがあります。しかしこれは、私たちが自分の力で行うことのできるものではありません。私たちはこの教えを、一つの教訓のように読んでしまってはいけないということです。また、今日の箇所の少し後には、「姦淫してはならない」という教えもあります。私は中学生のときに初めて聖書を手に取って読みましたが、最初に目に留まったのは、この「姦淫してはならない」という箇所でした。当時私は中学生でとても多感な時期でしたが、自分にはこのような教えは守れないな、と思いました。行いだけではなくて、目でも姦淫を犯してはいけないなんて、自分には到底無理だと思いました。これはこの箇所だけでなく、山上の説教すべてにあてはまることであると言えます。これらの教えは、私たちが達成するべき理想のようなものではありません。そうではなく、このすべてのところを、私たちはイエス様の十字架との関わりの中で読んでいくということがとても大切です。これらの言葉は、私たちがすべて、罪人であるということを明らかにします。この一つ一つの教えを見た時に、私たちは自分の力ではそれを守ることができない罪人であるという事を知ります。そして、そのような私たちのためにイエス様が十字架にかかってくださったということを知ることができるのです。私たちは、そのようにイエス様の一方的な恵みによって赦され救われた者であるということを知る時、初めて、義務としてではなく、喜んでこれらの教えを行ってゆくものに変えられてゆきます。

 

1.律法と神の愛

今日の箇所も、このような流れの中で語られている言葉です。ここでは、律法というものについてイエス様が語っておられます。律法とは旧約聖書の掟のことですが、有名なところでは、モーセが神様から受けた十戒があります。旧約聖書はそれ以外にも数多くの律法を記していますが、そのすべてを自分の力で守ることのできるという人は存在しません。しかしイエス様は、17節で次のように語っておられます。

17節「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」

 

当時の人々の中には、救い主であるイエス様が来られたから、もう旧約聖書の律法は関係ないと考える人がいたようです。しかし福音書を読むと、イエス様の語られた一つ一つの言葉が、また一つ一つの行いが、旧約聖書の言葉を実現するものであったことがわかります。そういう意味で、新約聖書と旧約聖書は、一つのつながりの中で書かれています。しかし、次のように言われるのを聞くことがあります。「旧約聖書の神様は厳しい裁きの神様で、新約聖書のイエス様は優しい愛の神様だ」というようなことです。でも聖書が伝えている神様というのは、一人の神様です。旧約聖書も新約聖書も同じ神様のことを伝えています。もし私たちが旧約の神様と新約の神様が異なるものであると考えてしまうとしたら、それは、裁きと愛が正反対のものであると考えてしまっているからであると思います。私たち人間の裁きと愛はそのようであるかもしれません。有罪の裁きを下された人を、同時に愛するということは、人の力ではできません。しかし神様の裁きと愛はそうではありません。神様は、私たち人間を愛されるがゆえに裁かれます。つまり、神様にとっては、裁きと愛は別々のことではなく、一つのことであるということです。そしてこれが完成されたのが、イエス様の十字架です。イエス様は今日の箇所で、律法を廃止するためではなく、完成するために来た、とおっしゃっています。それはつまり、イエス様が、私たちのために、十字架の上で神様の裁きを受けて下さったということです。そしてそのことによって、私たちの本来負うべきであった罪の重荷が帳消しになりました。ここに、神様の大きな愛が示されています。

私たちが律法を読む時にも、このように読むのが大切なんだとイエス様はおっしゃっています。律法とは、それを守ることのできない人間の罪を明らかにする裁きの言葉です。しかし、同時に、そのような罪の重荷から解放してくださったイエス様の十字架の愛の大きさを伝える愛の言葉でもあります。イエス様はそのような律法を廃止するためではなく、完成するために来られました。それは私たちが、このような神様の愛を受けるべき存在であるからです。

 

2.律法と天の国

今日の箇所の後半は、このような律法の原則を踏まえて、私たちがどのように生きたらよいのかについて語っています。

 

19節「だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる」

 

この箇所が示しているのは、律法を軽んじてはならないということです。律法の中に、大きい小さいがあるという訳ではないということです。この律法を守ったら、これは守らなくてもよい、というようなことではないということです。

