主イエスを十字架につけた私

2022年4月3日 礼拝メッセージ全文

マルコによる福音書15章6節~20節

イースター、イエス様の復活をお祝いする時が近づいてきました。そこに至るまで私たちはこの受難節の時、引き続き、イエス様の十字架の出来事に目を留めてゆきたいと思います。今日の箇所を読むと、イエス様の十字架とは、実に色々な人の手による出来事であったことが分かります。それは、すべての人の罪のために、イエス様が十字架にかかられたということを示すためでありました。これは別の言い方をすると、すべての人、イエス様を十字架につける罪に加担したということです。私たちは今、イエス様の十字架の出来事から約2千年後の時代を生きています。しかし、そのような私たちも、時代的にはその場にいませんでしたが、当時の人々と同じように、イエス様を十字架につけた者であるということを、神様は聖書を通して語られていると思います。

イエス様を十字架刑に定めた人物は、ピラトという人でした。彼は、ローマ帝国の総督として、この地域一帯を治めていました。6節には、「祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた」とあります。ここで「祭り」と言われているのは、ユダヤ人の過越しの祭りのことです。過越しの祭りは、イスラエルの民が、いけにえとしてささげられた子羊の血によって、エジプトの支配から解放されたことを祝う年に一度の祭りです。それに倣って、この過越しの祭りの時期に、囚人が釈放されるということが行われていました。しかし、ピラトはユダヤ人ではありませんでしたから、これは彼の信仰に基づくことではありませんでした。あくまで慣例に従って、そして、人々を満足させるために、彼は囚人を釈放していました。

この時も、群衆が押しかけて、「いつものようにして欲しい」と要求を始めた、と8節にあります。それに対してピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言いました。この「してほしいのか」という言葉から分かるように、これはピラトがそうしたいと願ったことではなく、人々の気持ちを推し量ってこう言ったのだと思います。しかし、ピラトの中に、本当はイエス様を釈放するべきではないかという思いがあったことも事実です。

10節「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである」

この直前の箇所で、ピラトはイエス様を尋問しています。しかし、イエス様の中に何も悪いことを見つけられることができませんでした。それどころかイエス様は「何もお答えにならなかった」とあります。ピラトは、この方を釈放するべきではないのか、そのように思い始めていたようです。マタイによる福音書では、夢でお告げを受けたピラトの妻が、イエス様を釈放するように夫に勧めるという箇所が出てきます。これらの出来事を通してピラトは、イエス様が本当は罪のない方だということを知ることができた訳です。それにもかかわらず、ピラトはイエス様への死刑執行を確定してしまいました。その理由は何でしょうか?

それは、ピラトの行動の動機が、常に神様ではなく、人を喜ばせることだったからです。

15節「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した」

イエス様を釈放するのか、それともバラバを釈放するのか、その判断は、最終的には、「群衆を満足させるため」という目的のために決められました。いかにして人々を満足させるか、これがピラトの生き方であったということです。私たちも、もし何が正しいことなのか、誰が正しい人なのかを知っていたとしても、他の人を喜ばせようとし続けるならば、正しい判断をすることができません。これは、日常の小さな事柄の決断においてもそうですが、神の子であるイエス様を釈放するか、死刑とするか、というような、最も重要な決断においてはなおさらのことです。そしてそのようにして下された決断の責任は、どんな理由があったとしても、自分で負わなければならないものです。

ピラトは、マタイによる福音書では、群衆の前で手を洗い、「この人(イエス様)の血について、わたしには責任がない」と言ったということです。イエス様を「十字架につけろ」と要求したのは群衆であって、自分ではない、だから自分には責任がないと言っているのです。しかし、ピラトがこの地域の支配者として、イエス様の十字架刑の決定を下したという事実には変わりありません。彼の罪によって、イエス様は十字架につけられるために引き渡されてゆきました。

初代の教会の中でまとめられた信仰のエッセンス、最も重要な事柄をまとめた「使徒信条」というものがあります。「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず・・・」で始まるこの使徒信条は、今でも、教派を超えて世界中の教会で用いられています。その中に、次のようなくだりがあります「(主は)ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ・・・」。あまり人名が出てこないこの使徒信条ですが、ピラトの名前ははっきりと記されています。その理由は何でしょうか。それは、このピラトという人が下した一つの決定である十字架刑、この決定の重さを指し示していることだと思います。ユダヤ人ではない異邦人の一人の支配者に過ぎないピラトによって、イエス様の十字架刑は確定されました。そのことによって彼の名は、世々に渡って覚えられるものとなりました。

ピラトは、イエス様が本当は罪のない方であると知りながらも、人々の要求に屈して、神の子を十字架刑に定めるという本当に重い決定を下してしまいました。そこにどんな理由があったとしても、彼はそのことの責任を負わなければならなくなりました。これは、私たちについても、同じことが言えると思います。私たちは、信仰を持っていてもなお、イエス様の十字架の出来事を見る時に、それをどこか他人事のように思ってしまうことがないでしょうか。しかし、イエス様が十字架につけられたのは、まさに私の罪のゆえであり、その意味では私もイエス様を十字架につけるという限りなく重い罪に加担するものとなった訳です。

私たちは日々、様々な罪を犯して生きていますが、その時、私たちはイエス様が十字架につけられるという今日の聖書の場面にともにいて、そして、ピラトや他の人々と同じように、イエス様を十字架につけるという本当に大きな罪を犯している者であるということを覚えることができます。そのような意味で、私たちはやはり、このピラトと同じように、自らの罪の責任を負わなければならない者です。

 

しかし今日の箇所は、イエス様を十字架につける私たちの罪の深さを示していると同時に、その十字架によって、私たちの罪が完全に赦されるものとなったという神の恵みを伝えています。それは、全く罪のないイエス様に代わって、バラバという囚人が釈放されたという姿に見ることができます。このバラバは、強盗、人殺しの疑いで投獄されていた人でした。実際にどのような罪を犯したのか、はっきりとは分かりませんが、このように重い罪で投獄されていた囚人が、イエス様の代わりに釈放されたということ、これはイエス様が十字架にかかられたということは、すべての人の罪を贖い、その罪の束縛から解放するためであったという恵みを伝えています。

バラバはこの時、その事の重大さを理解しなかったかもしれません。けれどもイエス様が自分の身代わりとして十字架にかかられ、そして三日目によみがえられたということを知った時、きっと自らの罪の深さを悔い改めたのではないかと思います。

私たちも、自分の罪の身代わりとしてイエス様が十字架にかかって下さったということを知る時、そしてそのような私はイエス様を十字架につけた者であるということを知る時、その罪の深さを思い知るとともに、そのような私を救ってくださったイエス様の十字架の恵みを知る者となります。どんなに罪を犯しても、私たちはイエス様の十字架によって、バラバが釈放されたように、まったく無条件で、罪赦され、罪の束縛から解放されることができます。私たちは日々、直面する罪の出来事を通して、自分はイエス様を十字架につける罪を犯す者なのだということをもう一度思い返すよう招かれています。そして、その十字架によって、私たちの罪が完全に赦されたということを感謝する者でありたいと思います。