創世記25章1~11節
旧約時代の終わり近くまで、死後の意義ある生の概念は、存在しなかったのです。従って、死はほとんど終わりそのものでした。死は、すべての人に訪れるのであって、それはアブラハムにも、私たちにもやってきました。その際、アブラハムのように「長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死ねるかどうかです。アブラハムの息子イサクとイシュマエルは、父を妻サラと共に葬りました。死を越える生 (復活) を信じるキリスト者であっても、死を肯定的に受け入れることはむずかしいと思います。それは、日本人が伝統的に死を忌み嫌うものとしているからでしょう。旧約の人々は、キリストを信じる信仰を持ち合わせていませんでしたが、それでも、彼らは死を現実的な事柄として捉え、勇敢に立ち向かうことができました。それは、死の現実性と尊厳をもって受容することができていたからだと思います。また、彼らが永遠を垣間見ることができるのは、それは、唯一、永遠であられるお方にしっかり結びついていたからでしょう。キリスト者にとって、十字架にかかり復活された主イエス・キリストを信じる信仰こそが、人間の思いをはるかに越えて働かれる神と結びつくことができるのです。
2018年8月26日 加山彰一