イエス様がここまで徹底して律法の厳しさを語っておられるのはなぜでしょうか。それは、律法を守ることができないという人間の罪を私たちに教えられるためでした。イエス様は、私たちが自分の力でそれらを守ろうとするのを求めておられるのではありません。それでは道徳のようなものになってしまうかもしれません。主は私たちがこれらの律法を守ることができないことを御存じです。だからこそ私たちが、できないという自分の罪をみとめて、十字架にかかられたイエス様に助けを求めることを望んでおられます。

しかしもし、そうせずに「自分にはできないから」と考えて、律法を軽んじるとするならば、その人は「天の国で最も小さい者」になると言われています。ここでは、「天の国に入れない」とはイエス様はおっしゃいませんでした。私たちはあくまで、イエス様を信じるだけで、行いを必要とせずに、天の国に入ることができます。それは主の一方的な憐れみであるということができると思います。しかしそれは、最も小さい者となっていくという意味でもあります。このことが具体的にどのような結果を意味するのかは、私たちがそこに行くまで分かりません。しかし、その人がこの地上の人生で神様の望まれる実を結んでいくことができないことは確かであると思います。神様は私たち一人一人の行いに応じて、報いを与えられます。私たちのどのような行いも神様は見ておられて、それにふさわしい報いを私たちに与えて下さいます。

 

しかし逆に、律法を重んじる人は「天の国で大いなる者」と呼ばれる、と書いてあります。私たちがどれだけ弱く小さくとも、神様は律法に忠実な人を大いなる者として下さいます。これは自分の力で律法を守るということではありません。これまで見てきたように、私たちは自分の力では、最も小さな律法の一つでさえ、守ることができない者です。でも「できない」ということを神様に認めて頼るなら、その人は律法を重んじる者、「天の国で大いなる者」となることができる、とこの箇所は伝えています。これは、この地上でも、また天の御国でも、豊かな実を結ぶ人生を送ってゆく者となる、ということです。

イエス様は最後に、律法学者・ファリサイ派の人々の生き方ついて語っておられます。

 

20節「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」

 

ここで言われている律法学者・ファリサイ派の人々とは、一生懸命自分の力ですべての律法を守ろうとする人々のことを指しています。ですから、神様の力によるのではなく、自分の力によって義とされよう、正しい者になろうとしている人々のことを指しています。このような人々は、見た目には正しく、善良な人々です。当時も、律法学者・ファリサイ派の人々は、人々からの尊敬を受ける存在でした。しかしこの箇所は、そのような彼らの義よりも、イエス様の十字架の恵みによって義とされる私たちの義の方が勝っているということを伝えています。それは、私たち自身の能力や、心の清さというようなものとは、全く関係のないものです。どんなに悪い行いをしていても、イエス様の十字架によって義とされるということを信じるなら、その人は、神様の救いをいただいて、天の国に入る者とされてゆきます。しかし、どんなに正しい行いをしていても、自分の行いによって義とされようとするなら、その人は救いを得ることができず、天の国に入ることができないとイエス様は語っておられます。

 

3.律法と悔い改め

イエス様は、この地上での宣教の初めに、次のように語られました。

 

「悔い改めよ。天の国は近づいた(マタイ4:17)」

 

この言葉は、イエス様、そしてイエス様の到来を預言した洗礼者ヨハネが語ったものでした。この御言葉が私たちに伝えるメッセージ、それは「天の国は近づいた!」ということです。律法を守ることのできない罪・弱さを抱えた私たちのために、イエス様が十字架にかかられて、信じるすべての者が罪赦されて、神の子として天の国に入ることができるようになった、このことを、天の国が近づいた、と神様は語られました。私たちはこのような大きな恵みにどのように応えたらよいでしょうか。それは、この御言葉が伝える通り、「悔い改める」ことです。私たちが自分の力では何もできない者、罪を犯す者であるということを認めて、神様のもとへ立ち帰るということです。そのように悔い改めるとき、私たちは、天の国に入れさせていただいているイエス様の十字架の愛に改めて感謝し、豊かな実を結ぶ人生を送ってゆく者とされてゆきます。